2013年6月9日日曜日

6月8日、朝ミサ説教:驚きと見守り、神の言葉をもって人生を読む


朗読個所  : 聖母のみ心(記)
         イザヤ61・9-11
         ルカ2・41-51

バチカン、6月8日15時28分(バチカンラジオ)
 
  マリアのように、神の言葉を受け入れ、それを見守ることを学びましょう。これは、マリアの聖心を記念したこの6月8日土曜日の朝ミサで、聖マルタの家でパパ・フランシスコが形にした招きである。パパは、マリアが神の言葉をもって人生を読むが、それはまさに見守るということを意味する、と強調した。

 今日のミサには国際カリタスの協力者の一団が、総秘書のミチェル・ロイ氏に伴われて参列した。
 
 驚きと見守り:パパは今日のその説教を、この二つの名から発展させた。この機会に、今日の聖書個所は神殿でイエスに耳を傾ける律法学者たちの驚きと、神のことばをその心に収めるマリアの驚きを語っている。教皇の見解によれば、「その驚きは、むしろ喜びの驚きです。それは神のことばが訪れ、わたしたちの心に種のように蒔かれる瞬間です」。けれど、「いつも驚いてばかりで生きて行くわけにはいきません」と忠告した。このことは「それを見守る、という形で生活に持っていかれなければならないのです」。そしてまさにそれは「驚き、神の言葉を見守った」マリアがしていることなのである。

 「神の言葉を見守る。これはどういうことを言おうとしているのでしょうか?言葉をもらって、ビンを手に取り、そのビンにことばを入れて、見守るのでしょうか?違います。神の言葉を見守るというのは、わたしたちの心が開かれることです。ちょうど(耕されて)地面が開いて種を受け入れるように、神の言葉に対して心が開かれた、ということなのです。神の言葉は蒔かれた種なのです。そしてイエスはその種にどのようなことが起こるかについて語りました。ある種は道を行く間に落ち、鳥が来てそれを食べてしまう。このみ言葉は見守られなかったのです。そうした心はこれを受け入れることができなかったのです」。

 続けて言った。「他の種は岩のゴツゴツした土地に落ちて種が死んでしまいます。そしてイエスは言います。『こうした人々は継続性がないので神の言葉を見守ることができない。ちょっとした困難があると忘れ去ってしまう』と」。パパによれば、神の言葉は、茨の茂った準備されていない土地に落ちても、見守られない。ではその茨とは何のか、フランシスコの強調によれば、イエスは富や悪い癖への執着にあると言う。ここに、「神の言葉を見守ると言うのは、人生に生じることをもとにこの言葉がわたしたちに何を言っているのかを黙想することを意味する、ということが出てきます。そしてマリアはそのことをしていたのです。黙想し、対照を行っていました」。これは「霊的な大仕事です」。

 「ヨハネパウロ二世はこの仕事について語っていましたが、マリアはその心に特別な飢えを抱いていました。飢え渇く心をもっていたのです。けれどこれは渇望ではありません。飢えなのです。一仕事あるのです。神の言葉の見守りはこの仕事をもってなされるのです。この瞬間のこうしたことは何を意味するか、この瞬間に主は何をわたしに言おうしているのか、神の言葉を前にするとこうした状況はどう理解されるのか、ということを探し求める仕事です。神の言葉をもって人生を読むこと。これが見守ると言うことの意味するところなのです」。

 けれどまた、思い出す、ということでもある。「思い出すことも、神の言葉を見守ることです。自分の人生に主が行ってくださったすべての働きを思い出すことは、わたしたちがみ言葉を見守る助けになります」。さらに教皇は焦点を絞って言った。「その民における、またわたしの心の中における救いの不思議なわざすべてをわたしたちに思い出させます」。パパはその説教を次のような招きでまとめた。「鳥が歩みにおいてそれを食べてしまわないように、また悪い癖がそれを枯らしてしまわないように、どのように神の言葉を見守るのか、どのようにこの驚きを心にとどめておくのかを黙想しましょう。

 「わたしたちのことを見守ると言うことは、わたしたちの益になることです。『人生の出来事をもって、自問します。“この瞬間に、神の言葉をもって主はわたしに何を言っておられるのだろうか”と。これを神の言葉を見守ると呼ぶのです。神の言葉とは、あらゆる瞬間に主がわたしたちに下さるものです。このことをもってみ言葉を見守ること。わたしたちの思い出をもってこれを見守ること。またわたしたちの希望をもってこれを見守ること。主に神の言葉を受け入れる恵みとそれを見守ること、またこの見守りにおいて飢える心をもつ恵みを求めましょう。なれかし(アーメン)」
 (RC-RV)

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