2013年6月19日水曜日

6月17日、朝ミサ説教:キリスト者の安定は『すべて』であるキリストにある。その他は『何ものでもない』

朗読個所  : 二コリント6・1-10
          マタイ5・38-42

バチカン、6月17日16時3分(バチカンラジオ)
 
 キリスト者にとって、イエスは『すべて』であり、そこからその寛大さが出るのです。こうパパ・フランシスコは聖マルタの家での月曜日のミサの中で強調した。パパはイエスがもたらす正義は律法学者たちの、目には目を、歯には歯をという正義よりも上を行っていることを思い出させた。

 ミサには、アッティロ・ニコラ枢機卿が共同司式に立ち、様々な人々が参列したが、中でも財政情報化の権威の同業者、運営委員長であるパオロ・ニコリーニ卿に率いられた協力者が見受けられた。またマニラの大司教であるルイス・アントニオ・タグレ枢機卿も同席していた。

 「もしだれかがあなたの右の頬を打つなら、もう一方も差し出しなさい」。パパはその今日の説教を弟子たちに向けたイエスの強いことばを中心にして語った。教皇の見解によれば、打つ話は、「キリスト者をバカにして笑うための古典的な議論の対象となりました」。人生において、「ふつうの論理構造は」わたしたちに「戦わなければならないこと、わたしたちの姿勢を守らなければならない」ことを教えます。そしてもし一回殴られたら「こちらは二回殴って、身を守ろうとします」とわたしたちに教える。その他の人々には、両親に、自分の子供たちを叱る時に助言するのは「頬にはダメ」といつも言います。なぜなら「頬は尊厳だから」です。イエスは一方で、頬へのビンタの後で、マントを与えることも続け、願います。すべてを脱ぎ去ることを、です。

 「主がもたらす正義とは、目には目を、歯には歯をという正義感とは正反対のものです。それは別の正義なのです」とローマ司教は確言した。そしてこれは、聖パウロが「何も持っていないようでありながらすべて持っている人々」としてキリスト者について語る時に理解できるものである、との見解を述べた。そこでここに、キリスト者の安定はこの「すべて」、つまりイエスに見出される、ということが成立するのである。付けくわえて言った。「イエスは『すべて』なのです。他のものは、キリスト者にとっては『何ものでもない』のです」。「一方、世の精神からすれば『すべて』というのは物質にあります。富や虚栄、もっともよい地位に就くことであり、イエスは『何ものでもない』のです」とパパは忠告した。そのためもしキリスト者が10キロ歩くように言われて100キロ歩くことができるのは、「それは彼にとっては『何でもない』からであり、余裕で長じゅばんを求める人に羽織まであげることができるのです」。ここに「キリスト者の開かれた従順が常に伴う寛大さの秘訣があります。そして『すべて』とはイエス・キリストなのです」。

 「キリスト者はこの寛大さをもって自分の心を拡げる人です。なぜなら『すべて』であるイエス・キリストをもっているからです。他のことは『何ものでもない』のです。良いものですし、役に立ちますが、何かに向き合わなければならない時には、あの開かれた従順をもって、あのキリスト者の従順、イエスの弟子としてのしるしをもっていつもその『すべて』を選ぶのです。開かれた従順と寛大さ。そしてそのように生きることは簡単ではありません。まじめに張り手打ちを食らうことがあるからです。でしょう?打たれるものなのです。しかも両方の頬を。けれど、キリスト者は従順です。キリスト者は寛大です。その心を拡げます。けれど狭まった心、折れ曲がった心、機能しない心をもったキリスト者に出会う時…それはキリスト教ではないのです。これはキリスト教の仮面をかぶった利己主義なのです」。

 「本物のキリスト者は、この対極にあること、この『すべて』と『何ものでもないこと』の間にある緊張を、イエスがわたしたちに助言したように解決することができるのです。『何よりもまず神の国とその義とを求めなさい。それ以外のものは後から付いてくる』と」。

 「神の国が『すべて』であり、それ以外のものは二義的であって主要ではないのです。そしてキリスト者の過ちのすべて、教会の過ちのすべて、わたしたちの過ちのすべては、ここから生まれます。『何ものでもないもの』に対してそれを『すべて』と呼び、『すべて』である方を、意味のないもののように感じることからです。イエスに従うことは簡単ではありません。簡単ではないのです。けれど難しいとも言えません。なぜなら愛の歩みにおいては主が物事を、わたしたちが前進できるような形に変えてくださるからです。主自らがわたしたちの心を拡げてくださるのです」。

 加えて言った。「これがわたしたちがすべき祈りです。こうした張り手打ちや羽織を求められること、100キロ歩くように言われること、というような提案を前に、主にわたしたちの心を拡げ、寛大に、開かれた従順をもった人に慣れるようにと求めなければならないのです。そして日々の矮小なこと、『何ものでもないもの』を得るために努力することのないようにと祈るのです」。

 「人はあの家族や友人関係、社会における対立から生まれる選択肢である、『何ものでもないもの』に賭ける時、『何ものでもないもの』のせいで戦争に終わってしまうのです。『何ものでもないもの』がいつでも戦争の種になっているのです。なぜならそれは利己主義の種だからです。『すべて』である方はあの偉大な方、イエスです。主に、わたしたちの心を拡げ、わたしたちを謙虚、従順、寛大にしてくださるように願いましょう。なぜなら主のうちにわたしたちは『すべて』を手にしており、主がわたしたちを『何ものでもないもの』を取り巻く日々の問題から守ってくださるからです」。 
(RC-RV)

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