2013年6月2日日曜日

6月1日、朝ミサ説教:スキャンダルにはならない、貧しい人たちの中にキリストの肉体を見出すから


朗読個所  :  シラ51・12-20
          マルコ11・27-33

バチカン、6月1日19時54分
 「教会は文化センターではなく、『イエスの家族』なのです」。聖マルタの家の小聖堂で祝われたいつもの朝ミサの中での説教で今朝パパ・フランシスコはこのことを強調した。

 ローマ司教は、キリスト者は十字架のスキャンダル(つまずき)をもって生きることに恥を感じてはならないと確認し、「世の精神によってとらわれた」ままでいることのないようにと勧告した。

 ミサには、ラ・ハバナの大司教であるハイメ・ルカス・オルテガ・イ・アラミノ枢機卿が共同司式で立ち、このミサに、聖座付きの人々が列席した。

 「何の権威で、このようなことをしているのか?」(マルコ11章28節)。パパ・フランシスコはその説教を、律法学者や祭司長たちによってイエスにむけられた問いから始めた。「今一度、彼らは主に『罠』を仕掛けようとしています。なんとかして隅に追い詰めよう、間違わせるようにしようとしています」。パパは問いかけた。「しかし、この人々にとってイエスの何が問題だったのでしょうか?彼の行った奇跡にあったのでしょうか?」と。そして「そうではありません。これではないのです。実際、この人々にとってスキャンダルだった問題は、イエスに向かって悪魔が叫んだ言葉、『お前は神の子だ!お前は聖なる者だ!』という言葉にあったのです。これが中心です。これがイエスのスキャンダルを引き起こしたのです。イエスが神であるという事実が、受肉した者であるということが」と確言した。

 「わたしたちにも、生きている間罠が張られます」とフランシスコは続けた。「この教会のスキャンダルを引き起こすのは、み言葉の受肉の神秘にあるのです。そしてこのことが耐えられない、悪魔はこのことに耐えられないのです」。

 「何度こういうのを聞いたでしょう。『でもあなたたちキリスト者のみなさん、もうちょっと他の人のようにまともになりませんか、合理的に!』。まさにこれがヘビの心をくすぐる理屈です。『でもそうしたほうがいいんじゃないの?もうちょっと普通になるというか、そんなに厳しくないように・・・』と。けれどこの裏には、「神が人となったなんてお話を持ってくるな!」という言葉が暗に秘められています。み言葉の受肉、これがその裏にあるスキャンダル(厄介なこと)なのです!わたしたちはいくらでも社会事業を行うことができます。そして人々は『あぁ、教会はいいことをしていますね。教会がいい社会事業をしている』と言うでしょう。けれどもしわたしたちがこのことをするのはその人々がキリストの肉体だからだと言えば、スキャンダルを生むのです。そしてこれこそが真実なのです。これこそがイエスの啓示したことなのです。その受肉したイエスの存在が」。

 そして「これがポイントです。受肉したみ言葉のスキャンダルのない、十字架のスキャンダルもない善行を行う誘惑はいつでも存在するでしょう」とパパは強調した。一方、「このスキャンダルに対して一貫性を持つべきです。このスキャンダルをもたらす現実に対して」。「こうあったらもっとよいのです。信仰における一貫性です」。その後、使徒ヨハネが確認していることをパパは思い返させた。「肉体を持ってみ言葉が来られたことを否定する人々は、反キリストの人々です。彼らは反キリスト者なのです」。「一方で、み言葉が肉において来られたことを告げる人々のみが聖霊からの人々なのです」とフランシスコは述べた。教父は同様に「このことを考えることはわたしたちすべてにとってよいことでしょう。教会は文化センターではなく、宗教的でありながら社会的な組織なのだ、と言うことを」と確認した。

 「教会はイエスの家族なのです。教会はイエスが肉体において来られた神の子であることを告白します。それはスキャンダルで、このことのためにイエスは迫害されたのです。そしてついに、イエスはこの人たちに自分が「何の権威をもってこのようなことをするのか」について言いたくなかったけれど、祭司長に言うのです。『はっきり言いなさい。お前は神の子なのか』という問いに対して『わたしはそうである』と。このために、死刑の宣告を受けます。これが迫害の中心です。もしわたしたちが合理的なキリスト者になるなら、社会的キリスト者になるなら、慈善事業(チャリティー)だけのキリスト者になるのなら、そのもたらす結末は何でしょう?もう殉教者はいなくなります。それが結末です」。

 「一方、わたしたちキリスト者が、この『神の子が肉となって来られた』という真実を述べる時、わたしたちが十字架のつまずきを宣べ伝える時、迫害が訪れます。十字架が訪れるでしょう」とパパは続けた。そしてこれは「よいことなのです。これがわたしたちの命なのです」。

 「この十字架のつまずきを恥ずかしがらないように、主に願いましょう。そして知恵をも求めましょう。いつもわたしたちによくしつけられた提案、教養人、町に住む人の提案、よい提案だけれどその裏にまさにみ言葉が肉において来られたこと、み言葉の受肉の事実の拒否がある提案をしてくる世の精神に捉われたままでいないための知恵を求めましょう。最終的に、これがイエスを迫害した者たちをつまずかせたこと、破壊すること、悪の仕業だからです。アーメン」。 
(マリア・フェルナンダ・ベルナスコーニ – RV).

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