2013年6月28日金曜日

6月27日、朝ミサ説教:キリストのいないキリスト者ではなく、岩、つまりイエスに基礎をおいたキリスト者になるように

朗読個所  : 創世記16・1-12、15-16
          マタイ7・21-29

バチカン、6月27日18時16分(バチカンラジオ)
 
 キリスト者の衣をまとっているが、極端に表面的に生きたり、厳格すぎたりする罪を犯し、本当のキリスト者はキリストという岩への信仰に基礎をおいた喜びの人であることを忘れている人がいます。これが聖マルタの家の小聖堂で今朝捧げられたミサの説教の間にパパ・フランシスコがその考えの深みに抱いていたものである。

 教皇との共同司式に上がったのは、ブラジルはアパレシーダの大司教であるライムンド・ダマッセーノ・アッシス枢機卿と数人の司教たちである。このミサに、パトリツィオ・ポリスカ医師に率いられたバチカンの健康と生理指導局の従業員が参列した。

 厳しく悲しい人たち。または明るいけれどキリスト者の喜びについてのイメージを知らない人たち。この二つは、ある意味で対照的な信者の二つのカテゴリーで、両方とも重大な欠陥があるいわば「家」である。口先のキリスト教をもとにし、キリストの言葉という「岩」に基盤を置いていないのである。パパ・フランシスコは、マタイ福音書のコメント、具体的には砂の上に建てられた家と岩の上に建てられた家の有名な個所のコメントをするにあたり、この二つのグループのそれぞれの説明をした。

 「教会の歴史の中には、二種類のキリスト者がいました。口先のキリスト者、『主よ、主よ、主よ』のキリスト者と、行動の、真理におけるキリスト者です。いつでもわたしたちのキリスト教主義をキリストである岩の外で生きる誘惑というものは存在していました。神に向かって『父よ』と言うための自由を下さる唯一の方はキリスト、あるいは岩です。彼のみが困難な時にわたしたちを支えてくださる方です。でしょう?イエスが言っているように、雨が降り、川があふれ、風が吹き荒れたけれど、岩があれば、安全です。もし口先の言葉なら、言葉は飛んでいき、役に立ちません。けれどこうした口先のキリスト者、イエスのいないキリスト教の誘惑は、キリストのいないキリスト教です。そしてこうしたことはかつても起こったし、今日でも教会の中で生じることです。キリストのいないキリスト者になる、ということが」。

 パパはこうした「口先のキリスト者」にさらに近づいて分析を行い、その具体的な特徴を示した。「まず最初のタイプ、『グノーシス(知識者)』と定義されているタイプがあります。これは岩を愛する代わりに、美辞麗句を愛します。そのため、キリスト教の生活の表面に浮かびあがって生活をします。それから、もう一つのタイプがあります」と、フランシスコはこれを「ペラギウス的」と呼びながら話した。「そこにはまじめでぎっちり詰まった生活スタイルをするものです」。パパは皮肉を交えて言った。「床を眺めてうなだれて生きているキリスト者です」。

 「そしてこの誘惑は今日も存在しています。表面的なキリスト者、神を信じ、キリストを信じてはいるけれど、あまり『散漫に』信じているキリスト者、キリストと言っているけれど、基盤を与えるイエス・キリストではない何か別のものを信じているかのようなキリスト者。こうした人たちは、近代のグノーシス主義者と呼べるでしょう。グノーシス主義の誘惑です。『液体的な』キリスト教です。一方、キリスト教の生活をあまりにまじめに捉えるべきだと思っていて確かさや堅固さを厳格さと取り違えてしまう人々です。こうした人々はキリスト者であるためには、いつでも喪に服しているようでなければならないと思っています」。

 ローマ司教は続けて「こうしたタイプのキリスト者はたくさんいます」と言った。しかしこれに反して「そうした人たちはキリスト者ではなく、キリスト者の衣をまとった人たちなのです」と言った。強調して言った。「主とはいったいどのような方なのかを知りません。岩とは何かを知りません。キリスト者の自由を持っていないのです。そして、単純な言い方をすれば、喜びを抱いていないのです」。

 「最初のグループはある種の表面的な『喜びを』持っています。他の人はいつでも(敬虔に)通夜に通っているかのように生きていますが、キリスト者の喜びとは何事かを知りません。イエスがわたしたちに下さる命を喜ぶことを知りません。なぜならイエスと話すすべを知らないからです。イエスの現存がくださるその確かさをもって、イエスについて何かを感じることがないのです。そして喜びがないだけではなく、自由がありません。こうした人たちは表面性の奴隷、この散漫な生き方の奴隷、あるいは厳格さの奴隷で、自由ではないのです。その生活において、聖霊がその居場所を見出すことができなくなっています。聖霊こそがわたしたちに自由をもたらす方なのですよ!主は今日、自らの上に、つまり岩の上に、自由をわたしたちに下さる方の上に、聖霊をわたしたちに送ってくださる方の上に、あなたが喜びをもって主の道を、主が差し出される恵みの中で前進できるようにしてくださる方の上に、わたしたちのキリスト者としての生活を打ち立てるようにと招いておられるのです」。 
(マリア・フェルナンダ・ベルナスコーニ – RV).

0 件のコメント:

コメントを投稿