2013年6月28日金曜日

6月28日、朝ミサ説教:神の忍耐の神秘について、歩みにおいて、わたしたちの歩調で歩む方

朗読個所  :  創世記17・1、9-10、15-22
          マタイ8・1-4

バチカン、6月28日16時00分(バチカンラジオ)

 
  主はわたしたちに、いつもその主の現存の中を歩みながら、忍耐強く、とがめられるところないようになることを求めています。これが今日の聖マルタの家でのミサ中のパパ・フランシスコの回想であった。パパは主がわたしたちの人生に入ってくる独自の方法をとり、ここにはわたしたちの側の忍耐が必要であること、なぜならいつでもそれがわたしたちに分りやすいとは限らないからであることを強調された。

 ミサには色々な参列者がいたが、なかでもバチカンの健康生理部の従業員が、その長官であるパトゥリツィオ・ポリスカ医師と共に参列した。

 主はアブラハムの人生にゆっくりと入っていく。主が彼に子どもができることを約束したのは彼が99歳の時であった。一方、らい病患者の人生には一瞬で入りこむ。イエスはその祈りを聞き、彼に触れ、こうして奇跡が起こる。教父は今日の第一朗読と福音に触れながら、主がどのように「わたしたちの人生、その民のいのち」に献身することを選ぶのかについてコメントした。アブラハムとらい病患者のことである。「主がこられる時、いつも同じ仕方というわけではありません。わたしたちの人生における神のはたらきには治療の実施要項なるものはないのです」とパパは見解を述べた。「そんなものはありません」。改めて、パパは言った。「ある時には一つのやり方があり、他の時には他のやり方があるのです」。しかし、いつも何かをなさる。「いつでも、わたしたちと主との間のこうした出会いがあるのです」と強調した。

 「主はわたしたちの人生に入ってくる独自の方法をいつも取ります。ほとんどの場合これを本当にゆっくりと行います。わたしたちが忍耐を失う危険に陥りそうなぐらいにゆっくりと、です。『しかし主よ、いつですか?』そう言って祈っては祈って・・・・・・。そしてそれでもそのわたしたちの人生の介入がなくて。他の場合では、あまりに主が約束なさることが大きくて、わたしたちが少し不信に満ちていて、すこし懐疑主義者になっていて、アブラハムのように、少し隠れながら、笑ってしまうのです。……第一朗読は、アブラハムがしゃがみ込んで笑い始めたと語っています。ちょっとした懐疑主義です。『100歳もしている男に子どもが生まれるものだろうか?90歳のサラが子どもを産むことができるものだろうか?』と」。

 同じ懐疑主義は、サラも持つことになる、とフランシスコは思い出させた。マムレの木のところで、三人の神の使いがアブラハムに同じことを言う時である。「何度、主が来られない時、奇跡を行わない時、してほしいことを主がしない時、わたしたちは忍耐を切らしたり懐疑的になったりすることでしょう」と教皇は考えをめぐらした。

 「けれど、懐疑主義者には奇跡を行いません。できないのです。主は時間をかけます。けれど彼は、わたしたちとのこの関係において、実に忍耐深いのです。わたしたちが忍耐をもたなければならないだけではなく、イエスが忍耐をもっているのです!イエスがわたしたちを待っておられるのです!そしてわたしたちを待つのです、命が尽きるまで!よい泥棒について考えてみましょう。まさに最後の最後に、神を認識しました。主はわたしたちを共に歩きますが、多くの場合わたしたちの目に映らないようになっています。ちょうどエマオへ行く弟子たちの場合と同じです。主はわたしたちの人生に献身しています。このことは確かです!けれど実に多くの場合私達にはそれが見えないのです。このことはわたしたちに忍耐を求めます。けれどわたしたちと共に歩む主は、主ご自身もわたしたちに実に大いなる忍耐をもっているのです」。

 ローマ司教は「神の忍耐の神秘とは、歩みの間、わたしたちの歩調で歩むことです」と回想した。人生の中である時には、「ものごとがあまりに暗くなり、困難にある場合、あまりの暗さに十字架からおりたいという気になってしまうのです」と注意を促した。「このことは、ちょうどの時なのです。夜が一番暗くなる時に、曙が近づいているのです。そして十字架から降りる時というのはいつも、解放が訪れる時のほんの五分前なのです。それが忍耐の足りなさが最も大きい時間なのです。

 「十字架の上でイエスは、自分に挑戦してくる人々の声を聞いていました。『降りてしまえ!降りなさい!来て!』。最期のときまでの忍耐。なぜなら主がわたしたちに忍耐強いからです。彼はわたしたちに献身しています。けれど、それをご自分のやり方で行い、彼が一番よいと思った時になされるのです。ただわたしたちに、アブラハムに言ったのと同じ言葉をかけるのです。『わたしの現存の中に歩み、完璧でありなさい』、非の打ちどころのないものでありなさい、これが正しい言葉です。わたしの現存の中で歩み、非の打ちどころのないものになろうとすること。これが主との道であり、主が介入しますが、わたしたちは待たなければなりません。時が来るのを、いつもその現存のうちに歩み、なんとかして非の打ちどころのないものとなろうとしながら待ち望まなければならないのです。主にこの恵みを求めましょう。主にこの恵みを求めましょう。非の打ちどころのないものとなろうと努めながら、主の現存のうちに歩む恵みを。 
(MZ,RC-RV)

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