2013年6月16日日曜日

6月15日、朝ミサ説教:キリスト者は自分の平和は考えず、キリストの平和を世に告げ知らせている

朗読個所  : 二コリント5・14-21
          マタイ5・33-37

バチカン、6月15日19時29分(バチカンラジオ)
 
 キリスト者の生活は「天国に行くまで平和であること」にあるのではなく、世に出て父と人々とを和解するために「自らが罪となった」イエスを告げ知らせることにあります。パパ・フランシスコはこれを今朝の聖マルタの家の小聖堂で捧げられたミサの説教中に語った。

 ミサにはヨゼフ・ゼン・ゼ・キウン枢機卿、ベルギー教皇大使のユスト・ミュロル卿とルク・ヴァン・ロオイ・デ・ジェント司教、ローマ名誉補佐司教エンソ・ディエチ卿、そしてペルー教皇大使のサンタルシエロ・デ・ウアチョ卿が共同司式に上がった。

 「けれど和解とは何なのでしょうか?こちらから一つとって、あちらからも一つとって、一つになるようにすることでしょうか?違います。ある部分はそうですが、違うのです……。本当の和解とは、神が、キリストにおいて、わたしたちの罪を受け取り、神がわたしたちのために罪(訳者注:忌み嫌われるべき死への定め)となってくださったことにあるのです。そして、たとえばわたしたちがゆるしの秘跡を受けに行く時、わたしたちが罪をしゃべって神がわたしたちを赦す、ということではないのです。違います。これではないのです!わたしたちはそこでイエス・キリストに出会い、イエスにこういうのです。「この罪はあなたのものになります。そしてわたしはまたもやあなたを罪に定めてしまいます」と。そしてイエスはこのことを好みます。なぜならそれを自分の使命としたからです。わたしたちのために、わたしたちを解放するために自らを罪とすることを」。これがイエスが達成した贖いの美しさであり「スキャンダル(つまずき)」でもあるのです、とフランシスコは言った。

 「けれど哲学者たちは、平和とは秩序におけるある種の平穏のことであると言います。すべてのことが秩序立てられており、平穏である状態……。それはキリスト者の平和ではありません!キリスト者の平和はじっとしていられない平和なのです。落ち着きはらう平和ではないのです。それはじっとしていられない平和、つまりこの和解のメッセージを伝え続けるために前進していくものなのです。使徒的熱意とは、新加入者を増やして、今年はキリスト者の数があの国で増え、こういうムーブメントがはやった、というような統計を取るために前進することではないのです。統計は良いものです。助けになります。けれど神がわたしたちに求めていることではないのです。新加入者を作る、ということではないのです。主がわたしたちに求めていることは、まさに、主のメッセージの独自の核であるこの和解の宣言にあるのです」。

 パパの説教の最後の言葉はパウロの内面の緊急性を描き出すものとなった。フランシスコは執拗な形で繰り返し、キリスト者の生活の支柱を定めるものは何かを語った。つまり、「キリストがわたしのために罪となられた!そしてわたしの罪はそこに、キリストの体のうちに、キリストの魂のうちにあるのだ!これは気違いじみているけれど、美しく、そして真実だ!」ということである、と。

 「これが十字架のつまずき(スキャンダル)なのです!主に、イエスと告げ知らせるためのこの注意深さを与えてくださるように願い求めましょう。そのまさに、貫かれた、愛のために貫かれた脇腹から生まれたキリスト教のその知恵を少しでも与えてくださるように願いましょう。そしてまた、キリスト者の生活はターミナルケア、つまり天国に行くまで平和でいる、ということではなく、パウロの緊急性をもって歩みのうちにあり、命のうちにあることに少しでも納得できるようにとも願いましょう。キリストの愛がわたしたちを所有しています。けれどその愛は、神がわたしたちを愛しているということを知る時に感じる感動をもってわたしたちを促し、わたしたちを駆り立てるのです。この恵みを祈り求めましょう」。
(マリア・フェルナンダ・ベルナスコーニ – RV).

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