2013年6月21日金曜日

6月20日、朝ミサ説教:心に敵を抱いているならば父への祈りは祈りにならない

朗読個所  : 二コリント11・1-11
          マタイ6・7-15

バチカン、6月20日19時30分(バチカンラジオ)
 
 主の祈りを唱える時、わたしたちの兄弟たちとの心を平和のうちに持たなければなりません。これが聖マルタの家の小聖堂において祝われた朝ミサの説教でパパ・フランシスコが今朝確言したことである。パパは、わたしたちは父であり、わたしたちの「とても近くに」いて、無名でも、「宇宙のような神」でもない神を信じている。

 このミサで、ゼノン・グロコレフスキー枢機卿が共同司式に上がり、教育省の協力者のグループや、バチカン美術館の協力者たちが参列した。

 祈りは魔術ではなく、父の腕に委ねる。フランシスコはその説教を、今日の福音が語っているように、イエスが弟子たちに教えた主の祈りを中心に繰り広げた。そして「イエスはすぐに祈りについての助言をします。つまり、言葉の乱用にも、騒ぎ立てるようなものにもならないように」と言った。「騒ぎ立てるというのは、俗っぽいことの特徴です。虚栄のざわめきです」。そして「祈りは魔法のようなものではありません。祈りで魔術をすることはないのです」と忠告した。

 ローマ司教は続けて言った。「ある人がわたしに言いました。『占い師(魔術師)』のところに行くと、癒しのためにたくさんの言葉を言うのだ、と。けれど、それは『異邦』的です。わたしたちには、イエスが教えていることがあります。『神のもとにたくさん言葉を連ねて向かってはならない』と。なぜなら『すべて知っておられる』からです」。そして加えて言った。「最初の言葉は『お父さん』です。これは祈りの要です。このことを言わずに、この言葉を感じずに祈ることはできません」と教皇は忠告した。

 「誰に祈るのでしょう?全能の神に祈るのでしょうか?あまりに遠い存在です。あぁ、これではわたしは味わうことができません。イエスですらそのようには感じていませんでした。誰に祈るのでしょう?宇宙のような神でしょうか?最近はやりですよね?宇宙のような神に祈るのは。違いますか?この『ちゃらい(Lightな)』文化に到る多神教的な言い回し……。あなたはお父さんに祈らなければなりません!お父さん、というのは強烈な言葉です。あなたは自分を生み出してくださった方に祈らなければならないのです。あなたに命をくださった方に祈るのです。すべての人を生んでくださった、という表現ではありません。『すべての人の』父というのはあまりに神を無名な誰かにしてしまいます。あなたにとってのお父さん、私にとってのお父さんなのです。そしてまた、あなたと歩みをともにしてくださるお父さんに祈ります。あなたの人生すべてを知っておられるお父さんに祈るのです。すべて知っておられる方です。良かったところも、そんなに良くなかったところも。すべて知っておられます。もしわたしたちが祈りをこの言葉から始めないならば、口先だけでなく心から言わないならば、キリスト者として祈ることができないのです」。

 「お父さん、という言葉は強烈な言葉ですが扉を開きます」とパパは再確認した。「犠牲をささげるとき、イサクは何かが足りないことに気づきました。(犠牲のための)ヒツジが足りなかったのです。けれどその父(=アブラハム)に信頼し、自分の心配を父親の心に任せました」とパパは言った。そして加えた。「お父さん、という言葉はまた、あの財産を持って行ってしまった息子を語ることを思わせる言葉です。彼はそのあと家に戻りたいと望みました。そしてあの父は家に着こうとしているのを見て、家から出て走って出会いに向かいます。首に抱き着き、愛をもって彼に覆いかぶさります。そして息子は『父よ、私は罪を犯しました』と言います」。フランシスコは再確認して言った。「お父さんに愛されていると感じること、これこそあらゆる祈りの要なのです」。

 「わたしたちには一人のお父さんがいます。超(この上なく)近くに!ほら!わたしたちを抱きしめてくれます。こうした渇望のすべて、持ちうるあらゆる心配事を、お父さんの所に置いてきましょう。彼は私たちが何を必要としているかを知っているのです。でも、お父さんと言いますが、どんなお父さんですか?わたしのお父さん?いいえ。わたしたちのお父さんです!なぜならわたしは一人っ子ではないからです。わたしたちは誰一人として一人っ子ではありません。そしてもしわたしが人にとって強大になることができないなら、このお父さんの子になることができるのは難しいものです。なぜなら神はすべての人々のお父さんだからです。当然、わたしのお父さんではあります。けれどほかの人々の、わたしの兄弟たちのお父さんでもあるのです。そしてもしわたしが兄弟たちとの平和のうちにいないなら、神のことを『お父さん』と呼ぶことはできないのです」。パパは加えていった。「このように、イエスの行いを説明することができます。主の祈りを私たちに教えた後で、もしわたしたちが他者を許さないならば、父もわたしたちの罪を赦してくださらないだろう、と強調しておられるのです」。フランシスコは注意を促して言った。「他者を許すというのは実に難しいものです。本当に難しいのです。なぜならわたしたちはいつもその重石を内側に感じているからです。でも考えてみましょう。『あなたはわたしにこんなことをしたでしょう。ちょっと待てよ・・・わたしにしてくれた好意に答えるためには・・・』と」。

 「ほら、無理です。心に敵を抱え込んでいては祈ることができないのです。兄弟を敵として心に思い浮かべているならば、祈ることはできないのです。これは難しいことです。はい、難しいことです。簡単ではないのです。『お父さん、わたしは『お父さん』と呼べません。うまく口をついて出てこないのです』。そうですね。わたしはこのことがよくわかります。『わたしは、わたしたちの、ということができません。だってわたしにこんなことやあんなことをしてきて…できません!』『この人たちは地獄に行かなければならないでしょ?違いますか?わたしの兄弟姉妹とは呼べません!』。その通りです。簡単ではありません。けれどイエスはわたしたちに聖霊を送ってくださる約束をしてくださいました。聖霊はわたしたちに、内側から、心の中から、どのように『父よ』と呼び、『わたしたちの』ということができるかを教えてくれる方です。今日、わたしたちに、わたしたちの敵全員と平和を作りながら『父よ』と言い『わたしたちの』と言うことを教えてくださるように聖霊に願い求めましょう。
(マリア・フェルナンダ・ベルナスコーニ – RV).

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