2019年11月15日金曜日

Pope in Japan 2019 青年との集い

 11月25日の月曜日、東京のカテドラルで午前中から昼にかけて教皇を迎える青年たちのイベントがあります。
 参加される青年の皆さん、集いの最中歌われる「主は水辺に立った」と、教皇歓迎テーマソングの「Protect All Life」、そしてパパ様退堂後におまけでやりたい「Walk in the Light」を、元気に歌えるようにして来ていただけると幸いです。
 カテドラルでの演奏版でカットや歌い方など考慮して録音した、11月17日の練習版を添付します。ちょっと音のバランスに偏りがありますし、リズムもまだ練習中というのが伝わると思いますが、雰囲気をつかんでいただければ幸いです。

https://www.youtube.com/watch?v=Awgixci1kNw
https://www.youtube.com/watch?v=4FtJZQFmYWg
https://www.youtube.com/watch?v=7PhCwMzXy40

2019年1月29日火曜日

パナマ世界青年大会閉会ミサ説教と終わりの挨拶


127日(日)
ミサの説教は1:28:54-1:43:24
終わりの挨拶は2:32:14-2:35:45


「会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。そこでイエスは、『この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した』と話し始められた。」(ルカ420-21節)
 福音は、イエスの公の宣教の開始をこのように紹介しています。シナゴーグ(会堂)で行われ、イエスの知り合いや近所の人たち、おそらく子供のころに律法を教えてくれた要理担当者などもいてイエスを囲み、成長した姿を見ています。教師の人生にとって、子どもが人格形成を果たし、共同体の懐の中で成長して、自分の足で立ち、神の夢を宣言しそれを実践するためにみことばを手にするという、大切な瞬間です。その時まで、声に出して読まれた言葉は単なる将来の約束でしたが、イエスの口の中では、現在においてのみ語られうるものとなりました。現実となったのです。『今日、実現した』と。
イエスは神の今を啓示し、神はわたしたちと出会うために出てきて、わたしたちも「貧しい人に福音を、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を、圧迫されている人に自由をもたらし、主の恵みの年を告げる」(ルカ418-19節参照)という神の今の一部を成すようにと呼びかけます。それは、イエスと共に現実になり、顔となり、肉体となり、理想的な状況やその表明のための完璧な状況を待つことも、その実現のために言い訳を受け入れもしないいつくしみに満ちた愛となる、神の今です。神の今は、それぞれの状況やそれぞれのスペースをふさわしくちょうどいい機会にする神の時間です。イエスのうちにそれは始まり、約束された未来を生きたものとします。
いつですか。今ですよ。けれどあの時にイエスの声を聞いていた人たちの全員が招かれ呼ばれたと感じたわけではありません。ナザレの近所の人たちの全員が全員、知っていて、成長を見てきて、それで自分たちがずっと待ち望んでいた夢を行動に移すように招いてきた人物を信じるために準備ができていたわけではないのです。しかも、こんなことを言いました。「でも、この人はヨセフの子ではないか」(ルカ422節参照)。
わたしたちにも同じことが起こりえます。必ずしもいつも神がそんなにも具体的で、そんなにも日々の出来事で、こんなにも近く、こんなにも現実的で、さらにはこんなにも目の前で、近所の人や友だちや家族のような知り合いの誰かを通してはたらくことを信じられるわけではありません。必ずしもいつも、主がわたしたちを、こんなにもシンプルだけれど確実な仕方でその御国において主と共に働き、手を泥まみれにするようにと招きうると信じられるわけではありません。「神の愛が、その苦難と栄光の浮き沈みのすべてをもって歴史のなかに具体的でほとんど体験できるほどのものとなる」(ベネディクト16世、2005928日、一般謁見)ということを受け入れるのは難しいのです。
そしてナザレの近所の人たちのように行動してしまう機会は、少なくありません。距離を置いた神を好んでしまう。美しく、善く、寛大で、きれいに描かれているけれど距離があり、特に、厄介ごとを持ち込まない、「よく飼いならされた」神を好むのです。なぜなら身近で日々関わる神、友であり兄弟である神は、近くにいること、日々のこと、特に兄弟愛を学ぶようにとわたしたちに求めるからです。彼は天使のような表明やスペクタクルとなるような出現をしようとは望まず、兄弟であり友人、具体的で家族的な顔をわたしたちにプレゼントしたいと望まれたのです。神が本物なのは、愛が本物だからです。神が具体的なのは愛が具体的だからです。そしてまさにこの「愛の具体性がキリスト者の人生の本質的要素の一つを成すものなのです」(ベネディクト16世、200631日説教参照)。
わたしたちも、ナザレの近所の人たちと同じような危険に陥る可能性があります。わたしたちの共同体で福音が具体的な生き方になろうすると、わたしたちはこう言うかもしれません。「でもこの子たちは、マリアさんやヨセフさんの子どもじゃなかった? ○○さんの兄弟で、親せきは△△さんでしょ? この子たちは、自分たちが育ててきた青年たちじゃなかった? まぁ口をつぐんでいて。信じられるわけないでしょ。あそこの子は、いつもサッカーボールでガラスを割ってた子じゃなかった?」 このようにして、神の国の預言と宣言になるために生まれた子は、飼いならされて貧しくされてしまうのです。神のみ言葉を飼いならそうとすることも、日々の誘惑です。
しかも大好きな青年の皆さん、皆さんにも、皆さんの使命や召命、さらには皆さんの命までもが、未来のためだけで現在とは無関係の約束であると考えるたびに、同じことが起こりうるものです。将来の青年になる、ということは自分の出番が来るのを待っている待合室の同義語であるかのようです。そして、その出番の時「までの間」、生理的によく整ってはいるけれど結果の無い、よく装備されて保障されており、「確実になった」ものすべてをかかえた将来をわたしたちや皆さんが勝手に作り出すのです。わたしたちは、実験室のような将来を皆さんに提供したいとは思いません。それは喜びの「フィクション」であって、今日の、具体的な、愛の喜びではありません。そうした場合は、この喜びのフィクションをもって皆さんを「安心させ」、騒音を立てさせないように、あまり面倒をかけさせないように、自分に問いかけたりわたしたちに質問してきたりしないように、何にも疑問を抱いたりわたしたちに疑問を提示したりしないように、皆さんを眠らせるのです。そしてその「それまでの間」に皆さんの夢は飛ぶ力を失い、引きずられるようなものになり、眠りはじめます。それは小さく悲しい「夢想化」で(2018325日、枝の主日説教)、まだ自分の時間だと考えず、明日を夢見、明日働くことに巻き込まれるにはあまりに若すぎると言うだけでそうなります。そのようにして、いつまでも後伸ばしにし続けるのです。 一つ知ってますか? 青年の多くは、こういうのが好きなんです。お願いですから、そういうのを好まなくなり、対抗し、神の今を生きることを望むように青年たちを助けましょう。
この前のシノドスの実りの一つは、出会い、特に、互いに聞き合うことができるということの豊かさ=富でした。異世代間の傾聴の富は、意見交換という富であり、互いに必要とし合っていることを認識する価値という富で、すでに今日から、明日を夢見、明日を働くことに巻き込まれるなかで道筋とスペースを手配する努力をしなければなりません。けれど、別々にではなく、共に、共通のスペースを作りながらです。それは天下りのスペースでも、宝くじで当てられるスペースでもありません。皆さんも勝ち得ようと奮闘すべきスペースです。皆さんは今日、自分のスペースの取り合いをしなければなりません。なぜなら命とは今日のことだからです。誰もあなたに明日という日を約束することはできません。あなたの今日の命は、今日なのです。あなたが何かに賭けるのは、今日なのです。君のスペースは今日なのです。このことに、君は何と答えていますか。
大好きな青年の皆さん、あなたたちは、未来ではありません。わたしは「君たちは〇〇の未来だ」と言うのが好きではありません。違います。皆さんは「いま」なのです。皆さんは神の未来ではありません。青年の皆さんは神の今なのです。神が皆さんを呼び集め、自分の共同体の中で皆さんに呼びかけ、皆さんの町の中で皆さんに呼びかけ、おじいちゃんやおばあちゃんや年配の人たちを探しに行き、彼らと共に立ち、み言葉を手にし、主が皆さんのために夢描いた夢を実践に移すのです。
 明日ではなく、今です。なぜならその今という時に、つまりあなたの宝のある所にあなたの心もあるからです(マタイ621節参照)。そして惚れ込む者こそが、皆さんの想像力を侵略するだけではなく、あらゆることに影響するのです。それが皆さんを明日立ち上がらせ、疲れた時に皆さんを促し、心を壊し、驚きと喜びと感謝で満たされるようになるものなのです。皆さんには使命があることを感じ、恋しなさい。それがすべてを決断へ導くでしょう(ペドロ・アルペ、SJ、『これ以上実用的なものは無い』参照)。なんでも手に入れることができるでしょう。けれど、大好きな青年の皆さん、愛の情熱が足りなければすべてが不足するでしょう。愛の情熱は今日です! 主がわたしたちを惚れ込ませ、わたしたちを明日まで連れて行ってくれますように。
 イエスには、「それまでの間」というのはありません。心に巣を作り、心を手に入れたがるいつくしみの愛があるのみです。イエスはわたしたちの宝物になりたがります。なぜならイエスは人生における「それまでの間」でも、はかない流行でもなく、自己奉献へと招く奉献の間からです。
 イエスは具体的で、今日の、身近な、ほんものの愛です。彼は、恐れや疎外、思惑や操作によって動けなくされ、動けなくする、実に多くのまなざしを前にした希望と愛徳、連帯と兄弟愛の奇跡的な魚釣りを選び、これに参加する時に生まれる祝祭的な喜びなのです。
 兄弟の皆さん、主とその使命はわたしたちの人生における「それまでの間」ではありません。何かはかなく過ぎるものではありません。世界青年大会だけのことではありません。それは今日のわたしたちの、歩き続ける命です。
 この数日毎日、特別な仕方でマリアの「そうなりますように」がBGMのようにささやかれ続けていました。マリアは神とその約束を実現可能な何かであると信頼しただけではなく、神を信じ、この主の今に参加するために勇気を出して「はい」と言ったのでした。
 自分には一つの使命があると感じ、ほれ込み、そうしてこのことがすべてを決めました。皆さんも一つの使命があると感じ、ほれ込むように任せてください。そうすれば主がすべてを決めて下さるでしょう。
 そしてナザレのシナゴーグで起こったように、主は、わたしたち、その友人や知人の間で、立ち上がり、本を手にして、わたしたちにこう言います。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」(ルカ421節)と。
 大好きな青年の皆さん、その愛の具体的なものを体験したいですか?皆さんの「はい」という答えが、聖霊が教会と世界に新しい聖霊降臨をプレゼントするための入り口の扉となり続けますように。そうなりますように(かくあれかし)。


* * *


終わりの挨拶

 このミサ聖祭の終わりに、この数日わかち合うチャンスをくださり改めてこの世界青年大会を体験できるようにしてくださった神に感謝します。
 特別に、パナマ大統領のフアン・カルロス・ヴァレラ・ロドリゲス氏や、他の国々の大統領の皆さんや、ほかの政治や市政の権力者の皆さんに、このミサに参加してくださったことに感謝したいと思います。
 パナマ大司教のホセ・ドミンゴ・ウジョア・メンディエタ卿とこの国や近隣諸国の司教たちに、この大会をそちらの教区で歓迎してくださった心構えとすばらしい企画、みなさんが自分の共同体で実現してくださった青年たちに対するあらゆる宿泊の手配や支援に感謝します。
 祈りをもってわたしたちを支えて下さったすべての人々、この国で世界青年大会のこの夢を実現させるための努力と仕事に協力してくださった皆さんに感謝します。
 そして皆さん、大好きな青年の皆さん、大きな「ありがとう」を言います。皆さんの信仰と喜びが、パナマを震わせ、アメリカ大陸を震わせ、全世界を震わせました。この数日の間何度も聞いてきた今回の大会のテーマソングに、「わたしたちは様々な大陸や町から今日やってきた巡礼者です」とあったように、わたしたちは歩んでいる最中ですし、歩き続けます。信仰を生き続け、信仰を分かち合います。そして皆さんは明日ではなく、「それまでの間」ではなく、神の今だということを忘れないでください。
 そして、次の世界青年大会の開催地が発表されました(ポルトガル、2022年)。この数日の間皆さんが体験してきたことを冷まさせないでください。自分の小教区や共同体、家族や友人のもとに戻り、皆さんが体験してきたことを伝え、ほかの人たちもその強さと皆さんが持っている具体的なその夢で震わせることができますように。そしてマリアと共に、皆さんの中に神が植えて下さった夢に対して「はい」と言い続けてください。
 そして、お願いですから、私のために祈ることを忘れないでください。

パナマ世界青年大会徹夜礼拝前の演説


2019126

演説部分はこのビデオの1:30:15 2:00:28

大好きな青年の皆さん、こんにちは!

「命の木」についての美しいショーを見せてもらいました。そこで、イエスがわたしたちにプレゼントしてたいと望む命は愛の歩み、わたしたちと混じり、一人一人の土地に根を下ろしたいと望む命の歩みであることをわたしたちに示すショーでした。その命は、ダウンロード待ちで「クラウド」にあげられた救いでも、これから見つけようとしている新しい「アプリケーション」でも、自分を乗り越えるテクニックの実りという脳内エクササイズでもありません。私たちに神様が提供する命は最新のニュースを学ぶための「チュートリアル」でもありません。神様が私たちにプレゼントしてくださる救いは、わたしたちの歩みに編み込まれる「愛の歩みの一部を為すようにとの招き」なのです。この救いは生きており、わたしたちのあるがままに、いっしょに居る人と共に、わたしたちが居るその場所で実を結ぶために私達の間で産まれようと望んでいます。そこに主が来て苗を植え、ご自分を植えられるのです。主はわたしたちの命をまず先に「うん」と言って(肯定して)くださる方です。主がいつも先行します。主こそがわたしたちの歩みをまず先に「うん」と言って(肯定して)下さり、主と共にわたしたちもこれに「うん」と言う(肯定する)ことを望んでおられるのです。主がわたしたちに先立つのです。彼がまず先です。
そのように主は、マリアを驚かせ、この愛の歩みの一部を成すようにとマリアを招きました。ナザレの少女が当時の「ソーシャル・ネットワーク」に顔を出さなかったのは疑う余地のないことでしょう。マリアは「影響者(インフルエンサー)」ではなかったのです。けれど求めも探しもせずに、歴史においてもっとも大きな影響を及ぼす女性となったのです。子どもたちとしての信頼のうちに彼女のことを、神の「影響者」マリアと呼ぶこともできるでしょう。言葉数わずかに勇気を出して「はい」と答え、愛において信頼し、神の約束において信頼しました。それがあらゆることを刷新すること、新しくすることのできる唯一の力なのです。そしてわたしたちには皆、今日、何か内面で新しくすることがあります。今日、自分の心の中で何か神さまが新しくできるように委ねなければなりません。ちょこっと考えてみましょう。自分の心の中で神さまに新しくしてもらいたいものって何だろう?
 いつも若いマリアの「はい」という答えの力に興味がそそられます。その天使に答えた「そうなりますように」という言葉の力に。これはあきらめて仕方なしに受動的に受け入れることとは違うものです。これは、「まぁ、とりあえずどうなるか見てみようか」、というような「はぁい」とは違いました。マリアは「どうなるか見てみよう」というその表現は知りませんでした。決定的で、何のことか知っており、うだうだ言わずに「はい」と言ったのです。献身し危険に身をさらしたいと望んでいる人の「はい」という返事であり、一つの約束の運び手で会ったことを知る確信以外に確かさのないすべてを賭けたいと望んでいる人の「はい」という返事です。そしてわたしは皆さん一人一人に質問します。皆さんは一つの約束の運び手であると感じていますか? 未来へと進んで行くために心の中に抱いている約束は何ですか? マリアが抱いていたのは間違いなく、難しい使命だったはずです。けれど困難は「いやです」と答える理由にはなりませんでした。当然困ったことも待ち受けていたでしょう。けれど事前にすべて明確にしたり確実にならなかったりしたがために臆病がわたしたちを中風のように動けなくするときに生じる面倒とは同じにはならないはずです。マリアは生命保険を買いませんでした! マリアは賭けに出ました。だから強いのです。だから影響者なのです。神の影響者なのです。「はい」という返事と奉仕のやる気は、幾多の疑いや困難よりも強かったのです。
 この夕刻、いかにマリアの「はい」という返事がこだまし、何世代にもわたって世々に倍増しているかにも耳を傾けました。多くの青年たちがマリアに倣って一つの約束に導かれ身を危険にさらし、命を懸けています。エリカさんとロヘリオ君、わたしたちにプレゼントしてくれた証し、ありがとう。二人とも勇気をもってしてくれました。拍手に値します。ありがとう。イネスの誕生を前に体験したあらゆる危険、困難、怖れを分かち合ってくれました。こんなことを言っていましたね。「親にとって、様々な状況によって、何らかの病気や障害を負った赤ちゃんの訪れは受け入れにくいものです」。その通りでしょう、よく理解できます。けれど驚いたのは、そのあとに付け加えてくれた言葉です。「娘が生まれた時、わたしたちは心から彼女を愛そうと決意しました」。その訪れと向き合い、現れてきたあらゆる宣告と困難を前に、一つの決断をし、マリアのように「そうなりますように」と言ったのです。あなたたちは弱々しく無防備で助けを必要としていた娘さんの命を前に、エリカさんとロヘリオ君、あなたたちの応答は、「はい」でした。そうして二人にはイネスちゃんがいます。あなたたちは勇気を出して、世界は強い者のためだけにあるのではないことを信じたのです。ありがとう!
 主に「はい」と告げるということは、もろさや小ささ、さらにはしばしば様々な矛盾や意味の無さもすべてひっくるめてやってくる人生を、エリカさんとロヘリオ君が語ってくれた同じ愛をもって、勇気を出して抱きしめることです。やってくるがままに人生を受け止めること。それは、わたしたちの出身国や家族、友人たちを、同様にそのもろさも小ささも含めてありのままに抱きしめることです。人生の抱擁は、完璧でないものや清くもなく純化されてもいないものすべてを歓迎するときにも示されます。しかし完璧でも清くも純粋でもないからといって愛の対象としてあまりふさわしくなくなることはありません。障がいを負っていたりもろかったりという理由で愛の対象としてふさわしくないと言うのですか。皆さんに質問します。障害を負っている人、もろい人は、愛の対象としてふさわしいですか? (みんな:「スィ=はい!」)よく聞こえないですよ・・・(みんな:「はい!」)理解してくれたのですね。もう一つ質問します。どう答えるかな。外国人であるとか、間違いを犯したとか、病気になったとか、刑務所に入ったといういわくつきの人は、愛の対象としてふさわしいですか?(みんな「はい!!!」) まさにイエスさまはそうなさいました。ハンセン病の人、目の見えない人、中風で体が動かない人を抱きしめ、ファリサイ人も罪びとも抱きしめました。十字架上の泥棒を抱擁し、自分を十字架に架けている人たちまでをも抱擁し、ゆるしました。
 なぜですかね?なぜなら、愛を知る人だけが救われうるからです。君は誰かを救うことはできません。君はある状況を救うことはできません。その人を愛するのです。愛を知る人だけが救われる。繰り返しましょうか。愛を知る人だけが救われる。(みんな:「愛を知る人だけが救われる」)。忘れないようにしましょう。だからわたしたちはイエスに救われるのです。なぜならイエスはわたしたちを愛し、その気質からその逆ができないのです。わたしたちは何千回も彼に逆らうことができてしまうのですが、イエスはわたしたちを愛し、わたしたちを救います。なぜなら愛を知る人だけが救われうるからです。抱きしめることを知る人だけが変えられます。主の愛はわたしたちにあるどんな矛盾よりも、どんなもろさよりも、どんな小ささよりも偉大です。けれどまさにわたしたしたちの矛盾やもろさ、小ささを通して、主はこの愛の歩みの物語を書きたいと望むのです。放蕩息子を抱きしめ、否んだ後のペトロを抱きしめました。そうやってイエスは私たちをいつも抱きしめます。いつもです。わたしたちの転びの後いつも、わたしたちを立たせ、自分の足で立てるように助けながら。なぜなら本当の転びは、よく注意して聞いてくださいね、本当の転びは、つまりわたしたちの命を崩壊させる能力のある転びは、地面にとどまり助けの余地を与えない転びだからです。登山家が山を登るときに歌うとてもきれいな歌があります。「登るときの秘訣。勝利は転ばないことではなく、転んだままでいないことにある」。転んだままでいないようにしましょう・・・君が立ち上がれるようにする手があります。転んだままでいないようにしましょう。
 最初のステップは、やってくるがままに人生を受けることを恐れないこと、ありのままに人生を抱きしめるのを恐れないことです!これが、わたしたちが今日見た「命の木」です。
 アルフレド君、わたしたち全員に分かち合ってくれた証しとその勇気、ありがとう。とても印象的なことを言っていましたね。「建設の仕事を始め、その建設プロジェクトが終わるまでしました。雇用も無く物事は異なる色彩を放ち始めました。学校もなく、することもなく、仕事も無かった」。要約すると四つの「~の無さ」という、わたしたちの人生を根無しで枯れさせるものになります。仕事が無いこと、教育が無いこと、共同体が無いこと、家族が無いこと。つまり根の無い人生です。仕事の無さ、教育の無さ、共同体の無さ、家族の無さ。この四つの「~の無さ」が息の根を止めるのです。
 しっかり支えとなり地面に根を張るのを助ける強い根がないなら育つことはできません。根ざさず、支えも無いときには簡単に「吹き飛ばされ」ます。そしてこれこそが、わたしたち大人が、ここにいるわたしたちが否が応でもさらされる問いです。さらに言えば、皆さんがわたしたちにしなければならない、皆さん青年たちがわたしたち大人にしなければならない問いで、答えられなければならない問です。どのような根をわたしたち大人は与えているでしょうか。人として建てられていくためにどのような土台をわたしたち大人は皆さんに入手しやすくしているでしょうか。これはわたしたち大人に対する問いです。捕まるところや未来を夢見るところから仕事や教育、共同体の機会を奪っていつつも、青年たちのことを批判し、ぶつぶつ言いながら時間を過ごすのはどれほど簡単でしょう。教育が無ければ未来を夢見るのは難しく、仕事がなければ未来を夢見ることは難しく、共同体がなければ未来を夢見ることはほぼ不可能です。なぜなら、未来を夢見るということは、何のために生きるかだけではなく、誰のために生き、誰のためなら自分の人生を消費する甲斐があるかに応えることを学ぶことだからです。そしてそれは、わたしたち大人たちが、仕事や教育、共同体や機会を提供しながら、手に届きやすくしなければならないことです。
 アルフレド君が言ってたように、滑り落ち、仕事も教育も共同体も家族が無くなると、一日が終わるときに空しくなり、そのむなしさをなんでもいいから、適当な草でも何でもつめて満たしてしまうのです。なぜならだれのために生き、奮闘し、愛するのか分からなくなってしまっているからです。ここにいる大人たち、これを見ている大人たちにわたしは質問します。あなたは今日の青年たちの中に、未来や未来へのやる気を生み出すために何をしていますか? あなたは彼らが教育を受け、仕事を持ち、家族を持ち、共同体を持つために奮闘する能力がありますか?大人の皆さん、自分の心の中で答えましょう。
 ある時数人の青年たちとだべっていた時に、一人の青年が質問してきました。「なぜ現代では青年たちの多くは神が存在するかも問わず、神を信じることも困難で、人生への献身が足りないのでしょうか?」 わたしは彼らにこう答えました。「では君たちは、このことについてどう考えているの?」 その会話の中でで上がってきた答えの中に、心にぐっときた答えがあり、それはアルフレド君がわかち合ってくれた体験に関係しています。「神父さん、というか、彼らの多くは、少しずつ、ほかの人のために存在することをやめたと感じ、しばしば透明人間のように感じているからでしょう」。青年たちの多くは、他の人々や家族、社会、共同体のために存在することをやめてしまったと感じていて、それでしばしば透明人間のように感じている。これは放棄の文化、配慮不足の文化です。すべては言いませんが、多くの人たちは、自分には提供できるものがあまりない、あるいは何もないと感じています。なぜなら自分が呼ばれていると感じるほんもののスペースに頼らないからです。もしそういった青年たちが、長いこと自分の兄弟たちや社会のために存在することをやめてずいぶんと経ってしまっているなら、どうして神が存在していることについて考えるでしょうか。そのようにわたしたちは彼らが未来を見ない方向に押しているのです。そうして麻薬や彼らを破壊するようなものの爪、誘惑に落ちるようにと押しているのです。自問してみましょう。わたしは自分が見ている青年たちと何をしますか? 彼らを批判しますか、それとも自分には興味が無いですか。彼らを手伝いますか、それとも自分には関係ないですか? 自分に対して、ずいぶんと前から存在するのをやめてしまったというのは本当でしょうか。
 わたしたちはよく知っています。認められ、愛されていると感じるために毎日つながっているだけでは十分ではありません。何かに向かって配慮され招かれている感じることは、「ネットに」いることよりも偉大なのです。それは、自分の手、心、頭で、自分たちを必要とし、青年の皆さん、あなたたちも必要としているより大きな共同体の一部であると感じることのできるスペースを見つけることを意味します。
 そして聖人たちはこうしたことをよく理解していました。たとえばドン・ボスコのことを考えます。彼は青年たちを探すためと言ってどこにも行きませんでした。さて、ここに、ドン・ボスコ好きの人いますか?はい、拍手。ドン・ボスコは青年たちを探すために、遠い所や特別なところにはどこにも行きませんでした。単純に、神のまなざしで自分の街の周囲に起きていることをすべて見、見つめることを学んだだけです。そうして、その心は何百もの子どもたちや青年たちが勉強も仕事も共同体の友情に満ちた手もなく放棄されている現実に打ちのめされたのです。その多くは同じ町に住んでいて、多くの人がそうした青年たちを批判していましたが、神のまなざしで彼らを見ることはできませんでした。青年たちは、神のまなざしで見なければなりません。彼はそうしました。ドン・ボスコは最初の一歩を踏み出そうと気分を高めました。出てきたままの命を抱きしめ、そこから、二歩目を踏み出すのには恐れはありませんでした。それは、彼らと共に一つの共同体、仕事も勉強もあって愛されていると感じられる家族を作ったのです。彼らに、天国に到達できるために支えとなる根を与えること。社会のなかで「だれか」となることができるために。彼らがつかまり、吹き寄せる最初の風で落とされてしまわないための根を与えること。そういうことをドン・ボスコはしていました。聖人たちはそういうことをしました。神のまなざしで青年たちを見ることのできる共同体はそういうことをするのです。大人の皆さん、皆さんは青年たちを神のまなざしで見る気になりましたか? (大人たち:「はい!」)
 わたしたちのラテンアメリカの多くの場所のことを思います。そこでは家族をキリストの家庭と呼ぼうと推進しています。他のセンターと同じ精神で、命をその全体性と複雑さのうちに訪れるものとしてありのままに受け入れようとしています。なぜなら「木」はいつも一つの希望を保っていると知っているからです。「木には希望がある、というように、木は切られても、また新芽を吹き、若枝の絶えることはない」(ヨブ14章7節)。
 そしていつも、「新芽は若枝を吹き」ます。共同体や、必要な信頼を差し出す根を張ることのできる家庭のぬくもりがあり、新しい地平、愛され、探され、見いだされ、一つの使命にささげられた息子の地平を見出すための心を準備するとき、いつも新しく始めることができます。主が現存するのは、具体的な顔ぶれを通してです。この愛の歩みにマリアのように「はい」と言うのは、街を歩き回ることのできる教会共同体を自分の住んでいる地域に建設し、新しい人間関係を抱きしめ織りなすための道具となるために「はい」と言うことなのです。21世紀の「インフルエンサー(影響者)」になるということは、根の擁護者、わたしたちの人生が炭酸飲料のようになり、わたしたちの人生が蒸発して無に帰することを妨げるあらゆるものの擁護者になるということです。あなたたち大人たちは、互いに互いの部分であると感じさせてくれるあらゆるものの擁護者となってください。わたしたちが居場所があると感じられるようにするあらゆるものの擁護者に。
 クラクフの世界青年大会でニルメエンさんはそのように体験しました。出会いに来て、自分の居場所を与え、つまりアイデンティティを与え、喜び、つまりイエスに見いだされるということを体験させてくれる、生きた喜びに満ちた共同体に出会いました。ニルメエンさんは、イエスから逃げていました。イエスを避けていたのです。誰かが彼女に根を見せ、居場所を与えるまで距離がありました。そしてその共同体は彼女が話してくれたようなその道を始めるようにと彼女を盛り立たせました。
 あるラテンアメリカの聖人が、こう自問したことがあります。「社会の発展は、最新の車を手に入れ、市場で最新の技術を手に入れられるようになることだけを意味するのでしょうか。そこに人間の偉大さのすべてが集約されるのですか。このために生きる以外のことは無いのでしょうか」(聖アルベルト・ウルタード、1946年青年のための聖週間の黙想)。青年の皆さん、質問します。皆さんが欲しているのは、この偉大さですか、それとも違いますか?(みんな:「違います!」あやしいですね。ここまでよく聞こえません、よく聞こえませんよ。どうしたんですか。(みんな:「違います!」) 偉大さというのは、最新の車や市場で最新の技術を手に入れるに至ることだけではありません。皆さんはなにかもっとすごいことのために創られたのです。マリアはこのことを理解し、言ったのです。「そうなりますように!」と。エリカさんとロヘリオ君はこれを理解し、言ったのです。「そうなりますように!」と。アルフレド君はこれを理解し、言ったのです。「そうなりますように!」と。ニルメエンさんはこれを理解し、言ったのです。「そうなりますように!」と。わたしたちは彼らの声をここで聞きました。友だちのみなさん、質問します。皆さんには「はい」と言う心構えがありますか? (「はい!」)やっと返事の仕方を覚えましたね、さっきよりもずっと好きです。福音はわたしたちに、世界は病人が今より少なかったり、弱い人がもっと少なかったり、もろい人や面倒を見ないといけない老人がもっと少なかったり、さらには罪びとがもっと少なかったりしてもよりよくはならないと教えています。違いますよ、だからといってよりよくはならないのです。世界はがよりよくなるのは、こうした友だちがわたしたちに話してくれたように、明日をつくり出し神の愛の変容をもたらす力を信じる心構えを持ち、そうなるように気分を高める人が増えた時です。青年の皆さんに質問します。マリアのような仕方でインフルエンサーになりたいですか?(みんな:「はい!」)マリアは勇気を出して「そうありますように」と言いました。愛だけがわたしたちをより人間的にするのです。けんかやいじめではありません。勉強だけでもありません。愛だけがわたしたちをより人間的に、より完全にするのです。ほかの残りのものは皆、よいけれど空しいプラセボなのです。
 まもなく、わたしたちはイエスさまに、聖体のうちに生きるイエスさまに会います。きっと皆さんにはイエスさまに言うことがたくさんあるでしょう。皆さんの生活や家族のこと、国のこと、様々な状況についてイエスさまの語ることがたくさんあるでしょう。
 わたしたちはイエスさまと顔と顔を合わせます。勇気を出して、心を開くことを恐れないで。イエスさまがその愛の炎を再燃させ、皆さんがそのもろさも小ささもすべて持って、でもその偉大さと美しさをも見据えて人生を抱きしめるようにと促しますように。イエスさまが、生き生きとし、目覚めてあることの美しさを見出す手助けをしてくれますように。活き活きと、目覚めて。
 皆さんも世界の中でその愛の歴史の一部となりたいとイエスさまに言うのを恐れないで。その愛の歴史はより多くの人のためにあるのです!
 友だちの皆さん、この皆さんの、イエスさまとの顔と顔とを合わせた面会の時間がよいものであるようにと祈ります。わたしも根を大切にできるためにマリアのように「お言葉どおりになりますように!」と言うために命を抱きしめることを恐れないようにと、わたしのためにもお祈りしてください。

2019年1月26日土曜日

十字架の道行きでの教皇メッセージ


125
教皇のメッセージはこのビデオの2:22:28~2:36:25

慈しみの父である主よ、この海岸沿いで、世界中からやってきたこんなにも多くの青年たちと共に、十字架の道、どれほどわたしたちのことを愛しているか、そしてどれほどわたしたちのために献身しておられるのかを示すために、わたしたちのために歩きたいと望んでくださったその道を行く御子に同伴してきました。カルワリオに向かうイエスの道は、現代も続けられている苦しみと孤独の道です。主は歩き、わたしたちの社会にある自己満足的で麻痺させるような無関心に苦しむ人々の顔の中で苦しみます。その社会は、消費社会ですし、自ら消費していく社会、兄弟の苦しみがある中でそれを無視し、自らをも無視する社会です。
主よ、あなたの友だちであるわたしたちも、無感覚や不動性に流されてしまいがちです。自己満足が凌駕して、わたしたちが中風のように動けなくなることも少なくありません。あなたを苦しむ兄弟の中に認識するのは難しいことでした。見ないために目をそらしてきました。聞かないために騒音の中に逃げ込みました。叫ばないために口を閉ざしてきました。いつもおなじ誘惑です。勝ち組にとって、勝利の友人、栄光や成功、拍手の中にいる方が気楽です。有名人や勝ち組と思われている人のそばにいる方が気楽です。なんと簡単に弱者に対するいじめの文化、ハラスメントの文化、おどしの文化、自分の精神病院に執着させる文化に陥ってしまうことでしょう。
あなたにとっては、主よ、そうではありません。十字架の中で、あらゆる苦しむ人、忘れられたと感じている人々をご自分自身に重ね合わせて下さいました。
あなたにとっては、主よ、そうではありません。しばしばわたしたちが、抱きしめることや愛情をこめて頭をなでてあげることや祝福に「ふさわしくない」と定め、しかもそれを必要としていることに気付いてもおらず、無視している多くの人々をあなたは抱きしめました。
あなたにとっては、主よ、そうではありません。十字架の中で、あなたは青年一人一人の、それぞれの状況の十字架の道行きと一つになり、その道行きを復活の道に変容させます。
父よ、今日、あなたの御子の十字架の道行きは延長します。生まれることを拒まれた子どもたちや、他の子ども時代や家族を体験する権利を否定された子どもたち、遊んだり、歌ったり、夢を描いたりすることのできない子どもたち、のあえぐような叫びに延長します。ひどい扱いを受けている女性、搾取されている女性、見捨てられた女性、尊厳をはく奪された辱められている女性に延長します。教育や尊厳ある仕事の不足のために未来の希望が荒らされている青年たちの悲しい目に延長します。良心的ではない人々の罠に引っ掛かる、わたしたちの友人である若い人々の顔ににじみ出る苦悩やに延長します。その中に、あなたに仕えると言いながら、人生の中で培われる搾取や差別、虐待の罠に苦しむ人もいます。
あなたの御子の十字架の道行きは麻薬やアルコール、売春や人身売買のせいで死のらせんに巻き込まれ、未来のみならず現在すらも奪われている多くの青年たちや家族に延長します。このようにして、あなたの衣はちぎり分けられ、その尊厳はばらばらにされ、ひどい扱いを受けています。
あなたの御子の十字架の道行きは、夢見る能力、明日を創リ出したり作り上げたりする能力を失って、味気も無く、あきらめ、居心地の良さを求めて人生の表舞台から引き上げてしまった眉間にしわを寄せた青年の顔に延長します。これが、現代いちばん消費されている麻薬の一つです。モノがあふれかえっている社会のなかで拒絶や痛み、悲惨を体験し、連帯の代わりに尊厳を傷つける隠れた苦しみに延長します。しかも、彼らはあらゆる社会悪の担い手として扱われ、後ろ指を指され、責任を問われています。
あなたの御子の受難は、老人たちのあきらめに満ちた孤独に延長します。彼らをわたしたちは見捨て、切り捨ててきました。
現地の民に延長します。ここで彼らは、持っていて提供できるはずのあらゆる知恵を黙らせ、消しながら自分の土地、自分の起源、自分の文化から締め出されています。
父よ、あなたの御子の十字架は、土壌の汚染や土地が不毛になったこと、水の汚さによってその胎内で傷つき、軽蔑的扱いとあらゆる理屈を超える狂ったような消費で踏みつけられているわたしたちの母なる大地の叫びに延長しています。痛みを前にして泣き、心を動かされる能力を失った社会に延長します。
そうです、父よ、無関心な社会と居心地の良い冷笑が自らの軽薄さを消費する一方で、 そうした顔の人々を抱え、その顔の中で苦しみながら、イエスは歩き続けています。
そしてわたしたちは、主よ、何をしているのでしょうか。わたしたちは苦しみ歩み、多くのわたしたちの友だちや目に見えるようにすることを学んできた知らない人たちの顔の中で移民するイエスの前でどう反応しているでしょうか。そこでわたしたちは、いつくしみの父よ、最も小さく見捨てられた人々の中で、守られ憩いの場もなく苦しむ主を慰め、主と共に歩みます。わたしたちはキレネ人の(シモンの)ように、主が抱えている十字架の重みを軽くしようと主を助けます。平和の居場所づくりをし、契約を守り、兄弟愛の温床となり、マリアのように十字架の足元にとどまろうと気分を高めます。
マリアを観想します。強い女性です。彼女から、わたしたちは彼女の決意と勇気と同じものを持って、十字架の足元、そばにいることを学びたいと思います。回避も幻想もなく、マリアは我が子、あなたの御子です、父よ、彼の苦しみに同伴するすべを知っていました。
まなざしを保つこと、心から逃げ場を求める人のための場になること、苦しんだけれど惰性であきらめたわけではない痛み、マリアは「はい」という賛同を示す強い女性、支え、同伴する女性、逃げてくる人を迎え、抱きしめる女性でした。マリアは希望の大いなる擁護者(クストディア:【聖体顕示台】とも訳される言葉)です。
わたしたちも、父よ、支え、同伴する教会、わたしたちの横を歩く多くのキリストと呼びうる人々の人生や十字路において、「わたしがここにいます」と答えられる教会になりたいと思います。マリアから、悪い状況でも子どもや孫に同伴することをあきらめないお母さんやお父さん、曽祖父たちに見られるように、快活でたゆまぬ我慢をもって「はい」と答えることを学びます。マリアから、あらゆるものがダメになっているような状況で縮こまることなく、困難における開かれた手になろうと、スペースやホーム、孤児院、ケアセンターを探しながらやり直す人々の頑固な忍耐と独創性のうちに「はい」と答えることを学びます。マリアから、ひどい扱いや虐待、不信と暴力の文化を前に黙ることのなかった人々、黙ることのない人々に「はい」と答え、機会を与えや安全の条件を整え、保護を提供できるための強さを学びます。
マリアのうちに、見捨てられて苦しんだ人々や自分の土地や起源、家族、職を後にしたりなくしたりした人々を受け入れ、宿泊させます。父よ、マリアのように、必須のものを受け入れ、守り、促進することのできる文化を推進する教会になりたいと思います。それは、あらゆる移民を社会悪の運び手とみなすという、もっとも不合理で無責任な断罪に迎合することでもましてやそれを一般化することでもありません。
マリアから、十字架のそばで立ち続けていることを学びたいと思います。けれど、それも条件付きの心や閉じた心で行う訳ではなく、同伴することとは何かを知っている心、優しさや敬虔を知っており、敬意や繊細さと理解をもって人と接し、慈悲を理解する心で行うのです。
わたしたちは、わたしたちの起源の擁護者として持っている場所を求める年寄りを尊重し、その価値を認める記憶を保つ教会になりたいと思います。
父よ、マリアのように「いる」ことを学びたいと思います。主よ、(イエスの)十字架の足元、(いろいろな人の)十字架のもとに「いる」ことをわたしたちに教えてください。今夜、わたしたちの目、わたしたちの心を覚まさせてください。恐れや絶望のせいで中風のような動けない状態と混乱から救ってください。
主よ、「わたしはあなたの御子といっしょに、マリアと共に、そして御国を心に招き宿したいと望む多くのあいされた弟子たちと共にここにいます」と言えるようにしてください。アーメン。

2019年1月25日金曜日

世界青年の日、パナマ大会2019、青年たちによる教皇歓迎会演説

2019124

説教の場面は、このビデオの2:32:36~2:55:48


大好きな青年の皆さん、こんにちは!(大歓声、手を振る)
いいですね、また会えたのも、この土地をこんなにも様々な色(コロール)と熱(カロール)で満たせたのも。(大喝采)
一緒に、パナマで、世界青年の日は、改めてお祭りになります。喜びの祭り、希望の祭り、教会全体と世界にとって信仰のものすごく大きな証しです。
こんなことを思い出します。クラクフで、わたしがパナマにいることになるかを質問してくる人が何人かいました。こう答えました。「わたしはどうか知りません。でも、ペトロなら、きいといるでしょう、ペトロならね。」(拍手喝采)
そして今日、こう言えるのはうれしいですね。「今ペトロが皆さんと一緒にいます。信仰と希望を祝い、新たにするために」と。ペトロと教会は皆さんといっしょに歩きます。そしてわたしたちはこう言いたい。「みんな恐れないで。この物事を新しくできるエネルギーをもって前進して」。このやむことのない不安は、わたしたちがもっと喜びに満ちもっと素早く反応する心構えを持ち、より福音の証しをする可能性を縛ります。前進するというのは、平行線で行くもっと楽しくてもっとクールな教会や、青年たちだけの集いや、ちょっと小洒落たイベントを作ってしまうことではありません。まるでそれが自分たちを幸せにしてくれるかのように。皆さんはそういうことを考えないでください。もしそう考えたら、皆さん自信を尊重しないことになるし、皆さんを通して聖霊がわたしたちに語っていることを尊重しないことになるからです。その正反対です。皆さんと一緒に、教会のたゆまぬ新しさと若さに出会い、見出したいのです。自分たちを開きながら。何度も何度も新しいペンテコスト(聖霊降臨の五旬祭)を行う聖霊のその恵みなしには開かれないのですが。そしてそれが可能になるのは、このまえ終わったばかりの司教会議シノドスのように、わたしたちが自分たちの声を聞き合いながら、そして聞くときに補い合いながら歩こうと気分を高めてのみ、わたしたちが兄弟たちへの奉仕の中で主を伝える気分を高めてのみです。それはいつも具体的な奉仕です。ええかっこしい(評価上げ?見せかけ?)の奉仕ではありません。具体的な奉仕です。アメリカの歴史のように、若々しく、いつも若々しく歩かなければどうなるでしょう。皆さんのことを考えると、皆さんの今日のスケジュールで最初に、原住民の青年たちが歩き始めました。アメリカの最初を作った人々であり、「この」出会いにおいてまず最初に歩いた人たちです。(拍手) 大きな拍手を!力強く!
そして、アフリカ移民の子孫である青年たちも、その出会いを果たし、わたしたちの手のおよばない活躍をしました。もう一つの拍手を!
そうですね、ここまで来るのは簡単なことではなかったと察します。この大会に参加できるようにという努力や犠牲がよくわかります。何日もの準備の仕事や献身、振り返りと祈りのための集いが、その歩んだ道を、報われる道にしたのだと思います。弟子というのはある場所に到達するだけの人ではありません。決意をもってはじめ、危険に身をさらすことを恐れずに歩き始める人のことです。もし誰かが歩き始めたら、その人はもうすでに弟子なのですよ! もしじっとしていたなら、あなたの負け~。歩き始めましょう。その、道を歩んでいるという状態が、弟子の一番の喜びなのです。皆さんは危険に身をさらし、歩くことを怖れませんでした。そして今日は、パーティをする(ルンバをしている)ことができます。パーティ(ルンバ)は、それぞれの共同体で、もうずいぶん前から始まっていました。それを祝えるのです。(大喝采)
代表のいろんな旗が出てきました。文化もお国柄も異なるところからわたしたちはやってきました。違う言語を話します。異なる衣服を用います。私たちの出身国はそれぞれ、異なる歴史や状況を体験してきています。こんなにもたくさんのことが、わたしたちの違いを示すことができるのです。けれどそのどれも、わたしたちが出会うのを妨げることができませんでした。こんなにも多くの相違にも、わたしたちが出会い、一緒にいて、一緒に楽しみ、一緒に祝い、一緒にイエス・キリストへの信仰を宣言することを妨げることができなかったのです。どんな違いも私たちを止めなかった!(雄叫び、歓声)
それができるのは、わたしたちを一つにし、わたしたちを兄弟や姉妹のようにしてくれる誰かがいるからだと知っています。大好きなアミーゴ(友だち)の皆さん、皆さんはこうして出会うために、多くの犠牲をしてきました。そうやって皆さんは、「出会いの文化」のほんもののマスター、アーティストに変容していきます。みなさんは、この体験で、「出会いの文化」のマスター、アーティストに変容していくのです。「やぁ、元気、じゃまた」というのではないですよ。出会いの文化というのは、わたしたちが違いを抱えながらも、皆共に抱く愛をもって、その違いある地点から同じ道を共に歩むようにするのです。皆さんはそのしぐさやその態度、そのまなざしやその望み、特に皆さんがもっているその感受性をもって、分裂に集中させ、分裂に躍起になるようなあらゆる演説を否定し、その権威を認めません。「自分たちのようではない人たち」を除外したり追放したりすることに躍起になるような演説を。アメリカの色々な国々でわたしたちはこう言っていますよね。「彼らはGCUGente como Uno(自分のような人々)」ではないのです。皆さんは、「わたしたちは皆、自分のような人々だ」というのを否定するのですよ! 皆、それぞれの違いを持っているのです。(大拍手)
そしてこれは、というのも、ほんものの愛は正統な相違を相殺しない、というそういう匂いがかぎ分けられるからです。むしろ、より上位の一致の中で調和させるのです。繰り返しますよ。「ほんものの愛は正統な相違を相殺せず、むしろより上位の一致の中で調和させる」のです。これ、誰が言ったか知っていますか? 知ってます? 教皇ベネディクト十六世ですよ。今、この放送を見てくれています。拍手を送りましょう。ひとつここから、彼に挨拶を送りましょうよ。彼もテレビでわたしたちを見てくれているんです。みんな、手を振って教皇ベネディクトに挨拶を送りましょう。(歓声、拍手、手を振る姿)
その反対に、嘘の父、つまり悪魔はいつも分裂し喧嘩する民を好みます。悪魔は分裂のマスターです。そして共に働くことを学んだ民を恐れます。これが人を見分ける判断基準になります。橋の建設者なのか、壁の建設者なのか。恐れの種をまきながら壁を作る人は、人を分裂させ、邪魔しようと求めます。皆さんは、橋の建設者になりたいですか? 何になりたいですか?(青年たち:「橋の建設者に!」) よく学びましたね。そういうの好きですよ。(笑い)
君たちが、わたしたちに出会うことを教えてくれます。それはマイム(ふり)をすることではありません。同じことをし、同じことを繰り返しながら、みんなが同じように考えるように、おんなじように生きるように、ということでもありません。そういうのはオウムや九官鳥がやっていることです。出会うということは、ほかのことに向かって励まし合うことです。出会いの文化において、共通の夢を、生き生きと、いっしょに保つために大胆であるようにとの呼びかけ、招きが中心にあります。わたしたちには大きな違いがあります。みんな違う言語を話します、違う服装をします、けれどお願いです、共通の夢を持つことにささげなさい。それなら、わたしたちにもできるのです。そのことは、(違いある)わたしたちを相殺することなく、豊かにするのです。大きな夢、だれもが宿れる夢というのは、イエスが自分の命をささげて十字架にかかる時に抱いていた夢です。それは、聖霊が聖霊降臨祭の日に一人一人の男性たち、一人一人の女性たちの心にちりばめられ、その炎をタトゥーのように刻みこんだ時の夢です。一人一人の心、君の、あなたの心、そしてわたしの心にも刻み込まれたものです。あぁ、そこの君の心にもですよ。(歓喜)
スペースを見出し、成長し、展開するのを期待して、タトゥーのように彼らに刻み込んだのです。一つの夢。「イエス」という名の、御父によって蒔かれた夢です。彼のような神、御父のような神に派遣された者は、信頼と共に、一人一人の心の中で育ち、生きるでしょう。一つの人格を持ち、わたしたちの血管を通り、「わたしがあなたがたを愛してきたようにあなたがたも互いに愛し合いなさい、そうすれば他の人たちはあなたがたがわたしの弟子であると分かる」と聞くたびにわたしたちを躍らせるほどに喜ばせる一つの具体的な夢。わたしたちの夢は、どんな名前でしたか?(二人くらい「ヘスース(=イエス)!」) 聞こえませんよ。(みんな「ヘスース!」) よく聞こえない。 (もっと大きい声でみんな「ヘスース!」) いい感じですね。
このあたりの土地の一人の聖人が、聞いてくださいね、このあたりの土地の一人の聖人がこういうことを好んで言いました。「キリスト教は読まなければならない諸真理の集合体でも、守らなければならない法や禁令の集合体でもありません。そんなキリスト教は不愉快な悪臭を放つものになります。キリスト教というのは一種の人格です。わたしを愛してくださった方、わたしが愛するようにと訴えかけてくる方です。キリスト教はキリストです」。みんなで言いましょう。「キリスト… (みんな:「キリスト教はキリスト!」)もう一遍。(みんな:「キリスト教はキリスト!」) もう一度。(みんな:「キリスト教はキリスト!」)それは、キリスト、命をくださったという夢を、わたしたちを愛してくださった方と同じ愛で愛するということを展開させることです。彼はわたしたちを愛してくれましたが、半分までではありません。愛してくれましたが、ちょびっとではありません。わたしたちを完全に全部愛してくれたのです。わたしたちをぬくもり、愛で満たし、命をくださいました。
自問しましょう。わたしたちを一つに保つものは何か。なぜわたしたちは一つなのか。何が出会うためにわたしたちを動かすのか。何だか知っていますか? わたしたちを一つに保っているのは、「わたしたちが愛された」ということを知っていることからくる確かさです。わたしたちははらわたがちぎれるほどの愛をもって愛されました。黙っていたくもないし、黙っていることもできません。この愛は、同じ方法で、つまり愛をもって応えるようにとわたしたちに挑戦してくる愛です。キリストの愛こそが、わたしたちを駆り立てるのです。注目してください。わたしたちを一つにする愛は、わたしたちを蹴り飛ばしたり押しつぶしたりしません。この愛は、疎外せず、黙らない愛です。人を辱めず、傷つける言葉を言わない愛です。これが主の愛です。日々の愛です。礼儀正しく敬意に満ち、自由から来て自由のためにある愛です。癒し、立ちあがらせる愛です。これが、転ぶことよりも起きること、争うことよりも和解、断罪するよりももう一度チャンスを与えること、過去よりも未来を知っている主の愛です。これは静かに手を伸ばして奉仕し献身する愛です。わたしたちをからかったり馬鹿にして笑ったりしない愛です。他者のためにいつも手を伸ばして自らを差し出す謙虚な愛です。これが、今日、わたしたちを一つにする愛です。質問します。この愛を信じますか? (みんな:「スィ(=はい)!」) もう一つ質問します。この愛のために苦労する甲斐があると思いますか? (みんな:「スィ!」) イエスはあるとき、一人の人とこのことで問答をして、結局こう言うに至りました。「そうですね、じゃぁ、あなたも行って、おなじようにしなさい」。その名はイエスです。みなさんも行って、同じようにしなさい。愛することを恐れないで。その具体的な愛、ぬくもりを持った愛、奉仕という名の愛、命を削るその愛を恐れないで。
これが、招きを受けたマリアにもなされた問いです。天使はマリアに問いました。この夢をその胎内に抱えて行くことを望むか、それを命、肉として生み出したいか、と。マリアの当時の年齢は、ここにいるあなたたちの多くと同じ年齢でした。みんなみたいな女の子の年齢でした。そしてマリアは言いました。「ここに、主のはしためが控えております。わたしのなかで、あなたのお言葉通りのことが実現しますように」。
目を閉じましょう。みんな。そして、マリアのことを考えましょう。馬鹿な子ではありませんでした。心が感じていたことは何かを知っていました。何が愛だったか知っていました。そして応えました。「ここに、主のはしためが控えております。わたしのなかで、あなたのお言葉通りのことが実現しますように」。このわずかな沈黙の時間の中で、イエスが皆さん一人一人に、あなたに、君に、君に、あなたに、語り掛けるように。やってみたいですか? 求めますか? マリアのことを考えなさい。そして「わたしは主に仕えたいです、わたしのなかで、あなたのお言葉通りのことが実現しますように」とお答えなさい。マリアは、気分を高めて「はい」と答えました。神さまの夢に自分の命をささげるほど気分を高めました。これが、今日、わたしたちに問いかけている内容です。その手、その足、そのまなざし、その心をもって、神さまの夢のためにささげたいですか? 新しい地平線を開き、あなたを、想像したことも考えたことも、夢見たことも期待したこともない道へと導き、喜ばせ、心に歌わせる御父への愛を求めますか? 天使に答えたマリアのように言ってみましょう。「ここに、しもべたちが控えております。わたしたちのなかで、あなたのお言葉通りのことが実現しますように」。ここで声に出さなくていいです、一人一人、自分の心の中で答えてください。問いの中には、沈黙によってのみ答えられる問いというものがあります。
大好きな青年の皆さん、この大会で希望を一番もたらしてくれるものは、最後の決議文書のようなものでも、みんなで作って納得した手紙でも、実行に移された計画でもありません。そうはなりません。この大会で希望を一番もたらしてくれるものは、皆さんの顔つきと、一つの祈りです。これが希望をもたらすのです。皆さんが、変化を遂げた心で、この変化した心で唱えることを覚えた祈りをもって家に帰るときの顔つき。この大会で希望を一番もたらしてくれるものは、皆さんの顔つきと祈りになるでしょう。そして皆さんは一人一人、他者や主と出会うたびに生まれてくる新しい力を帯びて、わたしたちを兄弟にするその夢を思い起こさせ、それを活き活きと保つ聖霊に満たされて、家に帰るでしょう。そしてわたしたちは、世界の心を凍らせないようにする務めへと招かれています。こんな感じでわたしたちはここで出会いました。こんな感じでわたしたちはやっています。いつも目を上げて、こう言うことができます。「主よ、あなたがわたしたちを愛してくださったように愛することを教えてください」と。わたしといっしょに繰り返してみたいと思いますか?(みんな:「主よ、あなたがわたしたちを愛してくださったように愛することを教えてください。」)もう一度。(みんな:「主よ、あなたがわたしたちを愛してくださったように愛することを教えてください。」)もっと強く、いびきみたいですよ。(みんな:「主よ、あなたがわたしたちを愛してくださったように愛することを教えてください。」)
まぁ、よい子で、お利口さんでいたいので、感謝せずにはこの集いを終えるわけにはいきません。ありがとう、大きな理想をもって世界青年の日、ここに見えるすべてを準備してくれた皆さん、ありがとう。大きな声で。(歓声) ありがとう、勇気を出して建物を建てたり、ホームステイをさせてくれたり、子どもたちが集まるのを見たいという神の夢に快く「はい」と応えてくれた皆さん。ありがとう、ウジョア枢機卿と、このパナマで今日という日が単に二つの海をつなぐ「運河」ではなく、神の夢が出会い続けていく奔流となり、育ち、増え、地上のすみずみまで輝きだすための「運河」となるように助けてくれたチームの皆さん。
アミーゴ(友人)のみなさん、アミーゴ(男友達)のみなさん、アミーガ(女友達)のみなさん、イエスが皆さんを祝福してくださいますように。心からそう望みます。アンティグアの聖マリアが、皆さんと共にあり、皆さんを守ってくださいますように。そうしてみんな、恐れることなく「ここにいます。実現しますように」と言えるようになりますように。ありがとう。



(えー、ちなみにビデオの2:12:35から7分半にわたって歌われている「エ~マヌエール」というやつ、ワールドユースデーで本当に愛され続けている2000年の時のテーマソングです。日本語版も作ってあるので、この機に味わってみてください。結構いい内容の歌だと思います)


2019年1月24日木曜日

ワールドユースデーパナマ大会開会ミサ説教


2019122
パナマ大司教区 ホセ・ドミンゴ・ウリョア司教
サンタ・マリア・ラ・アンティグア広場にて

説教の部分はこのビデオでは2:03:14-2:24:20

まず、皆さんのようにこの集いの主役である、共に出会い、新しい世界と新しい教会は可能だという夢を共に抱くために140か国以上からやってきた巡礼者の皆さんに挨拶させてください。
愛する青年の皆さん、ありがとう。なぜなら皆さんはあらゆる困難を前にしながら障害物を飛び越えることができ、この小さな村に集まろうと望んでくれたからです。この小さな教会は、今日この瞬間から、青年の中心街に変貌した、と言っても過言ではないでしょう。青年について語る、ということは、希望について語るということです。世界の変化も、教会の変化も、愛する青年の皆さん、皆さんの手を通してのみ訪れるのです!
愛する青年の皆さん、皆さん全員がここにいてくれて、わたしたちの喜びはものすごく大きいです。パナマは今日皆さんを、心を開き、両腕を開いて迎えます。サンタ・マリア・ラ・アンティグア(古来の聖マリア)という呼び名のもとマリアの手を通して信仰がもたらされたこの小さな国で、出会おうという呼びかけに応えてくれてありがとう。皆さん一人一人が「道」「真理」「命」であるイエスさまとの出会いを体験できるように、国を挙げてできるかぎりの努力をしました。
わたしたちは、ティエラ・フィルメ(確固とした大地=植民地時代パナマの大西洋岸地方はこう呼ばれていた)における最初の教区です。常に聖母マリアの守護のもと、あの151399日以降、ここから残りのアメリカ大陸全体に福音が輝き出て行きました。マリアはいつもわたしたちと共に歩んでくださいました。ですから、この世界青年大会におけるイエス・キリストとの集いにおけるこの歴史的イベントが、マリアによって盛り立てられ、マリアによって盛り上げられ続けるのは、おかしなことではありません。ここでわたしたちは年代的な青年達も、青年であるのをやめるのは、夢描くことを手放したときだけですから60歳を越えながらも若さを感じている人も、皆一つになります。
福音宣教の星であるマリアが、教皇フランシスコによってみなさんに示された初めての世界青年大会において、その開催地としていただいたことに、神に感謝しましょう。若いマリアは勇気の模範です。神が彼女を選んだその計画を達成する心構えがありました。ここに今回の世界青年大会のテーマが浮かび上がってきます。「主のはしため、今ここに控えております。お言葉通りのことがわたしの中で実現しますように」。今日、わたしたちは皆、「パパ・フランシスコ、わたしたちを信頼し、存在的また地理的に中心から外れた場所で、世界青年大会を開かせてくれて、ありがとう」言えるのではないでしょうか。わたしたちが、この国で、希望のない中で共に生きる多くの青年、特に原住民やアフリカ移民の子孫の青年たち、ほとんど祖国からの応答がなく希望にすがって他国に飛び出して麻薬取引や人身売買、犯罪や似たような社会の悪にさらされながら移民中の青年たちの困難な状況に対しても、教会にとっても、信仰を持つあらゆる共同体の人々にも、香りよい香油となりますように。
けれど特に、中米司教協議会秘書との交わりのうちに、中米の司教は全員、皆さんが大切な存在であること、皆さん全員が、この小さな国で巡礼を実現するために最低限の環境を作り上げた人間的機構であることを理解しています。
愛する巡礼者の皆さん、皆さんは、この地球というわたしたちの惑星の様々な国から来て、全世界の小さなかけらに出会うでしょう。わたしたちの奉仕の歩み、出会いの点となる歩み、信条も人種も年齢も性も差別しない多様性における一致の歩みは、祝福された一つの国へとわたしたちを変えてくれるでしょう。
皆さんがそこに来てくれているおかげで、この国は、この瞬間から皆さんといっしょに、世界の青年の首都になります。そこで、暖かい人間的ぬくもりも、この時期の気候的な温かさも、仲間たちと共に時間を過ごし、夢や希望、人生計画を分かち合う最高の環境を作っています。そこでは聖霊の力によって、簡単ではないけれどマリアのような信頼を神に置きさえすれば不可能でもない愛の革命を起こす献身の約束へと導きます。
巡礼者の皆さん、皆さんが体験しているこの国は、巡礼者たちがパナマの諸教区を始め、コスタリカの諸教区において今週、教区の日々に始まって体験してきたことの一つのサンプルです。わたしたちの国民は、皆さんを迎え、皆さんと持ち寄った伝統、多民族的多文化的豊かさを分かち合う準備ができています。けれど特別に、この中米の一角は、小教区やホストファミリーにおいて、わたしたち個々人の歩みや共同体的歩みの中で、わたしたちの間で働いておられる一柱の神への信仰の喜びを分かち合い、愛情や近さ、兄弟愛といったわたしたちの持てるかぎり最高のものを差し上げ、皆さんを本物の家族、神の家族のメンバーとして迎えるために準備されています。
愛する青年の皆さん、世界青年大会のこれからの数日の間、皆さんには、様々な国の司教たちとの要理の場に顔を出す機会があるでしょう。興味深い人格形成の場を分かち合えることは間違いないでしょう。「ゆるしの広場」:ゆるしの秘跡と、神との和解の場です。「青年の祭典」:いろいろな国の様々なタレントが精神を養うために腕を振るいます。そして何よりも、わたしたちはイエスと出会うため、聖体のイエス、霊的な糧であるイエスと出会い、そこから人生の挑戦に立ち向かうために来ました。
愛する青年の皆さん、この皆さんとイエス・キリストとの出会いは、自分自身や、実に刹那的で絶望的に体験させられる、思考も精神も傷つけ、結局は存在的空虚さを満たすことのない、偽りの幸せの探求を押し付ける、正しい価値に反する体制的システムと向き合うという機会にもなるべきです。
青年の皆さん、主の呼びかけは、まだ生き続けています。それは永続的で、強烈で、ぬくもりに満ちています。イエスさまだけがこのような呼びかけを伝えることができます。きっと教会として、わたしたちは皆さんに上手にこれを十分な明確さを持って伝えることができずに来てしまったかもしれません。なぜなら、愛する青年の皆さん、時々、わたしたち大人は、皆さんのようには考えられず、皆さんのことを聞きたがらないこともあり、耳が聞こえず、わたしたち大人こそが、空虚だからです。それでも、現実は別のものです。皆さんには、同伴、特に、皆さんを聴くことのできる人による同伴が不足しています。皆さんは簡単には感動させられません。
愛する青年の皆さん、ありがとう。なぜなら皆さんにはできあいのフレーズや劇的な演説や熱狂的にさせるスローガンは通用しないからです。イエスの時代と同じように、愛する青年の皆さん、皆さんは、知性的にまとめられた勉強上の神の概念ではなく、自分の足で歩きまわって内容と経験に満ちた証し人、何キロも歩いている大人を必要としていると、わたしたちは知っています。皆さんは、神について語る人ではなく、自分の生き方で神を示す人を求めています。
愛する青年の皆さん、どんなに繰り返しても繰り返し足りないと思いますが、皆さんは、この世界青年大会のほんものの主役です。教会は、この青年たちがもたらす春(青春)を待ち望んでいます。皆さんを信頼しています。皆さんに多くを期待しています。人類と教会が求めている変化と変容のための本当の姿は、皆さんの手に、皆さんの能力に、皆さんのより良い世界への展望にあるからです。
この大きな挑戦に加わるために、皆さんは自分自身の歩み、社会の歩み、文化の歩みをよく知り、特に信仰の歩みを知りながら、意識的に準備をしなければなりません。そうしてのみ、おじいさんたちや年輩者の手から、福音の喜びをもって、社会を傷つけるあの不正や悪の状況を変えることができるのです。
マリアのまなざしに、青年の一人一人が、識別の美しさを再発見することができるでしょう。マリアの心の中で、親密さのぬくもりや証しと福音宣教の勇気を体験することができるでしょう。ですから、この大会はマリアにゆだねられています。マリアに信頼するということは、助けてほしいと求めたり、色々なことに取次ぎを求めることだけではありません。マリアのようにふるまうことも含まれます。いとこのエリサベトに対して行われたような、奉仕するマリアの心構えに倣いましょう。息子の受難を体験し、忍耐を持って喜びに満ちたイエスの復活を待っていた時にマリアが経験したように、剣がわたしたちの心を貫くことに備えましょう。教会で、この大会の準備の間、ほかの人たちのために自分の能力や時間を割くことのできる青年たちを見てきました。若いリーダーシップとタレントを寛大に差し出してこの大会を支えてきました。時宜が良くても悪くても、献身していました。これは、皆さん青年たちが思いもよらない計画を受け入れることができるということのサンプルになります。原住民の青年たちやアフリカ移民の子孫の皆さんとの関わりにおいても素晴らしい体験ができました。その現実の輪郭をしっかりとらえるために、大会の前から集いが繰り返されてきました。これが、この大会の中心を流れていきます。この地域での世界青年大会は、彼らの状況を目に見える形にせずにはありえません。なぜならこの大陸で、貧困に追いやられて疎外と差別の状況に生きている多くの人々を代表することになるからです。様々な宗教や主義主張の若いリーダーたちが、自分の文化や民族性から、法律や教育、仕事、女性の訴えを、社会的なスペースのみならず、宗教的スペースにおいても、政府に訴えかけ、差別や疎外の状況に対して共に答えを生み出すことができることを示してきました。
原住民の青年たちは、『ラウダート・シ』に照らして、自らの文化の豊かさから、生きた民の記憶、母なる大地との調和や、ありうる世界の建設のための彼らの参与の重要性に焦点を当てました。そして原住民の青年たちにとって、教皇フランシスコのメッセージはとても励みになりました。愛する青年の皆さん、ここに紹介したいツールがあります。それは「DoCat」という自己形成のためのツールです。それは、わたしたちの青年への同伴において、若きリーダーシップを強めるであろうテクノロジーのツールを通して、教会の社会教説の学習を提案しています。これは、教皇フランシスコの夢です。そしてわたしたちも、特に中米の愛する若き巡礼者の皆さんがこれを受け止めてほしいと思います。なぜなら、信仰を持って逆境に対抗し、愛と正義の革命を実現するための一つの方法が、教会の社会教説にあるからです。教皇の中米の青年たちへのプレゼントが、この「DoCat」で、これは世界青年大会の間に皆さんに配布されます。これは責任をもって自分の主役の役回りを受け止められるようにできるチャンスです。使徒的勧告において、現実世界での聖性への呼びかけについて、教皇フランシスコはこう強調しています。「聖性には危険と、挑戦とチャンスが伴います。なぜならわたしたちが愛のために聖なる者、非の打ち所のない者となるようにと、主がわたしたち一人一人を選んでくださったからです」。そして聖なる者となるということは、教皇フランシスコが言っているように、御絵に描かれたような顔をする事ではありません。違いますよ、愛する青年の皆さん。誰もが皆、聖なる者となることができるのです。犯してしまった罪のせいで、わたしたちの存在にはそんなに価値がないと考えてしまうようなときですら、です。教皇はわたしたちにこう言います。「聖なる者となる、ということは、流れに逆らうこと、泣くことができること、苦しみが存在する状況から逃げさせようとしてわたしたちを余計苦しめる、苦しみをごまかす論理から抜け出すことです。聖なる者になることは、わたしたちを霊的物質的な腐敗やわたしたちに悪をもたらし神を侮辱することから抜け出させます。聖なる者は、自分を守る力のない者を守り、生まれていない子を守りますが、みじめさの中に生まれた人をも守ります。移民を守り、正義を求め、祈り、共同体に生きこれを愛します。喜びがあり、ユーモアのセンスがあります。いつも戦い、中途半端な生き方を脱し、神のいつくしみを生き、それを隣人と分かち合います」。愛する青年の皆さん、聖なる者であるということは、神話ではありません。一つの現実です。そしてそのために、わたしたちは巡礼の旅をしてきたのです。聖なる者となるため、ポッレのマルティン、リマのローサ、フアン・ディエゴ、リオのホセ・チャンセの子、聖ヨハネ・ボスコ、フクシャマリア・ロメロ・メネッセ、ヨハネ・パウロ二世、そして特にオスカル・アルヌルフォ・ロメロのように命の証し人となるためです。彼らは皆、それぞれの現実から、わたしたちに、どんな文化においても、どんな人種であっても、性別や歳の差に関わらず、聖性の生き方は可能であるということをわたしたちに示しています。神や隣人に対する彼らの寛大な命の捧げは、彼らを聖性へとたどり着けるようにしました。
愛する青年の皆さん、おそれないで。今日の世界で聖なる者となる勇気を持ちましょう。そのことで皆さんの若さや喜びを手放すことにはなりません。正反対です。皆さんがこの期間に世界に対してしているように、聖なる者となり、幸せになることは可能なのです。愛する青年の皆さん、大人たちをナーバスにし続けてください。わたしたちを本物のキリスト者、本当に幸せな存在にするのを妨げるものを拒み続けてください。わたしたちは全員、わたしたちのただなかにおられる神の愛の宴のために準備ができています。けれど、忘れないでほしいのは、わたしたちを腕に抱いて連れて行ってくれるのは、マリアだということです。教皇フランシスコは、イエス・キリストの代理者として、わたしたちを信仰において確かなものとしてくださるでしょう。
改めて、愛する青年の皆さん、この教会に、この国にようこそ!そして教皇フランシスコが言っているように、頭痛のタネになり続けなさい。わたしたち大人たち一人一人をナーバスにし続けなさい。神さまがわたしたちを祝福してくださいますように。アーメン。

2017年3月27日月曜日

第32回ワールドユースデー(2017年枝の主日) メッセージ



大好きな青年の皆さん

31回ワールドユースデーと、いつくしみの特別聖年の文脈で青年のジュビリーを祝ったクラクフでのすばらしいわたしたちの集いの後で、わたしたちは改めて歩み始めました。
そこで神の慈しみの使徒であった聖ヨハネ・パウロ二世と聖ファウスティーナの導きに任せて、わたしたちの生きる現代の挑戦に対する具体的な答えを見いだそうとしました。
兄弟愛と喜びを力強く体験し、わたしたちは世界に対して希望のしるしを与えました。異なる国旗や言語は対立や分裂のきっかけではなく、橋を建設するためにわたしたちの心の扉を開く機会となりました。
クラクフのワールドユースデーの後で、わたしたちの巡礼の次の目的地は、神の助けのもと2019年にパナマになることを指摘しました。この歩みには、全世代が世々限りなく幸いな者と呼ぶおとめマリア(ルカ148節参照)が同伴してくださいます。
わたしたちの道のりの次のステージは、前回のものにつながっていて、〈真の幸福〉を中心にしていますが、わたしたちを前進するようにと促します。わたしが望んでいるのは、皆さん、青年たちが、過去の思い出を作るだけではなく、現在において勇気を作り、未来において希望を作りながら歩むことです。
こうした態度は、いつもナザレの若きおとめマリアのうちにあり、次の回のワールドユースデーのために選んだテーマにはっきりと映し出されています。今年(2017年)はマグニフィカトの中で「力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから(私訳:全能の方がわたしに大いなることをなさいました)」(ルカ148節)と言った時のマリアの信仰について考えます。
来年(2018年)のテーマである「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた(私訳恐れるな、マリア、神の御前であなたは恵みを見出した)」(ルカ129節)は、おとめマリアが天使からお告げを受けた時の決断力に満ちた愛徳についての黙想に導きます。2019年のワールドユースデーは、マリアの天使に対する希望に満ちた応えである「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」(ルカ138節)という言葉からインスピレーションを受けます。

2018年の10月に、教会は司教シノドスを祝います。そのテーマは『青年たち、信仰、召命の識別』です。そこでわたしたちは、皆さん青年たちが、わたしたちの生きる現代がもたらす挑戦のただなかで、信仰体験をどのように生きるかについて問います。

広い意味、つまり、結婚や、信徒の環境や専門の場、あるいは奉献生活や司祭生活といった、皆さんの召命を識別しながら人生の計画をどのように展開させることができるかという問いをも扱います。


わたしたちの時代は「ソファーに甘んじた青年」は必要ではない

ルカ福音書によれば、天使のお告げを受けて、救い主の母となるための呼びかけに対してその『はいという答え』で応答した後で、マリアは立ち上がり、妊娠して六カ月になる親戚エリサベトのもとを訪問しに急いで出かけます(136節、39節)。
マリアはとても若かった。マリアに告げられたことはものすごい賜物でした。けれど、それはものすごく大きな挑戦でもありました。主は一緒にいることと助けを保証しましたが、まだその考えにも気持ちにもすっきりしないことがたくさんありました。それでもマリアは家の中に閉じこもることはなく、怖れやおごりで身動きができなくなるようなことありませんでした。
マリアは穏やかでいるために居心地よく安全だと感じられる、良質のソファーを必要とするようなタイプの人ではありませんでした。「ソファー青年」ではないのです(2016730日徹夜祭演説)。もし自分の年老いた いとこが助けを必要としているならば、ためらうことなく、早速現地に向かい始める人なのです。
エリサベトの家に着くまでの距離は長い。150キロメートルほどです。けれどナザレの若きマリアは、聖霊に促されて、障壁を前に留まることはありません。間違いなく、皆さんが体験したワールドユースデーでの旅は、参加している人に生じる素晴らしい出来事について黙想するのに役立ったことでしょう。
同じことが巡礼の歩みを始めるにあたり、わたしたちに生じます。長い道のりのうちに、人生の出来事が脳裏に浮かんだり、その意味に入り込んだり、神との出会いや他者への奉仕のうちに示される自分の召命を深めたりもします。


力ある方が私に偉大なことをなさいました

若い女性と年老いた女性という二人の女性の間での出会いには、聖霊の現存が満ちていて、そこには喜びと驚きが満ちています(ルカ14045節)。二人の母は、そのおなかに運ぶ二人の息子たちと同様に、幸せのあまり今にも踊り出しそうになります。エリサベトは、マリアの信仰に「信じた人は幸い。なぜなら主が言ったことは果たされる」から と感心しながら叫びます(45節)。
そうです、おとめマリアが受けたプレゼントの中でも最も素晴らしいものの一つは信仰です。そしてエリサベトはそれ故にマリアを祝福します。マリアは一方で、マグニフィカトの歌で答えますが(ルカ146節-55節参照)、そこで私たちは「偉大な方が大いなることを私にして下さいましたから」という言葉を見いだします。
マリアの祈りは革命的です。これは、自分の限界を知りつつも、神のいつくしみに信頼する、信仰に満ちた若い女性の歌です。この小さく勇気のある女性が神を喜ばせます。というのも神はその小ささを見つめ、自分に託された人々、貧しい人々、様々な欠乏を体験している方々に実現したからです。
信仰はマリアの物語すべての心臓部にあります。その賛歌は私たちが、どのように主の慈しみが、わたしたち個々人にとっても、人類全体にとっても、その歴史の原動力であるかということを理解するのに役立ちます。
神が男の子の心、女の子の心に触れる時、彼らは大いなるわざを行える存在になります。マリアの人生の中で偉大な方がなさった「大いなること」は、無意味にぶらつくことではなく、どれほど不明確なことや苦しみがあっても、神においてその充満に出会う巡礼であるわたしたちの人生の旅路についても語っています(2015815日のお告げの祈りにて)。
あなたたちは私にこう言うでしょう。「神父さん、でも私は色々とできないことばかりです」「私は罪びとです」「何ができるでしょうか?」と。主がわたしたちを呼ぶとき、わたしたちがどんな状態にあるかとか、何をしてきたかには目を留めません。その反対に、わたしたちを呼ぶときに、神はわたしたちがこれから差し出しうるもの、わたしたちに提供できる愛のすべてを見ておられるのです。
若いマリアのように、皆さんは自分の人生を、世界をよりよくするための道具に変えることができます。イエスは皆さんに、人生において足跡を、皆さんの歴史と多くの人々の歴史を刻むような足跡を残すようにと呼び掛けているのです(2016730日、クラクフでの徹夜祭において)。


青年であるということは過去から断絶していること意味しない

マリアは、皆さんの多くがそうであるように、思春期を少し超えたくらいでした。それなのに、マグニフィカトの中で、自分の民と歴史をたたえます。このことは、青年であるということは過去から断絶していること意味しない、とわたしたちに教えています。わたしたちの個人的な歴史は、長い時間、何世紀にもわたってわたしたち以前に存在してきた共同体的歩みの一部を成すのです。
マリアのように、わたしたちは一つの国家集団に属しています。そして教会の歴史は、荒狂う海を渡らなければならない時でさえ、神の手がこれを導き、困難な時を乗り越えさせてくれることをわたしたちに教えています。教会における本物の体験は、フラッシュモブのようなものではありません。つまり、時間指定をしてタイミングを合わせ、パフォーマンスをしたらその後でそれぞれが自分の道を行く、というようなものではないのです。
教会はその内側に長い伝統を抱えていて、それは世代から世代へと受け継がれていきます。そしてそれは同時に一人ひとりの経験をって豊かになります。皆さんの歴史も同じように、教会の歴史のなかにその場を占めているのですよ。
過去のことを思い出すのは、神がわたしたちの中で、またわたしたちを通して行いたいと望んでいる新しいわざを受けるためにも役立ちます。そしてわたしたちが神の道具、神の救いのプロジェクトの協力者となることを選び取るのを支えます。
青年の皆さんも、もし自分の人生の中で、神のいつくしみ深く全能のはたらきを認識するなら、大いなることを行い、大いなる責任を引き受けることができるでしょう。
わたしは皆さんにいくつかの質問をしてみたいと思います。自分の人生の出来事や経験を、皆さんの記憶の中でどのように「維持して」いますか? みなさんの記憶の中に刻まれた出来事やイメージを相手に何をしていますか? 人によっては、人生の状況によって傷つけられ、自分の過去を「やり直し」、できることなら忘れてしまいたいし皆にも忘れてもらいたい、と望む人もいるでしょう。
けれど皆さんに思い出してもらいたいのは、過去のない聖人はいないこと、未来のない罪人もいないことです。真珠(パール)は貝の傷から生まれます。イエスは、その愛をもって、わたしたちの心を癒し、わたしたちの傷をほんものの真珠に変えることができます。聖パウロが言っていたように、主はわたしたちの弱さを通してその強さを示されるのです(IIコリント129節参照)。
それでもわたしたちの記憶、ハードディスクのメモリーのように、山積みにされたままにしてはなりません。すべてをバーチャルな「クラウド」にため込んではいられないのです。過去の出来事ダイナミックな現実にすることを学ばなければなりません。その現実について回想し、わたしたちの現在と将来のための教えと意義を引き出すためです。わたしたちの全存在をつなげる神の、愛の〈赤い糸〉を見いだすことは、難しいけれど必要な務めなのです。
多くの人々が皆さん青年のことを、物事をすぐ忘れるし、うすっぺらい、と言っています。わたしはまったくもってこれに賛同できません。けれどわたしたちの生きる現代において、自分の人生についてよく考える能力を回復し、未来に向かっていかなければならないということ納得しなければなりません。〈過去がある〉ということは、歴史を持つ〉ということ同じではありません。
わたしたちの人生では、実に多くの記憶を持つことができますが、そのうちのどれほどが本当にわたしたちの思い出をなすでしょうか? どれほどがわたしたちの心にとって意義深く、わたしたちの存在に意義を与えるのに役立つでしょう? 「ソーシャルネットワーク」には、まぁ大体ほんものと言えるような出来事について物語る、ものすごい量の写真に見られる青年たちの顔がたくさん現れます。けれどそのすべてのうちのどれほどが「歴史」、つまり目的と意義を持って語られうる体験なのか分かりません。
テレビのプログラムには「のぞき見ショー」(”Big brothers”のようなリアリティショー番組)があふれていますが、それは本物の歴史は作りません。それはカメラの前で過ぎる短い時間で、番組に出てくる人たちが、その日暮らしを人生計画もなく過ごすのを見せるだけです。このような「本物」についての偽りのイメージに騙されてないようにしてください。皆さんは、自分の歴史の主役となり、自分の未来を決めてください。


どのように一致し続けられるのか。マリアの模範に従いつつ
マリアのことはよく、出来事をすべて心に納めて、思いめぐらしていた、と語られます(ルカ219節、51節)。この素朴なナザレ女性が、人生の出来事の記憶を心に納め、またその出来事を一つにつなぎ、断片を再構成して全体でモザイクを作ることができるような模範をもって、わたしたちに教えます。では、どのようにすれば、そのような意味で具体的に実践できるのでしょうか。皆さんにいくつかの助言をします。
毎日、その一日の終わりに、素敵な瞬間や挑戦、うまくいったことや、うまくいかなかったことを思い出すために数分間何もしない時間を作るのもいいでしょう。このようにして、神の前で、またわたしたち自身の前で、感謝の念や反省、信頼の念をあらわすことができます。また、もし望むなら、ノートにいわゆる霊的日記のように書きつけることもできるでしょう。
これは生活の中で、生活をもって、生活について祈る、ということです。そしてまったくもって確かに、主が皆さん一人ひとりの中で実現する偉大なわざをよりよく理解するのに役立つことでしょう。聖アウグスティヌスが言っていたように、神にはわたしたちの思い出の広い平野にそれを見いだすことができるのです(『告白録』十巻812節)。
マグニフィカトを読みながら、マリアが神の言葉について持っていた知識に気づきます。この歌の一節一節には、旧約聖書にその平行箇所があります。イエスの若い母はその民の様々な祈りをよく知っていたのです。きっとその両親と曽祖父たちがマリアに教えたに違いありません。
ある世代から次の世代への信仰伝達がどれほど重要なことか! わたしたちの先祖たちが教えてくれた祈りや、わたしたちが民間信仰として知っている、素朴な人々の文化で生きていたそうした霊性に、隠された宝があるのです。マリアは自分の国の人々の信仰の遺産を拾い上げ、それを使ってまったく自分のものでありながら全教会のものでもある歌を作るのです。
教会全体はマリアと共にこの歌を歌います。皆さん青年もマグニフィカトを完全に自分のものとして歌い、自分の人生を全人類のための賜物とすることができるためには、歴史の伝統につながり、皆さんに先立つ人々の祈りは基本です。
そこから聖書、つまり神の言葉をよく知ることの重要性、自分の人生と向き合い、主が聖書において私たちに語ったことに照らして日々の出来事を解釈しながら毎日聖書を読むことの重要性が現れます。祈りの中、また聖書の祈りながらの読書(レクチオ・ディヴィーナと言われているもの)の中で、イエスは皆さんの心を燃え立たせ、存在の最も困難な時にすら、皆さんの歩みを照らすでしょう(ルカ241335節参照)。
マリアはわたしたちにエウカリスティア的な態度のうちに生きることを教えます。それは感謝をささげ、賛美をつちかい、問題や困難にのみ錨を下ろすことのないようにする態度です。人生の躍動の中で、今日の祈りは、明日には感謝のきっかけになっていることでしょう。
このようにして、皆さんのミサへの参加とゆるしの秘跡を祝う瞬間は、同時に頂点でありながら出発点になります。皆さんの生活はゆるしをもって日々新たにされ、全能者である神へのたゆまぬ賛美になるでしょう。「神の記憶は優しいあわれみに満ちた心です。その心は、わたしたちの中の悪の痕跡を『消す』ことに喜びを見出します」(2016731日、クラクフでのワールドユースデー閉会ミサ説教より)。
ここまでマグニフィカトが年老いた いとこのエリサベトと出会った時にマリアの心から湧いてきたものであることを見てきました。エリサベトは、その信仰をって、その洞察力をもって、その言葉をもって、マリアの中での神のわざや、神がマリアに託した使命の偉大さを、マリアがよりよく理解するように助けます。そして皆さん、皆さんは青年たちと老人たちとの出会いが意味する豊かさの計り知れない源泉に気づきますか? 皆さんの知っている老人たちや、皆さんのおじいさんやおばあさんは皆さんにとってどれほど重要ですか?
皆さんは、あまりに当然のことではありますが、「飛び立とう」という気持ちを高めています。心の中にたくさんの夢を抱えています。けれどそこには高齢者の知恵や展望必要です。皆さんは自分の羽を風に乗せて広げている間、自分の根を見いだし、自分の先を歩んでいる人々の承認を得ることは不可欠です。
意味のあるような将来を建設するためには、過去の出来事を知り、それらを前に自分なりの姿勢を取ることが必要なのです(使徒的勧告『愛の喜び』191項、193項参照)。皆さん、青年の皆さんには力があります。それは高齢者の皆さんやその記憶、知恵です。エリサベトといたマリアのように、皆さんの眼差しを皆さんの周りにいる高齢者に向けてください。彼らは皆さんの思考をわくわくさせ、心をどきどきさせるようなことを語ってくれるでしょう。


新しい時代を作り上げるための創造的な忠実さ

皆さんが生きてきた年数が少ないのは確かです。だからこそ、伝統に対して必要な価値評価を与えるのが難しいのも確かです。このことは、別に伝統主義になることを意味しないことをよく覚えていてください。違います。福音の中のマリアが「力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから」(ルカ148節)と言う時、あの「偉大なこと」は終っておらず、今でも実現し続けている、とっているのです。
おぼろげな遠い昔のことではありません。過去の記憶を追う能力があるということは、ノスタルジーにふけることも、歴史のある時期にしがみつき続けること意味しません。自分の起源を認識し、いつも本質的なものに戻ることで、創造的な忠実さをもって新しい時代の建設に踏み出すことなのです。
いつも同じ仕方で同じことを実現するように強いる、身動きを出来なくする記憶をつちかうことは、誰の利益にもならないひどい問題でしょう。皆さんの多くが、皆さんの対話の相手や夢、問いをもって、物事が違ってあることを認めない人々に向き合うのを見るのは、天の賜物です。
現在の価値だけを認める社会は、過去から受け継いできているすべてを軽蔑する傾向にあります。たとえば結婚の制定や奉献生活の制定、司祭の使命の制定などです。そうしたものは意味は空しく、その形式はもう時代遅れのものだと考えられています。
「オープン」と言われている状況を生き、のぞき見番組(リアリティショー)のように目的も行先もなく生きるほうがよいと考えられています。騙されてはいけません。神は皆さんの人生の地平を、あらゆる方向に広げるために来たのです。神は幸福な未来をよりよく目指すためのふさわしい価値評価を過去に与えるのを助けます。けれどそれは、わたしたちがほんものの愛の経験を体験するときにのみ可能です。本当の愛の体験とは主の呼びかけを見いだすことや、それに協力することのうちに具体的になります。これがわたしたちを本当に幸せにする唯一のことなのです。
愛する青年の皆さん、パナマへの皆さんの歩みと、次回の司教シノドス準備の道のりを、幸いなる若きおとめマリアの、母親らしい取り次ぎにゆだねます。この2017年に関しては二つの重要な記念日を思い起こすように招きます。ブラジルにおけるアパレシーダのマリア像の発見300周年と、ポルトガルのファティマでの聖母の出現百周年です。ファティマに関しては、もし神が望まれるならば、今度の五月に巡礼に行きたいと思っています。
ポレスの聖マルティンは、ラテン・アメリカと2019年のワールドユースデーの守護聖人の一人ですが、彼にはその日々の謙虚な祈りと奉仕生活の中で、自分の子としての愛のしるしとして、マリアに一番の花を捧げる習慣がありました。皆さんも、マルティンのように、聖母との、家族の関わりや友情関係をつちかい、マリアに皆さんの喜びや不安、心配ごとを委ねてください。後悔しないことを確証します。
ナザレの青年マリアは、全世界でその子らに近づくために、何万もの顔ぶれや名前を引き受けてくださいます。このマリアが、わたしたち一人ひとりのために取り次ぎ、わたしたちを通して主が実現する偉大なわざを告げ知らせるのを助けくれますように。

バチカンより
2017227日、痛みの聖母の聖ガブリエルの記念日に

フランシスコ