2013年6月6日木曜日

6月5日、朝ミサ説教:神の前で自らの苦しみを叫ぶのは、心からの祈り

朗読個所  : 聖ボニファチオ司教殉教者(記)
         トビト3・1-11a、16-17a
         マルコ12・18-27

バチカン、6月5日20時5分(バチカンラジオ)
 
 「神の前で自分の苦しみを嘆くのは罪ではなく、主に届く心からの祈りです」。聖マルタの家の小聖堂で祝われた朝ミサの説教の中で今朝、パパ・フランシスコはこのことを確言した。

 ミサには典礼秘跡省とバチカン使徒座図書館のメンバーが参列し、共同司式にはアントニオ・カニサレス・ヨヴェラ枢機卿、チェサーレ・パスィーニ卿、そしてジョゼフ・ディ・ノイア卿が上がった。

 トビトとサラの話はこの日の第一朗読からのものであるが、これがパパの説教の中心にあった。「二人の正しい人たちが、劇的な状況を生きています」、とパパは言った。「前者は善い行いを実現しているにかかわらず目が見えなくなったうえに、そのいのちが危機に陥ります。後者は結婚の初夜を前に花婿に死なれて、という結婚を七人の人と繰り返します。双方とも、その底知れない痛みの中で神に死なせてほしいと願います」。「彼らは限界の状況にいる人々です。まさに存在のどん底にある状況にいるのです。そして出口を求めます。嘆きます。けれど『冒涜の言葉は吐きません』」

 「神の前で嘆くのは罪ではありません。知り合いの司祭は、災難のせいで神さまを前に嘆いていた女性にこう言いました。『でも、奥さん、それは祈りの形の一つですよ。頑張って』。主はわたしたちの嘆きを感じ、聞いて下さいます。大きな次元で考えましょう。ヨブ記の第三章でこう言っています。『わたしが世に生まれた日は呪われよ』。またエレミヤも、20章で『呪われよ…』と言っています。嘆きますが、呪いが伴っています。主に対する呪いではないけれど、そういう状況、ありますよね?これが人間的なのです」。

 パパは強調した。「限界の状況を生きている人々がたくさんいます。栄養失調の子供たち、逃亡者たち、不治の病の人々・・・。今日の福音では、サドカイ派の人々がイエスにある限界状況の女性を提示しました。七人の人と死に別れたやもめです。心にあるこの浮き沈みについては語りません」。

 「サドカイ派の人々はまるで実験室にいたかのようにこの女性について語っていました。すべての側面においてです。すべてです。道徳的な状況でした。わたしたちは、このようにとても苦しむ人々について考える時、まるで道徳のケースであるかのように考えます。概念においてでもです。『しかしこのケースにおいては・・・、このケースは…』と。あるいはわたしたちの体をもって、この肉体をもって考えるのでしょうか?わたしはこうした状況について、あまりに学術的に、人間的ではない形で、時に統計をもって語られるのが好きではありません。そうではなく、ただそこに一緒にいることの方が好きです。教会にはこうした状況にいる人々がたくさんいます」。

 「こうした場合、イエスが言っていることを行う必要があります。祈ることです」とフランシスコははっきりと述べた。

 「この人たちのために祈ることです。この人たちはわたしの心に入らなければなりません。わたしにとって落ち着かなくなる動機でなければなりません。わたしの兄弟が苦しんでいる、わたしの姉妹が苦しんでいるのです。ここに《聖徒の交わり(=諸聖人の通交=聖人たちの聖体的一致》の神秘があります。主にこう祈ることです。『でも主よ、この人を見てください、泣き、苦しんでいます』と。こういう言い方をさせてください。肉体をもって祈ること、です。わたしたちの肉体が祈るように。概念ではなく、心で祈るのです」。

 「トビトとサラの祈りは、確かに死を求めながらではあるけれど、主に向かっています。この二つの祈りはわたしたちに希望を与えます」とパパは強調した。「なぜなら神は彼らを聞いて下さるからです。彼らを死なせることはなく、トビトを癒し、最後には、さらに婿を与えもします」。「祈りは、いつも神の栄光に到達します。それが心からの祈りであるならばいつもです」と続けた。一方「道徳のケースとして、サドカイ派の人々が語っていたようなこのような形であるならば、決して神に届きません。なぜなら決してわたしたち自身の枠から出て行かないからです。わたしたちにはそのことに興味がないのです。それは知能ゲームなのです」。
(マリア・フェルナンダ・ベルナスコーニ – RV).

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