2013年4月8日月曜日

4月7日、ミサ、ローマ司教としての就任式説教:イエスの愛の傷口に匿(かくま)われること

朗読個所:   復活節第2主日
          神のいつくしみの主日
          使徒言行録5・12-16
          黙示録1・9-11a、12-13、
              17-19
           ヨハネ20・19-31:http://www.pauline.or.jp/calendariocappella/cycleC/c_pasqua02sun.php#first

(こちらで本人の声を聞きながら、どうぞ:http://www.youtube.com/watch?v=OS4xIcYWJyQ
バチカンラジオ、4月8日

 神のあわれみの主日の17時30分に、ラテランの聖ヨハネ大聖堂にて教皇フランシスコはローマ司教としてローマ高位聖職者としての就任を機にミサをささげた。

 就任の後、ローマ教会の共同体代表者の側からの従順を示す儀式が行われた。事実、この会司式の間に6人の枢機卿、つまり司教団、司祭団、助祭団の三つの位階から、枢機団全体の代表で二人ずつの代表者が教皇の前に表明した。この機会に、ローマ教区の大聖堂において、他の補佐司教と共に副管理人である枢機卿代理のアゴスティーノ・ヴァッリーニ卿、一人の主任司祭、一人の助任司祭、一人の助祭、一人の修道者、一人の修道女、一家族、そして二人の青年(若い男性と若い女性)が代表者として進み出た。

 説教において、他の様々なことのなかで、ローマ司教は次のように述べた。「愛する兄弟姉妹の皆さん、大いなる喜びのうちにローマ司教のカテドラルであるこのラテラン大聖堂で聖体祭儀をはじめてささげます。最高の愛情をもって枢機卿代理、補佐司教団、教区の司祭団、助祭団、修道者団、修道女団、全信徒にごあいさつ申し上げます。共に、復活された主の光に向かって歩んでまいりましょう。

 今日は、「神のあわれみの主日」とも呼ばれている復活節第二主日を祝っています。
  わたしたちの生活において、この信仰の現実は美しいですね。神のあわれみの現実は。本当に大いなる愛、わたしたちに対して神が持っている実に深い愛、弱まることのない愛、わたしたちの手をしっかりとつかんでくれる愛、わたしたちを支え、わたしたちを立ち上げ、わたしたちを導いて下さる愛の現実は」。

 そして教皇は次のことを思い出させた。「今日の福音では、使徒トマスはまさにこの神のあわれみを体験しました。そのあわれみには具体的な顔、つまりイエスの顔、復活されたイエスの顔があります。トマスは他の弟子たちが言った「わたしたちは主を見た」という言葉を信じません。彼にはイエスのかつて告げられた、三日目に復活する、という約束では足りないのでした。イエスを見たい、その手を釘の跡とわき腹に入れたいと望んだのです。イエスの反応はどうだったでしょうか?忍耐です。イエスは頑固なトマスのその不信を前にして諦めません。一週間という時間を与え、扉を閉ざさず、待ちます。そしてトマスは自らの貧しさ、つまり信仰の少なさを認めます。「わが主よ、わが神よ」と言いながら。この単純な呼びかけは、しかし信仰に満ちており、イエスの忍耐に応えています。神のあわれみによって包まれるがままにし、それを自らの目の前で、手の傷、足の傷、開かれた脇腹に見て、信頼を取り戻します。もう新しい人なのです。もう不信の人ではなく信仰者なのです」。

 教皇はペトロのことを思い出すようにとも招いた。「ペトロはイエスの一番近くにいなければならなかったまさにその時に、イエスのことを三度否みます。そして淵まで至った時にイエスの眼差しに出会います。その眼差しは忍耐を持って、言葉なく、彼に語ります。「ペトロ、あなたの弱さに恐れをなしてはいけない。わたしに信頼しなさい」と。そしてペトロはこれを理解し、イエスの愛の眼差しを感じ、泣きます。イエスのこの眼差しの何と美しいことか。どれほどの優しさに満ちているでしょう!兄弟姉妹の皆さん、神の忍耐深い憐みに対する信頼を決して失わないようにしましょう」。

 同様にその説教においてフランシスコはエマオの二人の弟子たちについて考えるように招いた。「悲しい顔で、希望を失ったひたすらな歩み。けれどイエスは彼らを見捨てません。道すがらかれらの真横で巡り歩き、一人では歩きません。忍耐をもって自分に関する聖書の書物について説明し、彼らと食事を分かち合うために歩みを止めます。これこそ神のスタイルなのです。何度も何度も物事に関しても人に関しても、全てのことをすぐに求めてしまうわたしたちのように短気ではありません。キリスト者としてのわたしたちの生活においてこれを覚えていましょう。神はいつも待ちます。わたしたちが遠く離れている時でも待ちます。神は遠くに立つことは決してなく、もしわたしたちが神に立ち返るなら、わたしたちを抱きしめるに備えているのです」。

 ローマ司教はこうも言った。「あわれみ深い父の譬え話(=訳者注:放蕩息子の譬えとして知られているもの)を読み返すたびにいつも大いなる感動が生まれます。感動するのはなぜかというと、いつも大いなる希望がわたしに注ぎこまれるからです」。そして他の要素をも強調して言った。「神の忍耐はわたしたちのうちに神に立ち返る勇気を必ず見出します。わたしたちの人生においてどれほどの過ちを犯していようとも、どれほどの罪があろうともです。イエスはトマスを招いてその手を自分の手と足の傷口に入れ、脇腹の傷口に入れるようにと招きます。わたしたちもイエスの傷口に入ることができます。ほんとうにイエスに触れることができるのです。そしてこれは諸秘跡を受けるたびに生じる出来事なのです」。

 教皇はその説教の終わりの部分でこう言った。「わたしの個人的な人生において、神のあわれみの顔、その忍耐を何度となく見てきました。また多くの人々のうちに『主よ、わたしはここにいます。わたしの貧しさを受け入れ、わたしの罪をあなたの傷口のうちに隠し、あなたの血によってその罪を洗い清めてください』と主に向かって言いながら、イエスの傷口のうちに入る決意をもみてきました。そしてわたしは、神がこれをなさったこと、迎え入れ、慰め、洗い清め、愛して下さったことをいつも見てきました」。

 フランシスコは次のように結んだ。「愛する兄弟姉妹の皆さん、神のあわれみに包まれるようにしましょう。わたしたちに時間をくださる神の忍耐に信頼しましょう。神の家に帰り、神がわたしたちを愛するようにと任せながらその愛の傷口のうちに住まい、諸秘跡のうちにそのあわれみを見出す勇気を持ちましょう。神の優しさを感じましょう。神の抱擁を感じましょう。そしてわたしたちも、よりあわれみや、忍耐、ゆるし、愛の能力を高めることができますように」。


【説教全文】

 喜びにあふれてローマ司教のカテドラルであるラテラン大聖堂で初めての聖体祭儀を祝います。親愛なる補佐枢機卿、 補佐司教団、教区司祭団、助祭団、ブラザーたち、シスターたち、そして信徒の皆さんに、この上ない情愛をもって挨拶いたします。同様に、師長とその奥さま、権威の皆さまに挨拶いたします。共に、復活された主の光に向かって歩んでまいりましょう。

1.今日、復活節第二主日を祝っていますが、これは同時に「神のあわれみの主日」とも呼ばれています。わたしたちの人生にとってこの信仰の現実は、何と美しいことでしょう!神のあわれみ・・・。神がわたしたちに持っている実に大きく、実に深い愛。 朽ちることのない愛、いつでもわたしたちの手をつかみ、わたしたちを支え、わたしたちを立ち上げ、わたしたちを導く愛です。

2.今日の福音で、使徒トマスはまさにこの神のあわれみを体験します。そのあわれみには具体的な顔があります。イエスの顔です。復活したイエスの顔です。トマスは他の使徒たちが「わたしたちは主を見た」と告げたその言葉を信じません。トマスにはイエスが既に告げた、三日目にわたしは甦る、という約束のことばだけでは不十分です。見たい、釘跡とわき腹にその手を入れたいと望みます。イエスの反応はどうでしょうか?忍耐です。イエスは頑固なトマスをその不信感のゆえに見捨てることなく、一週間という猶予を与え、扉を閉めず、待ちます。そしてトマスは自らの貧しさ、信仰の足りなさを自覚します。「わたしの主よ、わたしの神よ」と言いながら。この簡素な、しかし信仰に満ちた呼びかけのことばをもって、イエスの忍耐に応えます。神のあわれみに包まれるがままにし、手と足の傷、そして開かれた脇腹のうちに満ちるあわれみの前に赴き、信頼を回復します。彼はもはや新しい人です。信じないものではなく、信じるものとなりました。

 また、ペトロのことも思い出しましょう。ペトロはまさにイエスのもっとも近くにいなければならなかった時にイエスを知らないと3度、否みます。 そして淵に到達したところでイエスの眼差しに出会います。その眼差しには忍耐があり、言葉はないけれども語ります。「ペトロよ、自分の弱さに怖気づかずに、わたしに信頼しなさい」と。そしてペトロは、これを理解し、イエスの愛の眼差しを感じ、泣きます。イエスの子の眼差しは、何と美しいことでしょう!どれほどの優しさに満ちていることか!兄弟姉妹の皆さん、神の忍耐強い憐みへの信頼を決して失わないようにしましょう。

 エマオの二人の弟子のことを考えましょう。悲しい顔つき。希望を失ったひたすらな歩み。けれどイエスは彼らを見捨てません。道すがら彼らの真横で歩み、一人では歩きません。忍耐をもって自分に関する聖書の書物について説明し、彼らと食事を分かち合うために歩みを止めます。これこそ神のスタイルなのです。何度も何度も物事に関しても人に関しても、全てのこと をすぐに求めてしまうわたしたちのように短気ではありません。キリスト者としてのわたしたちの生活においてこれを覚えていましょう。神はいつも待ちます。 わたしたちが遠く離れている時でも待ちます。神は遠くに踏みとどまることは決してなく、もしわたしたちが神に立ち返るなら、わたしたちを抱きしめるに備えているの です。

 あわれみ深い父の譬え話は、何度読み返してもわたしに感動を呼び起こします。感動するのはなぜかという と、いつも大いなる希望がわたしに注ぎこまれるからです。父の家にいたあの次男のことを考えてください。彼は愛されていたのです。それでもなお、自分の分の財産を求めます。そして出て行き、財産を全部使い果たし、最低のレベルに至ります。父から遠く離れたところで。そして淵に到達したところで、ノスタルジーを感じて、父の家の温もりを懐かしく思い、我に返ります。では、父はどうだったでしょうか?息子のことを忘れたでしょうか?いいえ、断じて。そこにいます。遠くから息子を見ています。毎日、毎分毎秒、息子を待っていました。その心にいつも息子として抱いていました。自分が見捨てられた時でさえ、自分の全財産、つまりその自由を浪費し尽くした時ですら、息子として想っています。父は忍耐と愛をもって、希望とあわれみをもって、一時として彼のことを考えないような瞬間はありませんでした。そして息子を見るや否や、まだ遠くにいたのに、走っていって出会い、やさしさに満ちて彼を抱きしめます。神の優しさをもって、とがめの言葉を一言も発せずにです。息子が帰って来たのです。そしてこれが父の喜びなのです。その息子への抱擁にこの喜びのすべてがあります。帰って来たぁ!と。神はいつもわたしたちを待ちます。疲れません。イエスはわたしたちにこの神のあわれみに満ちた忍耐を示します。そうしてわたしたちは信頼、希望を常に取り戻すことになるのです。あるドイツ人の偉大な神学者であるロマーノ・グアrディーニは言っていました。神はその忍耐をもってわたしたちの弱さに応えるのだ、そしてこれこそがわたしたちの信頼、わたしたちの希望の動機なのだ(Glabenserkenntnis, Wurzburg 1949, 28参照)、と。それはちょうどわたしたちの弱さと神の忍耐との対話のようなものです。それはもしわたしたちがこの対話をするなら、わたしたちに希望を与える対話なのです。

3.もう一つの要素を強調しようと思います。神の忍耐はわたしたちのうちに神に立ち返る勇気を必ず見 出します。わたしたちが人生においてどれほどの過ちを犯していようとも、どれほどの罪があろうともです。イエスはトマスを招いてその手を自分の手と足の傷 口に入れ、脇腹の傷口に入れるようにと招きます。わたしたちもイエスの傷口に入ることができます。ほんとうにイエスに触れることができるのです。そしてこれは諸秘跡を受けるたびに生じる出来事なのです。聖ベルナルドは、ある美しい説教の中でこう言っています。「この裂け目を通して、堅い岩からの野蜜と油を放つことができる(申命記32章13節参照))、つまり、神がどれほどよいお方であるかを味わい、見ることができるのです」(『説教61』、4。雅歌について)。それはまさにイエスの傷の内側のことで、そこではわたしたちは安全であり、そこでイエスの心にある計り知れない愛が示されるのです。トマスはこのことを理解しました。聖ベルナルドは自問します。何を信頼することができるだろうか?自分の取り柄にであろうか?と。けれど「わたしの唯一の取り柄は、神のあわれみのみです。わたしは、主があわれみでなくならない限り、わたしの取り柄が乏しくなることはありません。そして主のあわれみは多いので、わたしの取り柄も多いのです」(同上、5)。これは重要なことです。イエスの憐みに信頼する勇気、その忍耐に委ねる勇気、その愛の傷口のうちに常に逃げ込む勇気は。聖ベルナルドはついに次のように確言するに至ります。「そして、たとえわたしの罪の多さを自覚していても、もし罪が大きくなったなら、恵みはさらにあふれんばかりになったのです(ローマ5章20節)」(同上)。おそらくわたしたちの中には次のように考えうる人もいるでしょう。わたしの罪はとてつもなく多き。わたしの神からの距離は譬え話の放蕩息子のようだ。わたしの不信はトマスのようだ。わたしには立ち返る勇気がない。神がわたしを迎え入れることができ、まさにわたしを待っておられるのかも知れないと考える勇気がない、と。けれども神はまさにあなたを待っておられ、ただ神のもとに返ってくるように、ということだけを頼んでおられるのです。わたしの司牧職において、何度繰り返されたことでしょう。「神父様、罪でいっぱいです」と。そしてわたしがいつもしていた招きの言葉は、「怖がらないで。主と共に行きなさい。主はあなたのことを待っていますよ。主がすべてして下さいます」でした。わたしたちのまわりで、どれほど多くの世俗的な約束があることでしょう。けれど、神の約束のとりことなるようにしましょう。その約束は、愛に満ちて頭を撫でてくれるようなものです。神に取ってわたしたちは何人いるかという数ではありません。わたしたちは大切なのです。わたしたちがわたしたちであることの方が持っていることよりも重要なのです。譬罪びとであっても、わたしたちは彼にとって最も大切なのです。

 アダムは罪を犯した後、恥ずかしくなりました。裸であると気付き、自分がしたことの重大さに気付きます。それでもなお、神はアダムを見捨てません。その時に、罪によって、神の追放が始まったのならば、そこにすでにもう一度約束があるのです。神に立ち返る可能性です。神はすぐに尋ねます。「アダム、どこにいるんだい?」と言いながら、探します。イエスはわたしたちのために裸になりました。アダムの恥を自らが担いました。その罪による裸をもってわたしたちの罪を洗うために。その傷によってわたしたちは癒されました。聖パウロの言葉を思い出して下さい。わたしの弱さ、貧しさ以外で誇れるものなどあるでしょうか? まさに自分の罪を感じながら、自分の罪を見つめながら、わたしは神のあわれみ、その愛を見、その憐みに出会うことができ、そのゆるしをいただくために神のもとに行くことができるのです。

 わたしの個人的な人生において、神のあわれみの顔、その忍耐を何度となく見てきました。また多くの人々のうちに『主よ、わたしはここにいます。わたしの貧 しさを受け入れ、わたしの罪をあなたの傷口のうちに隠し、あなたの血によってその罪を洗い清めてください』と主に向かって言いながら、イエスの傷口のうち に入る決意をもみてきました。そしてわたしは、神がこれをなさったこと、迎え入れ、慰め、洗い清め、愛して下さったことをいつも見てきました。

  愛する兄弟姉妹の皆さん、神のあわれみに包まれるようにしましょう。わたしたちに時間をくださる神の忍耐に信頼しましょう。神の家に帰り、神がわたしたち を愛するようにと任せながらその愛の傷口のうちに住まい、諸秘跡のうちにそのあわれみを見出す勇気を持ちましょう。神の優しさを感じましょう。神の抱擁を 感じましょう。そしてわたしたちも、よりあわれみや、忍耐、ゆるし、愛の能力を高めることができますように。

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