2013年4月24日水曜日

4月19日、朝ミサ説教:教会が道徳主義やイデオロギーから解放されるように

朗読個所:    使徒言行録9・31-42
           ヨハネ6・60-69
http://blogs.yahoo.co.jp/therese1897/31818873.html?type=folderlist

バチカン、4月20日(バチカンラジオ)

 神の言葉は謙虚に聞かなければならない、なぜならそれは愛の言葉だからである。そしてそのように心に入り、人生を変える。これは教皇フランシスコが住んでいる聖マルタの家の小聖堂で4月19日金曜日の朝ささげたミサの間の彼の説教のまとめである。この機会に、バチカン活版印刷所とローマ聖庁新聞社ロッセルヴァトーレ・ロマーノの従業員が参列した。

 聖パウロの回心とカファルナウムのシナゴーグ(会堂)でのイエスの演説が、今日の 聖書朗読個所である。教皇はその説教の中で、語るイエスの姿に焦点を当てた。自分を迫害するサウロに語り、サウロを迎えるようにと呼びかけてアナニアに語 り、律法学者たちにも語り、彼らにはもし自分の肉を食べその血を飲まなければ救われることはない、と言っている。

  教皇が確言するところによれば、イエスの声は、「わたしたちの頭を通って心に向かいます。なぜならイエスはわたしたちの回心を求めているからです」。パウ ロとアナニアは当惑しながら、しかし開かれた心で答えます。律法学者たちは違う仕方で答えます。自分たちの間で議論をし、イエスの言葉に厳しく口答えをし ます。

 「パウロとアナニアは救いの歴史に足跡を残した偉大な人々、たとえばエレミヤやイザヤといった人のように答えま す。 モーセにもそれなりの困難がありました。「しかし、主よ、わたしはどう話したらいいか分りません。「エジプト人たちにこのことをどう言いに行けばいいので しょうか?」と。そしてマリアは、「けれども主よ、わたしは結婚していません(男の人を知りませんのに)!」と答えます。これは心で神の言葉を受け入れる 人の謙虚な答えです。一方、教師たち(律法学者)は頭だけで答えます。神の言葉が心に向けられていることを知らないのです。回心とは何かを知らないので す」。

 教皇は同様にして、どういう人が頭だけで応えるかについて説明した。
 「偉い理論家(イデオローグ)はそうです。イエスの言葉は心に向けられます。なぜならそれは愛の言葉だからです。美しく、愛に導き、わたしたちが愛するようにする言葉だから です。この人たちは愛の道を断ち切ります、理論家(イデオローグ)たちというのは。美の道にも同様にします。そして自分たちの間で粗っぽく議論をし始めま した。『こいつはどうやって自分の肉を俺たちに食べさせようと言うのか?』頭でっかちはみんなこうやって問題になる!そして教会にイデオロギーが入ると、 イデオロギーが福音の知性に入り込むと、何も理解できなくなるのです」。

 それは、「義務の道」だけを通って歩む人々であると言った。それは道徳主義と呼ばれ、福音について頭で理解できることだけを実現しようとする人である。その人たちは「回心の道、イエスがわたしたちを導くその回心の道」にはいない。

  「そしてこうした人たちは、義務の道を行き、あらゆることを信者の背中に担がせます。理論家は福音を曲げています。あらゆる理論的な解釈は、それがどこか ら来ようとも関係なく、ある意味、福音を曲げているのです。そしてこうした理論家たちは、教会の歴史においてみてきましたが、存在することをやめてしまい ます。タレントのない頭でっかちに姿を変えます。善意のない倫理主義者に姿を変えます。そして美については言うまでもありません。何も理解できないのです から」。

 教皇フランシスコは結びに際しこう言った。「一方、愛の道、福音の道はシンプルです。それは聖人たちが理解をしてきた道です」。

 「聖人たちというのは、教会を前に引っ張っていく人々です。 回心の道、謙遜の道、愛の道、心の道、美の道です……。今日、教会のために主に祈りましょう。主があらゆる理論的解釈から解放し、教会の心を、わたしたちの母である教会の心を、シンプルな福音に対して、愛についてわたしたちに語り、愛に導き、とても美しい純粋なその福音に対して開かせますように。そしてわたしたちを美しくしますように、聖性の美しさでわたしたちを美しくしますように。今日、教会のために祈りましょう!

(マリア・フェルナンダ・ベルナスコーニ – バチカンラジオ職員によるスペイン語訳).

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