2013年4月29日月曜日

26日、朝ミサ説教:信仰の道は現実逃避ではなく天国の美への準備

朗読個所:   使徒言行録13・26-33
           ヨハネ14・1-6
http://blogs.yahoo.co.jp/therese1897/31858674.html?type=folderlist



バチカン、4月26日9時32分(ACI/EWTNニュース)

 信仰の道は、現実逃避ではなく全ての人が招かれている決定的な目的地である天国の美しさへの日々の準備であると、教皇フランシスコは今朝の聖マルタの家で捧げられたミサの説教において説明した。

 バチカンの活版印刷の従業員や使徒座労働事務所の従業員、国境警備隊のメンバーを前にした聖体祭儀において、フランシスコは今日の福音で弟子たちに言っている「心を騒がせるな」というイエスのフレーズについてコメントした。「

 教皇は続いて、場所を用意するということは、「すぐに来ようとしているもの、」と解説した。

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 しかし「そうした考えは現実逃避だ、人生というのはこれだ、具体的で、その先にあるものなど分るはずがない」という人もいる。「」。

 最後に教皇は確言した。「」




『バチカンニュース』の記事

教皇フランシスコはその説教をヨハネの福音朗読個所を中心に進めた(ヨハネ14章1―6節)。「「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。 わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。 行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。 わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」

 教皇のコメント:「このイエスの言葉はとても美しい言葉です。別れの時でしたが、イエスはその弟子たちに、まさに心の底から語ります。弟子たちが、物事がうまくいっていないことに気づいて悲しんでいるのを知っていました」。そこで、イエスは彼らを励まし、盛り上げ、落ち着かせ、希望の地平を提案します。「『心を騒がせるな』、そう話し始めるにあたり、友としてですが、牧者の態度をも示しながら語りかけます。言わば、イエスのこの言葉の奏でるメロディーこそ、牧者の態度といえるでしょう。どのように羊飼いがその羊たちに対して振舞うかが分ります。『心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい』」。

 こうした言葉を、聖ヨハネの福音の語りに従って発するにあたり教皇はこう言った。「何について語り始めるのでしょう?天国についてです。決定的なみ国です。『わたしをも信じなさい、わたしは忠実です』とでも言っているかのようです」。そして譬を用いながら行った。「まるで技師や建築士のように 何をしなければならないかを語ります。『(わたしは)あなたがたのために場所を用意しに行く。わたしの父の家には住む所がたくさんある』と。そしてイエスはその場所を用意しに行きます」。

 教皇フランシスコは自問した。「この準備とはどのようなものでしょうか?どう実現するのでしょうか?その場所とはどのような場所でしょうか?場所を用意するとは、どういうことでしょう?高い所に部屋を借りるということでしょうか?」。場所を用意するというのは、「わたしたちの、わたしたちを待つあのもの、わたしたちが目指して歩いているその国の美しさを喜び、見、感じ、理解する可能性、わたしたちの可能性を楽しむことができる許容力を用意することにあります」。

 「そしてキリスト者の人生全体は、イエスの働き、聖霊の働きですが、それはわたしたちのために場所を用意するための働き、わたしたちの目を見るために、わたしたち の耳を聞くために用意するための働きです。」。「『でも神父さん、わたしはよく見えます!眼鏡は必要じゃないんですが』。けれど、ここでは他の眼差しについて扱われています。網膜の病気をもった人について考えてみましょう。手術をしなければならないことになっているとして。彼らは見ることは見ますが、手術の後、どのように言うでしょう?『こんなふうに見ることができるとは考えたこともなかった、メガネがないのに、こんなにも綺麗に見えるとは』。わたしたちの目、わたしたちの魂は必要としている、わたしたちの魂に必要なことは、イエスの素晴らしいみ顔をしみじみと眺めるために用意されてある、という状態です』。つまり、『美しい出来事や美しい言葉を聞くために耳を準備する」ということです。「そして何よりも、心を準備するため、愛するために、さらに愛するために心を準備することです」。

 教皇は説明した。「人生の歩みにおいて、主はいつも、試練をもって、慰めをもって、苦難をもって、よい出来事をもってこのことをしてくださいます。人生の旅路すべては準備の道なのです。時には主は、この準備を急いでしなければならないこともあります。あのよい方の強盗(イエスと同じ時に十字架に架けられた一人)に対してなさったようにです。用意のために、ほんの数分しかありませんでしたが、これを成し遂げられましたよね。けれど、普通の生活では、他の仕方ですよね?心も、目も、耳も、主に少しずつ準備してもらうのです、そのみ国にたどり着くことができるように、そのわたしたちの国にたどり着くことができるように少しずつ。

 教皇フランシスコはわたしたちの人生、信仰の道のこの基本的なことへの視点を、永遠の局面を認めない人の妨げによって失うことへの警告をした。 「『でも神父さん、わたしは哲学者のところに行きました。そうしたらこうした考えは現実逃避だと、わたしたちは現実逃避をしているのだと言われましたよ。わたしたちの人生はこれ、この具体的なもので、その向こう側に何があるかなど分るはずがない、と』。このように考える人もいます。けれどイエスは、わたしたちに、そうではない、と言います。『わたしをも信じなさい。あなたに言っていることは本当ですよ。わたしは罠にかけているわけではありませんよ、わたしはあなたをだましませんよ』と。聖パウロが今日の第一朗読で言っているように、アブラハムの子孫であるわたしたちは、み国に向かう道にいるのです(使徒13章26-33節)」。

 教皇は確言した。「そしてアブラハムの時代から、わたしたちは、決定的なみ国の約束を信じて歩みを進めているのです。もしヘブライ人への手紙を読むと、わたしたちの先祖、わたしたちの父祖たち、み国に向かうこの道を作り、遠くからそのみ国を眺めていた人々について、美しい描写を見出すことができます。天国のために自分を準備するということは、遠くから神を見つめ、挨拶をし始めることです」。そして「これは現実逃避ではありません。これは真理です。 それが、イエスに、あんなにも偉大な美しさのためにわたしたちの心を用意してもらう、ということなのです。これは美の道です。これは天国への帰還の道でもあります」。

 教皇は次のように望んで説教を結んだ。「神さまがわたしたちにこの強い希望を賜りますように」、また「わたしたちに遠くからみ国を見つめる勇気をも与えてくださいますように」。と、そして最後に「神さまがわたしたちに希望、勇気、謙虚さをたまわり、主がわたしたちの心、目、耳にその決定的な住む場所を用意するその働きに委ねることができますように!」

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