2013年4月5日金曜日

4月4日、朝ミサ:平和には値段がない:4月4日

朗読個所 : 復活の木曜日
          使徒言行録3・11-26
          ルカ24・35-48:http://blogs.yahoo.co.jp/therese1897/31732633.html?type=folderlist

バチカン、4月5日 L’Osservatore Romano誌

 「平和は買えるものでも売れるものでもありません。 神の賜物です。そして願うことのできるものです」と教皇フランシスコは、4月4日木曜日の朝、イエスの奇跡を前にエマオの弟子たちによって示されたルカ福音書の「あまりの驚き」(24章35―48節)について語りながらこう思い出させた。これは、聖マルタの家の小聖堂でのいつもの朝ミサのなかで語られた言葉である。このミサにはバチカンの従業員が参加するが、今回はバチカン活版印刷のメンバーの参加が見受けられた。


  教皇は言った。「手足の麻痺した人の癒しの証しとなった弟子たちは、今やイエスを見ます。少し我を忘れたようになっています。けれど気がふれたからではありません。〈あまりにびっくり仰天して〉我を忘れたようになっているのです」。この〈あまりの驚き〉とは一体何なのか?教皇は言った。「これはわたしたちが少し我を忘れるときのようなもの、つまり、喜びによるものです。これは大きなものです。とても大きい。単なる熱気とかいうものではありません。サッカー場にいるファンの人たちも自分たちのチームが勝つとすごい熱気をはらみますよね?違うのです。熱気ではありません。何かもっと深いものです。それはイエスと出会う時に湧 き上がる〈あまりの驚き〉なのです。

 教皇は、この〈あまりの驚き〉は、「キリスト教徒の普段の状態」の始まりであると説明した。確かにいつも同じレベルの驚きでは生きられないけれど、この状況は「魂の刻印、霊的慰め」が入るようにと認める始まりなのである。事実、キリスト者の状態は、問題や痛み、病気があったとしても、霊的慰めの状態でなければならない。「慰めの最後のステップは、平和です。〈あまりの驚き〉をもって始まりますが、この慰めの、この〈あまりの驚き〉の穏やかな色彩のものが平和なのです」と教皇は言った。キリスト者は最も痛々しい試みにおいても、決して「平和とイエスの現存」を失わず、そして、「ほんの少しの勇気で、主に対して《主よ、あなたと出会ったことの刻印である、霊的な慰めのこの恵みをわたしに下さい」と言うことが出来るのです」。そして、特に、「平和を失わないように」と強調した。主を見よう、「十字架で、あれほど苦しまれ、平和を失わなかった方を。平和を、この平和を。わたしたちの考えるような平和ではありません。売ったり買ったりされない平和です」。それは願わなければならない神の賜物である。平和はいわゆる「喜びの〈あまりの驚き〉で始まる、この霊的慰めの最後のステップなのです」。だからこそ、「自分の想像、あるいは他の人の想像で、その想像が現実だと思わせるような」ことを認めてはならないのである。 事実、「現実がそんなに美しいわけがないと信じる」方がよりキリスト者的なのである。教皇は霊的慰めと平和の恵みを願いつつ結んだ。その霊的慰めと平和は 「イエス・キリストとの出会いにおける喜びのこの〈あまりの驚き〉に始まるもの」だからである。

 教皇と共に、他のサレジオ会員の人々と共に、 バチカン、ロッセルヴァトーレ・ロマーノ誌の活版印刷部の総務部長セルジオ・ペッリーニ師と広報部長のマレク・カシュマルチュク師も共同司式に上がった。

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