2013年4月7日日曜日

「行けることなら」シシリー島へ

バチカン、4月5日9時48分(ACI/EWTNニュース)

教皇フランシスコは、いつも汚職に対して敵対してきたが、イタリアでマフィアによって最も影響を受けた地域である「もしできることならばシシリー島を」訪問したがっている。

 話はバチカンの聖アンナ教会で教皇によってささげられた3月17日のミサに遡る。ミサが終って出てくるとき、何百もの信者に囲まれながら、一人のイタリア人司祭も彼を待っていた。教皇の友人であるアルゼンチン人司祭に伴われた、パスクアレ・ディ・ディオ神父である。

 そのとき、群衆のなかから、教皇は自分の同胞を認識し、ミサに来るように招いた。そのチャンスをついでにと、パスクアレ・ディ・ディオ神父もそのミサに「自己招待」した。

 「わたしは彼についていき、聖アンナ教会に入る許可をもらって、教皇のミサを味わおうと思いました」とディ・ディオ師は4月2日に、ACI誌グループの会見において語っている。

 ミサの後、このイタリア人司祭は聖座の住民で教皇の最初の数日、秘書を務めていたアルフレド・シュエレブ卿に手紙を渡した。


 「手紙のなかで、わたしは家族のための教皇からの特別な祝福を願ったのです」と司祭は言う。

 4月1日に、ディ・ディオ師は朝一番に電話を受けた。彼は信じられなかった。電話の向こう側には、シュエレブ卿の声が聞こえるのである。

 彼に電話がかかったのは、教皇が手紙を読み、司祭を4月2日の教皇が寝泊まりし続けている聖マルタの家でささげられるミサに招きたいとの理由からであった。教皇とのミサは7時半に始まり、パスクアレ神父にはシシリー島からローマまで、900キロ以上の距離を飛ぶための飛行機のチケットを見つけるのに、24時間もなかった。

 司祭は結局これを達成し、ミサをささげた後、教皇は司祭とその家族を軽い昼食に招き、ありがたい会話を楽しんだ。ディ・ディオ神父は教皇にシシリーでの自分の教区の現状と、モレアーレの大司教であるミケーレ・ペンニースィ卿の教区の現状を話し、教皇フランシスコはすぐにミケーレ卿に電話をすることになるのである。

 その電話で、教皇フランシスコは枢機卿にその教区のための祈りを約束し、「可能になり次第、シシリーを訪れましょう」と約束した。

 シシリーはマフィアによる数多くの脅迫や殺人の舞台となってきた。 1993年には、次のようなことも起こっている。ヘロインや他の麻薬を広めるのにシシリー・マフィアによって用いられたパレルモの子供たちの力強い守護者であったジュゼッペ・プリージ(通称『ぴの』)神父はパレルモの自分の小教区で殺害されたのである。

 『ピノ』神父はある家でマフィアの手で生まれたパレルモのブランカッチオ地区の何百もの子供たちを救うためのイニシアティブを企画していた。その献身はマフィアの計画を難航させるようになった。司祭は1993年9月15日、ちょうど56歳を迎えた誕生日に殺害されたと報告されている。

 2012年6月に、今はローマの名誉司教であるベネディクト16世はこの司祭を信仰の殉教者として認めた。

 バチカンは教皇のシシリーへの旅行の可能性については語っていない。今のところ教皇の旅行の予定表には7月23日から28日の、ワールドユースデーのためのリオ・デ・ジャネイロ行きだけが企画されているということである。

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