2014年3月24日月曜日

3月21日(金)、朝ミサ説教:神の言葉の「所有者」にならないための謙遜と祈り

   心の中で神の言葉を「殺す」ことのないために、謙虚であること、祈ることを知っていることが必要である。これは、聖マルタの家の小聖堂で祝われた朝ミサの説教で福音のコメントをするにあたり今朝パパ・フランシスコが指摘した二つの態度である。

 もし一キリスト者として謙虚でなく、祈ることがないなら、神の言葉の所有者になり、自分の好みに従った答えを導き出すこともあり得ます。この罠を前に警戒網を張るために、パパは、イエスが語ったブドウ園の労働者の譬え話、最初にしもべたちを殺し、最後には相続財産を自分のものにしようという意図でブドウ園の主人の息子を殺す殺害者たちの譬えを語る、当日の福音に基づいてこの考えを繰り広げた。この譬えは、ファリサイ派の人たち、長老たち、祭司たちが聞いたものです。つまり、「かみのことばにたいして開かれた心を」持たないために「どこまで堕ちてしまったか」を理解させるためにイエスはこの言葉をこの人々に向けたのです。

「これはこうした人々のドラマですが、わたしたちのドラマでもあります!神の言葉を我が物顔で所有してしまったのです。そして神の言葉が彼らの言葉になり、自分の関心に従った言葉、自分の主義主張、自分の神学に従ったものになり、しかし自分に仕えるものになってしまったのです。そして一人一人自分の意志、自分独自の関心に従ってこれを解釈するのです。これが、この民のドラマなのです。そしてこのことを続けるために、人殺しをするのです。これがイエスに降りかかった出来事なのです」。

 「祭司長たちやファリサイ派の人々は、イエスの子の言葉を聞いた時自分たちについて語られていたことを理解しました。イエスをとらえて殺そうとしました」。これと同様に、「神の言葉は殺されます。捕えられます。聖霊が彼ら一人一人の願望という檻の中に綴じこまれているのです」。そしてこれはぴったりわたしたちに生じる出来事なのです。「わたしたちが神の言葉の新しさに開かれていない時に、わたしたちが神の言葉に従順ではない時に」。

「けれど、わたしたちに希望を与えるフレーズがあります。神の言葉はこうした人々の心の中で死んでいて、わたしたちの心の中でも死ぬことがあり得るのです。けれど、それでは終わらないのです。なぜなら、素朴な人々、貧しい人々、神の民の心の中に生きているからです。捕まえようとしたけれど、神の民の群集に恐れをなしたのです。なぜならイエスのことを預言者であるとみなしていたからです。この素朴な群衆は、イエスの言っていたことがその心に良いものをもたらし、心に温もりを与えていたためイエスの後をついて行っていた人々ですが、この人々はあやまつことがありませんでした。神の言葉を自分の関心のために用いることはなかったのです。もう少しいい人になろうと感じ、努めたのです」。

 その説教を結ぶにあたり、フランシスコは問いかけた。「ではわたしたちは、神の言葉を殺さないために何をすることができるでしょう?従順であるために、聖霊を檻に閉じ込めないために、どうすればいいのでしょう?」その答えは、「二つのシンプルなことです」。

「これが神の言葉を聞こうと望む人の態度です。まず第一に、謙虚さ。第二に、祈りです。この聖書の人々は祈っていませんでした。祈る必要性がなかったのです。自分のことを大丈夫だ、強い、「神のようだ」と感じていたのです。謙虚さと祈り。謙虚さと祈りをもってわたしたちは神の言葉を聞きこれに従うために前進していくのです。教会の中で。教会の中での謙虚さと祈りです。そうすれば、わたしたちに、この聖書の人々に起きたことは生じないでしょう。神の言葉を守り、これを殺すことはないでしょう。わたしたちが神の言葉だと信じていながら、わたしたちの都合でまったく変えられた言葉とはならないでしょう。

(María Fernanda Bernasconi – RV).

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