2014年3月5日水曜日

2月14日、結婚を準備しているカップルのための演説

質問1:「いつまでも」ということに対する恐れ

 教皇さま、一生の忠実を約束するのはあまりに難しい事業だと考えている人は、今日たくさんいます。いつまでも一緒に生きるという挑戦は美しく、魅力的ですがあまりに強制的で、ほぼ不可能だと感じている人が大勢います。このことについてわたしたちを照らしてくださるようにお願いします。

 証しと問いに感謝します。皆さんに説明しましょう。彼らはわたしに前もって質問を送ってきたのです。よく理解できます。そうやって、わたしが考えをまとめ、もうすこししっかりした答えを考えられるように、ということですね。「いつまでも」愛し合うことは可能かどうかを問いかけることは大切なことです。この質問はわたしたちがしなければならない問いです。「いつまでも」愛し合うということは可能なのだろうか?と。今日、決定的な選択をすることに恐れを抱いている人々はたくさんいます。ある青年がその司教にこう言っていました。「わたしは司祭になりたいのですが、10年だけじゃダメでしょうか」。決定的な選択を恐れていたのです。けれどそれは一般的な恐れです。わたしたちの文化に独特のものです。全生涯のための選択をすることは、不可能に思えるのです。現代では、あらゆることがすごいスピードで変化し、何も長期間続かないのです。そしてこのメンタリティが多くの人を、「愛が続く限りわたしたちは一緒にいます」と語る結婚を準備するに至らせているのです。ではその後は?よろしく、ではまた会いましょう、と、このように婚姻が終るのです。けれど、「愛」について何を理解しているのでしょう?ただの感情や心身の状態でしょうか?確かに、もしこれであれば、その上には何か確かなものを建設することはできません。けれどそうではなく、愛が一つの関わりである場合、それはひとつの成長していく現実であり、例として、家のように建設されるとも言い得るのです。そして家は共に建てるのであって、一人でするものではありません。建設するとは、ここでは成長に役立ち助けるということを意味します。愛するカップルのみなさん、皆さんは共に育ちこの家を建て、いつまでも一緒に生きる準備をしています。皆さんは押しては弾く感情の砂にこの基礎を据えようとは思っていません。そうではなく、本物の愛、神から来る愛という岩に据えようと思っています。家族はこの、愛情と援助、希望と支えの空間であるような家が建てられるように育つことを望む愛の計画から生まれます。神の愛はしっかりしていていつまでも続くので、家庭を建設する愛も、しっかりとしていていつまでも続くものであってほしいと思うのです。お願いです。「その場限りの文化」に負かされてはならないのです。この今日わたしたち全員に押し寄せている、このその場限りの文化。これは機能しません!というわけですが、「いつまでも」に関するこの怖れはどうすれば癒されるのでしょう?これは日を追うごとに、主イエスに、日々の霊的な歩みに姿を変えていく生き方のうちに委ねながら癒されていくものです。それは一歩一歩からできています。小さな一歩一歩、信仰において成熟した男性、女性になっていく約束によって建てられた共通の成長の一歩一歩なのです。なぜなら、愛するカップルのみなさん、「いつまでも」というのはただの継続期間の問題ではないのです。婚姻は続くかどうかだけで実現されるのではなく、その質も重要なのです。いつまでも一緒にいて愛することを知るというのはキリスト者負債の挑戦です。わたしの脳裏に浮かんできているのはパンの増殖の奇跡です。皆さんのためにも主は皆さんの愛を増殖させ、日々のできたてでよいその愛を差し出すことができるのです。その愛の無限の予約があるのです!イエスは皆さんの一致をもとにした愛を与え、日々これを新たにし、新たな力を与えます。そしてこれを、家族が子どもたちと一緒に育つ時に、より大いなる力で行うのです。この歩みにおいて、いつも、祈りが大切ですし必要です。彼が彼女のために、彼女が彼のために、そして二人で一緒に。皆さんの愛を増殖させてもらえるようにイエスに願いなさい。主の祈りでわたしたちはこう言います。「主よ、わたしたちに日ごとのパンを、今日下さい」と。夫婦はそのように祈ることを学ぶことができます。「主よ、わたしたちの日ごとの愛を今日お与えください」と。なぜなら日々の夫婦の愛がパンだからです。魂の本物のパン(糧)、前進し続けるためにみなさんを支えるパンだからです。そして祈りです。これを暗唱して言えるか見るために練習してみましょうか?「主よ、わたしたちの日ごとの愛を今日お与えください」。さぁみんな一緒に。「主よ、わたしたちの日ごとの愛を今日お与えください」。もう一度!「主よ、わたしたちの日ごとの愛を今日お与えください」。これはカップルと夫婦の祈りです。わたしたちに愛し合うこと、好き合うことを教えてください!イエスに委ねれば委ねるほど、皆さんの愛は「いつまでも」続くもの、刷新できるものになり、あらゆる困難に打ち勝つでしょう。皆さんの問いに答えて言おうと思っていたのはこれです。ありがとう!

質問2: 一緒に生活すること: 夫婦生活の《スタイル》

 教皇さま、毎日一緒に生活することは美しく、喜びをもたらし、支えます。けれどそれは直面すべき挑戦です。わたしたちは愛し合うことを学ばなければならないと信じています。カップルの生活の《スタイル》があります。わたしたちが学びたいと望んでいる日々の霊性があります。教皇さま、このことでわたしたちを手伝ってくださいませんか?

 一緒に生きるということは、アートです。忍耐強く、美しく、魅力的な歩みです。たがいの愛をゲットしたときに終るものではありません。それよりも、まさにその時に始まるものなのです。この日々の歩みにはルールがあります。それは次のあなたがことばにしてくれた三つのことばに要約できます。それはすでにわたしが多くの家族に何度も繰り返し言ってきたことです。そして皆さんはもう覚えて互いに使うことができるものでしょう。「失礼」、つまり、「いいですか」と、あなたがおっしゃった「ありがとう」と「ごめん」です。
 「いい?失礼」。これは他者のいのちに敬意と注意を払って入っていくことのできる礼儀正しい頼みです。これしてもいいかな?こういうことをするのは好き?これを始めようと思うけど、どう?子どもたちをこう育てるのはどう?今夜外に出ない?…と質問することを学ぶべきです。結局、許可を得るというのは、他の人々のいのちに礼儀正しく入ることができるということを意味するのです。けれどよくこのことを聞きなさい。他の人々のいのちに礼儀正しく入っていくことができる、ですよ。簡単なことではありません。これは簡単ではないのです。しばしば、その代わりに、すこし山登りの靴のように、重々しく鬱陶しい仕方を用いてしまいます。本物の愛は固さと強引さで押し付けられることはありません。聖フランシスコの『小さい花』の中でこのような表現にまみえます。「愛する兄弟、知っていておくれ。礼節は神に属するものだということを。礼節は愛徳の姉妹。憎しみを消し、愛を育むもの」(37章)。そうです、礼儀正しさは愛を保つのです。そして今日、しばしば暴力的で傲慢なわたしたちの家庭やわたしたちの世界には、よりたくさんの礼儀正しさが必要です。そしてこれは家で始めることができるものなのです。
 「ありがとう」。この言葉を口にするのは簡単なようですが、そう簡単でもないことを知っています。けれど重要です!子どもたちには教えますが、自分ではその後で忘れてしまいます。 感謝は大切な感情です。ルカ福音書を覚えていますか?あぁ、その前に。ある老婦人が、かつて、ブエノス・アイレスでわたしにこう言いました。「感謝は高貴な土に育つ花です」と。この花が育つために魂の貴さが必要なのです。ルカ福音書を覚えていますか?イエスは十人のハンセン氏病者を癒し、たった一人だけがイエスに感謝を述べるために戻って来ます。そして主は言います。他の九人は?どこにいるんだ?これはわたしたちにも当てはまります。感謝をすることができるでしょうか?皆さんの関わりにおいて、夫婦生活の朝を迎えるにあたり、相手が神さまからの賜物であることを活き活きと認識していることが大切です。そして神からの賜物には、ありがとう!というのです。いつも感謝がなされます。そしてこの内なる態度をもって互いにありがとうと言い合いましょう。一人ひとりに。強要のある人であることを見せるために知らない人に使われる丁寧な言葉ではありません。夫婦生活においてよく、共に前進し続けるために、互いにありがとうと言い合う必要があるのです。
 三つ目、「ごめん」。生きているとたくさんの過ちや間違いを犯します。すべて話しましょう。けれどおそらくここには一度も過ちを犯したことのない人もいるかもしれません。一度もミスを犯したことのない人、そのあたりにいたら、手を上げてください。誰もが失敗するものです。誰もがです!おそらく、何もミスのない日というのはないでしょう。聖書は一番の義人も一日に七回罪を犯すと言っています。そのように、わたしたちはミスします…。ここに、この単純なことば、「ごめん」を使う必要性があるのです。一般的に、わたしたちの一人ひとりは、他者をとがめ自分を正当化する傾向にあります。これはわたしたちの父祖アブラハムに始まりました。神がアダムに、「アダム、お前はあの実を食べたのか?」と質問したとき、「わたしですか?いいえ!彼女がわたしにくれたんです」と答えます。「すみません」「ごめんなさい」と言わないために他者をとがめること。これは古い話しです。これは多くの惨劇の源にある本能なのです。自分のミスを認め、赦しを願うことを学びましょう。「今日声を荒げたならごめん」、「あいさつしないで通り過ぎたんだったらごめん」、「待たせたなら、ごめん」、もし今週口を利かなかったなら」、「ほとんど人の話を聞かずにしゃべりすぎて」、「もし忘れたことがあったらごめん」「ごめん、怒っていて、八つ当たりしちゃった」。日々たくさん「ごめん」を言うことができます。このようにしてもキリスト者の家族は育ちます。完璧な家族は存在せず、完璧な旦那もいないし、あるいは完璧な妻も存在しないことをだれもが知っています。完璧なしゅうとめについては言わないようにしましょう(笑)…。わたしたち、罪人がいるのみです。イエスは、わたしたちのことをよく知っており、わたしたちに秘訣を教えてくれます。ゆるしを乞わずに、わたしたちの家、わたしたちの家族に平和が戻らずに一日が終ることが決してないようにすることです。夫婦間でのケンカはお約束です。なぜならいつも何かあって、ケンカをしてしまったのです。おそらく怒ったことがあるでしょう。サラが飛んだかもしれません。けれどお願いですからこのことを覚えていなさい。平和を産みださずに一日を終えることが決してないように。決して、決して、決して!これが秘訣です。愛を保ち平和を成すための秘訣なのです。美しい演説をする必要はありません。しばしばこんな仕草が、そうして平和を作ります。決して終ることのない…なぜならもしあなたが平和づくりをせずに一日を終わらせるなら、内側にあるものは、翌日には冷め、固くなり、平和づくりはより難しくなります。もし互いに赦しを求め合い、互いに赦し合うことを学ぶなら、婚姻は続き、前進するでしょう。金婚を祝う老夫婦たちがここ、聖マルタの家に謁見やミサに訪れる時、彼らにわたしは尋ねます。「誰が誰に耐えたんですか?」これは美しいことです!誰もが互いに見つめ、わたしを見、こう言うのです「二人共です!」そしてこれは美しいものです。これは美しい証しです。

質問3:婚姻の儀のスタイル

 教皇さま、ここ数カ月、わたしたちの結婚式のためにたくさん準備をしています。わたしたちの結婚式をよく祝うために何か助言をいただけますか?

 ほんものの祭りとなるような仕方ですべてを行いなさい。なぜなら婚姻は一つの祭りだからです。キリスト者の祭りであって世俗の祭りではありませんよ。
 その日の喜びのより深い動機は、ヨハネ福音書がわたしたちに指摘しています。カナの結婚の奇跡を覚えていますか?あるところまできて、ワインが足りず、結婚式はだめになりそうでした。紅茶をすすって祭りが終る状況を想像してください。いや、これではだめですね。ワインがなければ祭りはありません。マリアの提案で、その時、イエスは初めて自分のことを明かし、しるしを行います。水をワイに変え、そのようにしながら、結婚式の宴会を救うのです。カナで二千年前に起こったことは、あらゆる結婚式の宴会で実際に起こります。皆さんの婚姻を満たし深く本物にするものは、その恵みを掲示し与える主の現存となります。これは「よいワイン」を差し出すその現存です。イエスこそが、心を本当に熱くする完全な喜びの秘訣そのものなのです。そのパーティーにいるのは、イエスの現存なのです。美しいパーティーになるといいですね、けれどイエスと共に。世俗の精神と共に、ではありません。だめですよ!主がそこにおられる時、感じ取ることができるものです。
 そうは言っても、同時に、皆さんの婚姻が意識のはっきりしたものであること、本当に大切なものを強調することはよいことです。外側のシンボルや宴会、写真、ドレス、花とかいったものを一番心配している人もいます。そうしたものはパーティーに大切なものです。けれど、そうしたものが皆さんの喜びの本当の動機、つまり皆さんの愛に対する主の祝福を指し示すことができるかどうかにかかっています。カナでのワインのように、皆さんのパーティーの外的なシンボルが主の現存を啓示させ、皆さんと列席者の全員に皆さんの喜びの起源と動機を思い起こさせることができるように、できる限りのことをしなさい。
 けれど、あなたがおっしゃったことで、ざっと再確認したいことがあります。そのまま見過ごしておきたくないからです。婚姻は日々の仕事でもあります。民芸品職人の仕事、金細工職人の仕事とでも言えましょう。というのは、夫には妻をますます女性らしくさせ、妻には夫をますます男らしくさせる務めがあるからです。男として、女として、人間性においても成長すること。そしてこのことは二人の間で行われるのです。これは、共に育つ、と呼ばれるものです。これはつかみどころのないところからくるものではありません。主はこれを祝福しますが、皆さんの両手から、皆さんの態度から、皆さんの生き方から、皆さんの互いの愛し方から来るものなのです。自分たちを育てること!いつも相手が成長できるようにできる限りのことをすること。そのために働きかけること。そのように、どうなるかわかりませんが、あなたのことを考えると、ある日あなたの街の通りを歩いていると、人々が「ごらん、あの素敵な女性を、なんて強いんだろう!…」「あぁ、この旦那さんなら、わかるよね」と言うでしょう。またあなたに「ごらん、あの人を」「あの奥さんなら、わかるよね」と言うでしょう。これです。ここにいたることです。自分たちを共に、互いに育てることです。そして子どもたちはこの、互いに、より男性らしく、より女性らしくなるようにしながら、共に成長したパパとママを持った、という遺産を受け継ぐでしょう。

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