2014年3月5日水曜日

2月27日(木)、朝ミサ説教:一貫性のないキリスト者はつまづきをもたらし、つまづきは殺す。


 今日の聖マルタの家での説教で、パパ・フランシスコはミサの間に司式された堅信式に着想を得て激しいことばを使った。この秘跡を受ける人は、「自分のキリスト者になりたいという願いを表明します。キリスト者になるということは、イエス・キリストの証しをする、ということを意味します」。その人は「キリスト者として考え、キリスト者として感じ、キリスト者として行動するのです。そしてこれがキリスト者の生活の一貫性というものです」。自分は信仰をもっているということはできても、「もしこうしたことのうち一つでも欠けているなら、その人のうちには、キリスト者であること、というのは存在しません」。「何かが機能していないのです。ある種の矛盾(一貫性のなさ)があります」。そして「矛盾のうちに生きている」キリスト者たちは、「ずいぶんと害を及ぼします」。

「わたしたちは使徒ヤコブが、自分はキリスト者であると思いあがっていながら、その雇い人を搾取していた一貫性のない人々に向かってことばをかけているのを聞きました。そしてこう言いました。『あなたたちの農場で働いた人たちに払わなかった給料が訴えており、その収穫者たちの訴えは宇宙の主の耳に届いていることを知りなさい』。主は強い方です。もしかすると、これを聞いて次のように考える人もいるかもしれません。「それなら共産主義者がもう言っている!」と。いえ、いえ、使徒ヤコブが言ったのですよ!これは主のことばなのです。これが一貫性のない矛盾というものです。そしてキリスト者の一貫性がない時に、この矛盾が生きられ、スキャンダルを引き起こします。そして一貫性のないキリスト者たちは、多くのスキャンダルを引き起こすのです」

「イエスは、スキャンダル(つまずき)に対抗して非常に激しく語ります。『もし誰かが、信仰を持っているこうした小さな人々の一人にとってスキャンダルとなるなら、ひき臼に首を縛りつけ、海に投げ込んだ方がましだ』と。一貫性のないキリスト者はひどい害となるのです」。そして「スキャンダルは殺します」。「何度も次のように言うのを聞いたことがあります。『でも神父さん、わたしは神を信じているけれど、教会は信じません。だってあんたたちキリスト者は口で言っていることとやっていることが違うから』あるいは、『わたしは神を信じるけれど、あなたは信じません』と」。「それが一貫性の無さ、矛盾というものです」。

「もしあなたが、想像してみましょう!、無神論者の前にいて、この人があなたに神を信じていないと言ってきたら、あなたは神が存在していると書いてある書庫すべてを読んで、神が存在していることを証明することだってできるでしょう。それでも無神論者は信仰を持たないでしょう。しかしこうした無神論者の前で、キリスト者の生き方の一貫性の証しをするならば、その人の心の中で何かが動き出すことでしょう。まさにあなたの証しこそが、その上で聖霊が働くそのむずむずした感じにその人を導くのです。これはわたしたち全員が、全教会が求めなければならない恵みです。『主よ、わたしたちが一貫性を持てますように』と」。

 そこで、祈ることが必要なのです。「なぜならキリスト者の一貫性において生きるためには、祈りが必要だからです。なぜならキリスト者の一貫性は神の賜物であり、願わなければならないからです」。「主よ、わたしが一貫性を持てますように!主よ、わたしが決してスキャンダルになりませんように!わたしがキリスト者として考え、キリスト者として感じ、キリスト者として行動するような人でありますように!」と。そしてわたしたちの弱さのゆえに堕ちてしまった時には、赦しを願いましょう。

「わたしたちは全員、罪びとです。全員です。けれど誰にもゆるしを希う能力があります。そして神は決して赦し疲れることはありません!赦しを願う謙遜を持つことです。『主よ、わたしは一貫していませんでした。ごめんなさい!』と。キリスト者の一貫性をもって、イエス・キリストを信じ、自分が罪びとであること知っているけれど間違った時にゆるしを願う勇気があり、スキャンダルになることへの充分な恐れのある人としての証しをもって人生において前進することです。主がわたしたち全員にこの恵みを下さいますように。
(RC-RV)

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