2014年3月23日日曜日

3月22日(土)、コラール協会に対して:真理、善意、美の道を続けてください。

 パパ・フランシスコは、土曜日の午前中にクレメンティーナ・ホールで、コラール協会のメンバー約400名を迎えた。彼らはラジオ・テレビ情報エージェンシーやラジオ・テレビの広告利権といった、アナログ・デジタルの地方ラジオ・テレビ事業やインターネット事業の代表者である。教皇はコミュニケーション・メディアの仕事の価値を強調し、彼らにその使命をよく果たすための三つの道を提案した。また、教会における司祭職中心主義のテーマも取り上げた。

コラール協会へのパパの言葉

 おっしゃってくださったことにとても感謝します。そして皆さんがしている仕事に感謝します。あの真理。メディアをもって真理を探し求めること。けれど真理だけではないですよ、いいですか?真理と、善意そして美、三つ一緒です。皆さんの仕事はこの三つも道を発展させなければならないのです。真理の道、善意の道、美の道です。けれど、あの真善美は、中身のある真善美ですよ、いいですか?中からくるものです。人間らしいものです。そして、真理の道において、三つのどの道においても、失敗に出会ったり、罠にすら出会ったりすることもあり得るのです。「でも、わたしは真理を探し求めているのです…」という人はしかしよく注意していてくださいね、いいですか?知能の働かないインテリにはならないでください。「でも、わたしはこうやっています、善を求めているのです…」という人はしかしよく注意してください。善意のない倫理の熱狂主義者にはならないでください。「わたしは美が好きです」という人は、いいですね、けれど注意してください。多くの人がやっているそういうやり方を踏襲しないでください。つまり、美を化粧で作り上げ、存在しない人工的な美を作る化粧品を探すような美の探究ではないように。神様から来るものとして、そして人の中にあるものとしての真、善、美です。そしてこれこそがメディアの仕事、皆さんの仕事なのです。あなたは二つのことについて語りました。わたしはそれをもう一度取り上げたいと思います。なによりもまず、皆さんの仕事のハーモニーに満ちた一致です。けれど、大きな放送局もあれば、小さい放送局もあります。けれどもしコリント人への聖パウロの手紙の12章を読むなら、教会には大きいも小さいもないということを見ることになります。それぞれがそれぞれの機能を持ち、他のものにそれぞれなりの助けをしています。手は頭がなければ存在できず…と、わたしたちは全員メンバーで、皆さんのメディアも、より大きい過労がより小さかろうが、すべてメンバーで、教会における奉仕の召命にハーモニーを与えているのです。誰も小さく感じてはなりません。ほかのより大きなものに比べてとても小さいなどと感じてはならないのです。神の前では、キリスト者の謙遜において、誰もが小さいのです。けれど、誰もがそれなりの機能を持っているのです。全員、全員です!教会におけるのと同様です。わたしにはこのような問いができるでしょう。教会で一番重要なのは誰でしょう?と。教皇でしょうか、それとも教会のために毎日ロザリオの祈りを唱えているあのおばあちゃんでしょうか?そういうことは神様が答えればいいのです。わたしにはいうことができません。一人一人の大切さは、この調和にあります。なぜなら教会はさまざまなものが織りなすハーモニーだからです。キリストの体はこのさまざまなものが織りなすハーモニーなのです。そしてこのハーモニーを作るのは誰かと言うと、それは聖霊です。それがどんなものよりも重要なことです。このことと、あなたがおっしゃったもう一つのことです。わたしはこれを強調したいと思います。これは重要です。一致を探し求めることと、大きい魚が小さい魚を食べるという論理(弱肉強食の論理)に従わないことです。

 あなたはもう一つのことを言いました。それはわたしが使徒的勧告『福音の喜び』でも言及していることです。
 わたしは聖職者主義について語ってきました。これは、悪の一つです。教会にある悪の一つなのです。けれど共犯の悪です、いいですか?なぜなら、司祭は信徒を聖職者主義に染める誘惑にかられるのが好きだからです。けれど、多くの信徒たちが、跪いて、聖職者主義を求めているのですよ、なぜならその方が楽だからです。そっちの方が居心地がいいんですよ、でしょう?そしてこれはどちらの手も染めた罪なんですよ、いいですね!そしてこの誘惑にわたしたちはうち勝たなければならないのです。信徒は信徒、洗礼を受けた者でなければなりません。その洗礼からくる力を持っているのです。奉仕者です。けれどその信徒としての召命をもって、です。そしてそれは売られることなく、取引されることなく、他の人と共犯になることもないものです。なぜなら・・・いいえ!わたしはこういうものなのです!なぜならそこにアイデンティティがあるからです。

 何度もこのことを聞いてきました。いいですか?わたしの地元で。「でもわたしは、自分の小教区で、知ってますか?とってもいい信者がいるんですよ。この人はまとめるのがうまくて…司教様、どうでしょう、この人を助祭にしたら?」そうやって神父の提案というのはすぐにこうです。聖職者主義にはめることです。この信者に…なってもらいましょう。でもなぜですか?なぜ助祭や神父は、信徒よりも重要なんですか?違いますよ!それは間違いです!あぁ、その人はよい信徒ですか?そのことを続ければいいんです。そしてそのように育っていってください。なぜならそこにキリスト者の属性のアイデンティティがあるからです。わたしにとって、聖職者主義は、信徒の成長を妨げます。けれど私が行ったことをしっかりと肝に銘じていなさい、いいですか?これは両方の共犯の誘惑なのです、いいですか?なぜなら聖職者主義にされることを望む信徒が存在しなければ、聖職者主義はあり得ないからです。これ、はっきり分かりますか?こういうわけで、皆さんには今していることに感謝するのです。ハーモニー。これも別のハーモニーです。なぜなら信徒の機能は司祭にはできないことで、聖霊は自由だからです。時々あることをするように神父にインスピレーションを与えることもありますが、別に信徒にインスピレーションを与えることもあるのです。

 司牧委員会で語られることがあります。司牧委員会は本当に大切なものです。小教区は、そしてこの中で教会法を引用しますが、司牧委員会と財政委員会を持っていない教会は、良い教会ではありません。命が足りないのです。それから、多くの徳があります。最初に指摘したことです。善意の道を行くこと、真理の道、美の道を行くことです。そしてこれらの道には実に多くの徳があります。けれどメディアの罪もあります。いいですか?わたしがこのことについて少し語ってもいいでしょう?わたしにとって、コミュニケーションのメディアの罪は、特により大きなメディアの罪は、嘘と欺瞞の道を行くことにあります。そして三つあります。情報を流さないこと、誹謗中傷、名誉棄損です。この最後の二つは重症です。いいですか?けれど最初のものほど危険ではありません。なぜでしょう?皆さんに説明します。誹謗中傷は死に至る大罪ですが、はっきりさせ、それが誹謗中傷であったことを知らせるに至ることができます。名誉棄損は死に至る大罪ですが、「しかしこれは不正だ、なぜならこの人はあのときに、こういうことをしたが、そのあとで悔い改めて、生き方を変えたからだ」と告げるに至ることができるからです。けれど情報を流さないこととは、つまり、物事の半分だけを伝えること、自分にとって都合のいいところだけを伝えて残りの半分を伝えないことなのです。そのようなものです。テレビで目に入るものや、ラジオで耳にすることに完璧な判断を与えることはできません。なぜなら要素がなく、それを与えてもいないからです。この三つの罪から、お願いですから、逃げなさい。情報を流さないこと、誹謗中傷、名誉棄損からです。

 皆さんがしていることに感謝します。それからサンチリコ枢機卿には、皆さんにわたしが書いた演説を渡すように言っておきました。けれど枢機卿の言葉を聞いていたら、このことを自然と言った方がいいというインスピレーションが来たので、皆さんには心からの言葉遣いで話しました。皆さん、本当にありがとう。では、皆さん、アヴェマリアの祈りをマリア様に向けて祈りましょう。それから祝福をします。アヴェマリア…

 (RV-CM/MZ)

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