再び雨模様の主日に、フランシスコは何千もの信者たちや巡礼者たちとともに、サンピエトロ広場でお告げの祈りを祈った。イエスとサマリアの女性との出会いについて言及する福音箇所に触れた。イエスはサマリアの女性に水を飲ませてくれるようにと求める。こうして「敵意の壁を乗り越えます…そして女性たちを前にした偏見の枠組みを壊すのです」。「イエスのその渇きは、水に対する渇きと言うよりは、渇いた魂のことです。イエスはサマリアの女性に水を飲ませてほしいと頼むのですが、そうすることで、彼女自身の中にあった渇きを目に見える形にするためだったのです」。
お告げの祈りの後、パパは肺結核に襲われて苦しむすべての人々、そしてさまざまな仕方で彼らを支える人々のために祈るように招いた。そして今度の金曜日と土曜日に、多くの教区と世界の小教区で行われる回心の儀式に参加するようにと勧告した。「これはゆるしの祭典になることでしょう」と。
(MZ, jGO- RV)
パパの言葉
あいする兄弟姉妹の皆さん、おはよう!
今日の福音はシカルで、サマリアの女性が毎日水を汲むために通っていた古い井戸のそばで起きた、この女性とイエスとの出会いを紹介しています。あの日、「旅に疲れて」座っていたイエスと出会います(ヨハネ4章6節)。このようにしてユダヤ人とサマリア人の間にあった敵意の壁を乗り越え、女性たちを前にした偏見の枠組みを壊します。イエスの単純なお願いが、誠実な対話の始まりです。この対話を通して、イエスは、とてもデリケートに、人の内側にある世界に入っていきます。その人というのは、社会の枠組みによれば、言葉を向けられることすらままならない存在でした。けれどイエスはこれを成すのです、いいですか?イエスには恐れはありません。イエスは人を見ると、前に進みます、なぜならその人を愛するからです。わたしたち全員のことをイエスは愛していますから、決して偏見で人の前を無視して通り過ぎることはないのです。イエスはサマリアの女性を自分の現実の前に立たせ、彼女を裁くのではなく彼女が配慮されている、認められている、と感じさせるようにし、そのようにして彼女の中に日々の惰性を超えていく望みを目覚めさせるのです。
あのイエスの渇きは、水に対する渇きというよりも、渇いた魂に出会うことに対する渇きでした。イエスはその心を開くためにサマリアの女性に出会う必要性を感じていたのです。彼女に水を飲ませてくれるようにと頼み、そうして彼女自身のうちにあった渇きの証拠を見せるのでした。女性はこの出会いで心の琴線に触れられた感じを抱きます。イエスにあの深い、誰もが内側に持っているけれど多くの場合気づかずにいる問いを向けるのです。
愛する兄弟姉妹の皆さん、わたしたちにもたくさん訊きたいことがありますが、なかなかそれをイエスに投げかける勇気が見つからないのです!四旬節は自分の内側を見つめ、より本物の霊的望みが生じるようにする絶好の時、祈りにおいて主にこのための助けを求めるときなのです。サマリアの女性の例は、次のように表明するようにとわたしたちを招いています。「イエスさま、その水をわたしにください、そうすればもう渇きをおぼえないでしょう」。
福音は弟子たちが、自分たちの先生がその女性と話していたことに驚いたと言っています。けれど主はさまざまな偏見よりも偉大ですので、サマリアの女性といるために留まることを恐れません。憐みは偏見よりも偉大です。このことを私たちは良く学ばなければなりません。いいですか?憐みは偏見よりも偉大で、イエスは実にあわれみ深い方です、本当にとても。あの井戸端での出会いの結果、女性は変えられました。「ツボを置きっぱなしにして」(28節)、町に走っていき、自分のした尋常ではない体験を語ります。「わたしは自分がしてきたことをすべて語った男性に出会いました。きっと、メシアです」と。やる気満々でした。井戸の水を探しに行ったら、別の水、永遠のいのちにまで跳ね上がる憐みの生きた水に出会ったのです。いつも探していた水に出会えたのです!村に走っていき、彼女を裁き、彼女を拒んできたあの村に走っていき、メシアに出会ったことを告げるのです。そのメシアが自分の生き方を変えてくれたのだ、と。なぜならイエスとのどの出会いも、わたしたちの生き方を変え、いつも一歩先に行き、もう一歩神の方に近づくようにしてくれるからです。そのようにして、どのイエスとの出会いもわたしたちの生き方を変えるものです。いつでもです、いいですか?いつもそうなのです!
この福音で、「わたしたちのツボを置いていく」ほどの評価をも見出します。そのツボは表面的に重要だけれど、「神の愛」を前にするとその価値も褪せるもののシンボルです。だれもがこれを一つ持っています。誰もが一つかそれ以上持っていますよ、いいですか?わたしは皆さんに尋ね、自分にも問いかけます。「君の内なるツボはどれですか?あなたにのしかかり神からあなたを引き離すあのツボはどれですか?」と。すこしこれを話しておくと、心をもってわたしたちに別の水、わたしたちを主に近づかせる別の水をわたしたちに差し出してくれます。
わたしたちは、洗礼によってはじめられ、サマリアの女性のようにイエスと出会うことの喜びを兄弟たちに証しするべきキリスト者のわたしたちの生活の重要性と意義を再発見するように呼ばれています。出会いの喜びを証しすることです。
どのイエスとの出会いもわたしたちの生き方を変えます。またどのイエスとの出会いもわたしたちを喜びで満たします。わたしたちにやってくるあの内なる喜びです。そうして主はこうした素晴らしいことをしてくれるのです。主はわたしたちの心の中で働くことを知りません。主には、わたしたちに勇気があり、わたしたちのツボを脇にやるとき、わたしたちの心の中で働くことができます。
お告げの祈りの後で
愛する兄弟姉妹の皆さん、
明日は世界肺結核の日を祝います。この病気で苦しんでいるすべての人々と、彼らをさまざまな仕方で支えている人々のために祈りましょう。
次の金曜日と土曜日は、償いの特別な時間を持ちます。「種のための24時間」と呼ばれるものです。サン・ピエトロ大聖堂で午後に祭儀をもってはじめられ、ローマのいくつかの教会は夜の間開かれていて、祈ったりゆるしの秘跡を受けたりすることができます。これはゆるしの祭典になるでしょう。このイベントは世界中の多くの教区や小教区でも行われることになっています。
では、皆さんに心からあいさつします。ローマの信徒の皆さん、多くの国々からの巡礼者の皆さん、特にクロアチアのザグレブとザバラの皆さん、ドイツのボッホルトの皆さん、日本の瀬戸市カピタニオ高校の皆さん、イリノイ州の学生の皆さん、スペインのフェロルの学生の皆さん。
アルタムーラ、マテラ、トレヴィリオ、フロレンシア、サレルノ、ベネチア、サンタ・セヴェリーナ、ヴェルデリーノの信徒グループの皆さんにあいさつします。チェンブラとラヴィスの子どもたちに、コンヴェルサーノの子どもたちに、ペスカーラのヴァレマーレの子どもたちに、聖ペトロ城のスカウトの皆さんに、カリアーリトジョイア・タウロの学生たちに、ミラノの14歳の子どもたちのグループにあいさつします。
最後にボランティアのためのサービス・センターに、マサテのACLIサークルに、ナポリのムリアルド家協会に、オルヴィエトの市警察にあいさつします。
皆さん全員に、良い主日がありますように。おいしいお昼を楽しんでください。また会いましょう!
(MZ, jGO- RV)
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