2014年3月5日水曜日

2月28日(金)、聖座ラテンアメリカ委員会に渡された教皇のメッセージ

愛する兄弟のみなさん、

 今朝皆さんを迎えることができてうれしさいっぱいです。全員を代表して、そのはたらきを鼓舞する働きと提案の路線を紹介しながらマルク・ウーヴェレット枢機卿がしてくださった挨拶に感謝します。


 今年、リオ・デ・ジャネイロでのワールドユースデーの足跡をたどりながら、皆さんは「教育面の非常事態」の状況にいる青年たち、また信仰伝統の根本的な問いを立てる人々のための、ラテン・アメリカとカリブの何百万人もの青年たちについてその考えをめぐらそうとして来られました。


 教会は青年たちに近づくことにおいてイエスを模倣しようと望んでいます。青年たちに、イエスがわたしたちに下さった模範、献身と奉仕、無償の愛、正義と真理のための戦いという模範に従うことは苦労のし甲斐があるということを、教会は繰り返し語ろうと強く望んでいます。聖なる母なる教会は、青年たちの一番の教師はイエス・キリストであるということを確信しています。教会は青年たち全員のうちにイエスと同じ感情を伝え、そうしてイエスが生きたように生きることは素晴らしいことであるということを示し、利己主義を葬り去り、善意の美しさによって引き寄せられるようすることに関わらせたいと望んでいます。イエスのことを深く知る人は、ソファーに座りこんでいません。その生き方に引っ掛かり、犠牲を惜しまずその信仰の熱心な証しをしながら、その福音の弟子宣教師になるに至るのです。


 いつもイエスと若い金持ちの青年との出会い(ルカ18章18-23節参照)はわたしに印象的に迫って来ます。これは主の教育法を生放送のように提示する美しいモデルだと思います。この挿話から三つの局面に留まります。キリストがどのようにその青年を迎え、どのように耳を傾け、どのように彼に自分に従うように招くか、です。

1.迎えること:これはイエスの最初の仕草ですが、わたしたちのものでもあります。あらゆる教えや使徒的使命に先立つものです。キリストはあの青年の前と共に留まり、彼を情愛に満ちたまなざし、愛情たっぷりの眼差しで見つめます。これは無条件の愛徳をもって抱きしめる行為です。主は一人ひとりの状況に身を置きます。自分を拒む人の状況にまで身を置くのです。同じ小銭で仕返しをすることはありません。青年たちのあらゆる生活環境において、青年たちの側にいます。学校や、家庭、仕事場で…。物質的なことだけではなく、その必要性や夢にも注意を払います。多くの青年たちは大変な問題を体験してきています。学校での失敗や失職、孤独、不和にある家庭での苦しさについてどうして考えずにいられましょう。困難な時です。彼らにフラストレーションや保護の欠如を体験させてしまう時です。青年たちは麻薬や愛のないセックス、暴力といった、傷を受けざるを得ない状況にさらされます。わたしたちには、青年たちを見捨てないこと、道のわきに置き去りにしないことが求められています。青年たちは愛情に囲まれ理解されながら、自分の尊厳においてその価値を評価されているとたくさん感じる必要性があるのです。

2.その後で、イエスはあの青年と気さくで心のこもった対話の席を持ちます。その心に抱くむずむずした感じに耳を傾け、聖書に照らしてこれをはっきりしたものにします。イエスは、はなから、悪いと決めつけることなく、偏見を持たず、いつものトピックに陥ることもありません。同様に、青年たちには教会で、アットホームに感じてもらわなければなりません。ただ青年たちに対して扉を開くだけではなく、教会が出かけていって青年たちを探し、その訴えに共感し、青年たちが訊いてもらっていると感じられるためのスペースを提供しなければなりません。教会は母です。無関心でい続けるわけにはいきません。その心配事を知り、神の心に青年たちを導かなければならないのです。

3.そして、最後に、イエスはあの青年を自分に従うようにと招きます。すべてを売り払いなさい…そして来て、わたしに従いなさい(ルカ18章22節参照)。こうしたことばはその実際性を失っていません。青年たちはわたしたちからこうしたことばを聞かなければならないのです。キリストは小説の登場人物ではなく、青年たちが生きていて抱いている抗いがたいその望み、約束の望み、献身の望みを分かち合いたいと望む生きた人である、ということを彼らが耳にしますように。もしわたしたちが青年たちに、単に人間的な慰めを与えるだけで満足するならば、わたしたちは彼らをだますことになります。わたしたちが抱いている一番いいもの、つまりイエス・キリスト、その福音を青年たちに提供し、これをもって一貫性と高貴さ、展望の高さをもって人生に立ち向かわせる新しい地平を提供することが大切です。青年たちは世の悪を見、黙っていません。指を傷口に差し込み、より良い世界を求めます。代用品を認めません。自分の今、ここでの主人公であることを求め、嘘や汚職、連帯のなさといったものに場を与えない未来の建設者となりたいのです。ラテン・アメリカの教会は、その青年期の宝を無駄にすることはできません。青年たちは社会の成長のための可能性に満ちているのです。青年たちは愛において和解した兄弟による一つの大きな家族を造り出す大きな望みをもっているのです。この歩みにおいて、イエスはわたしたちの周りにいる青年たちとの出会いに出向き、彼らを自分の側に呼び、その力、つまりみことばをプレゼントします。そのみことばのうちに、自分たちにつきつけられる挑戦に立ち向かうインスピレーションを見出すのです。キリストの友達になる必要があります。そうして「信仰において街をぶらつく人」になり、どの街角にも、どの公園にも、地上のどの隅っこにもキリストを連れていかなければならないのです(使徒的勧告『福音の喜び』106項)。そして青年たちが聖なる母なる教会の温もりを、迎えることにおいても、共に歩むことにおいても感じますように。そしてもう一人の母、イエスの母であり、わたしたちの母でもある方の温もりをも感じますように。マリアさまの手を取って歩む時、恐れが吹き飛び、わたしたちは新しい仕方でほほ笑むことを学ぶのです。

 愛する兄弟のみなさん、青年たちは皆さんを待っています。彼らをだますことになりませんように。決断をもってこの挑戦を受けて立つようにとわたしは皆さんを招きます。ラテン・アメリカとカリブのkリスト教共同体が、あらゆる青年たちの、そして青年たち一人一人の同伴者、教師、母となることを身に付けますように。青年たちを教育し、福音化し、弟子宣教師になるようにするのは、ハードで、忍耐のいる務めです。けれどとても緊急で必要なものです。わたしは皆さんに、苦労のし甲斐のあることだ、と告白します。わたしの名で、青年たちに挨拶してください。そしてわたしのために祈ってくれるようにという願いを伝えてください。イエスがいつも皆さんと一緒に進んでくださり、皆さんを祝福してくださいますように。

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