憐れみに出会うためにゆるすこと。これがわたしたちの心と世界に平和をもたらす道です。これが月曜日に聖マルタの家でささげられたミサの間に教皇が語った説教のまとめである。
「あなたたちの父があわれみ深いように、あなたたちもあわれみ深い人になりなさい」パパはイエスの勧めについてコメントしながら、すぐに「このあわれみの態度を理解するのは簡単ではありません」と告げた。なぜなら我々は裁くことに慣れているからである。「わたしたちはふつう理解とそれからあわれみにすこしスペースを空けるゆな人ではないのです」。「あわれみ深い人であるためには、二つの態度が必要です。一つは自分自身に関する理解です」。つまり「自分にはよくないものがたくさんある、自分たちは罪びとである」ということを知ることです。そして悔い改めを前に、「神の義があります…それはあわれみとゆるしに形を変える義です。けれども罪そのものに対して恥を感じる必要があります。
「ここにいる誰も人を殺したことはありません。それは確かですが、小さなことがたくさんあります。日々の罪、毎日の罪がたくさんあるのです。…そして『なんてこったい。なんて狭量なんだろう。主に反することをしてしまった!』と。 これが恥を感じるということなのです!神と前に恥を感じること、そしてこの恥じらいは恵みなのです。罪びとであるということにある恵みです。『わたしは罪びとで、あなたの前で恥を感じ、あなたにゆるしを乞います』。単純なことですが、『わたしは罪を犯しました』と口にするのは本当に大変なのです。
しばしば、アダムやエバのように他の人に自分の罪をなすり付けて自己正当化することがあります。「おそらく、他の人が自分を促した、こうするようにと道を整えたかもしれませんが、行ったのは自分なのです!もしわたしたちがこうするなら、どれほど多くの善を行うことでしょう、自分が謙虚だからということで!」そして「この悔い改めの態度をもってわたしたちはよりあわれみ深くなる余裕を持ちます。なぜなら自分自身の上にある神の憐みを感じるからです」。主の祈りの時に言うように、「ゆるしてください。わたしたちがゆるしましたから」と。そのようにして、「もしわたしがゆるさないなら、わたしは少し蚊帳の外にいることになるのです!」
あわれみ深い人であるためのもう一つの態度は、「心を大きくすることです」。なぜなら「小さい心」や「利己主義は憐みに開かれていないからです。
「心を大きくすること!『でもわたしは罪びとです』。『見て、この人こんなことしている、あの人あんなことしている…でもわたしもたくさん似たようなことをしてきた!人のことを裁くなんてわたしは何者だろう?』。この『人のことを裁くなんてわたしは何者だろう?』というフレーズです。『この人のことを悪く言うなんてわたしは何者だろう?こうしたこをするなんてわたしは何者だろう?同じこと、あるいはもっとひどいことをしたのにわたしは何者だろう?』 大きな心を!そして主はその人に言います。『裁くな、そうすればあなた方も裁かれることはない!人を断罪するな、そうすればあなたがたも断罪されることはない!ゆるせ、そうすればあなたがたもゆるされる!与えよ、そうすればあなたがたにも与えられる!この心の広さを!では、どのようなものが与えられるのでしょう?よいはかりではかられ、牛ぎゅうづめに、ゆすぶってさらにスペースを作って溢れるほど、ふところいっぱいに与えられるものです。これが前掛けをして麦を拾いに行った人がもっともっと多くの麦をいただくために前掛けを引っ張る人々のイメージです。もし大きな心があれば、より多く受けることができるのです」。
大きな心は「人を断罪するのではなくゆるし、忘れます」なぜなら「神がわたしの罪を忘れてくださったからです。神はわたしの様々な罪を許してくださったのです。心を大きくすること。これは素晴らしいことです。あわれみ深い人になりなさい」。
「あわれみ深い男女には大きな、大きな心があります。いつも他の人々をゆるし、罪に関しては自分の罪だけを考えます。『この人がどんなことをしたか見た?』 と言われて『あの人に対してわたしは十分してきたことがあるから、干渉しません』 と答える。これが求めなければならない憐みの道です。もしわたしたちすべてが、すべての国々が、すべての人々が、すべての家族が、すべての隣近所が、この態度をしていたら、世界にどれほどの平和があることでしょう!わたしたちのこころにどれほどのへいわがあることでしょう!なぜならあわれみはわたしたちを平和に導くからです。いつも思い返しなさい。「人のことを裁くなんてわたしは何者だろう?」と。自らに恥じ、心を大きくすることです。主がこの恵みをくださいますように」。
(RC - RV)
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