2014年3月7日金曜日

第51回世界召命祈願の日メッセージ



教皇メッセージ
51回世界召命祈願の日
2014511日、復活節第四主日
テーマ:召命、真理の証し

愛する兄弟姉妹のみなさん、

1.福音書は「イエスは町や村を残らず回って……群衆が《飼い主のいない羊のように》弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。そこで、弟子たちに言われた。『収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい』」(マタイ93538節)と語っています。この言葉はわたしたちを驚かせます。なぜなら誰もがまずは畑を耕し、種を蒔き、世話をしなければ、そのあとで、ふさわしい時に多くの収穫を得られないと知っているからです。ところがイエスは、「収穫は多い」と断言します。では誰がそのような結果が得られるように働いたのでしょう?答えはたった一つ、神です。明らかにイエスが語る畑は人類、つまりわたしたちのことです。そして効果をもたらした働きが「多くの実り」の原因であり、それは神の恵み、神とのコムニオン(聖体的一致)です(ヨハネ155節参照)。ですから、イエスが教会に求めている祈りとは、そのみ国に奉仕する人々の数を増やすようにとの願いのことなのです。聖パウロは、こうした「神の協働者」の一人でしたが、福音と教会のために疲れ知らずの働きをしました。彼には個人的な体験の意識がありました。どの点まで神の救いのみ旨は測り知れないか、また恵みが主導的にはたらいているということがあらゆる召命の源泉であることを。使徒はコリントのキリスト者たちに「あなたたちは神の畑なのです」(Iコリ39節)と思い起こさせています。そのように、まずわたしたちの心の中に神のみが与えることのできるあふれんばかりの収穫に対する驚きが生まれ、その後で、いつでもわたしたちに先立つ一つの愛に対する感謝が生まれ、最後に、神がなさったわざ、そして神と共に神のためにわたしたちの自由な献身を求めるわざに対する礼拝が生まれます。

2.わたしたちは何度も次のような詩篇のことばで祈ってきています。「主はわたしたちを作られた。わたしたちは主のもの、その民、その牧場の群れ」(詩1003節)、あるいは「主はヤコブをご自分のために選び、イスラエルをご自分の宝とされた」(詩135編4節)と。そういうわけで、わたしたちは神の「所有物」なのです。それは奴隷にするという意味での所有ではなく、神とわたしたちを一つにし、わたしたちの間でも「神の愛は永遠なので」(詩136編参照)永遠に留まる契約に従って一つにする強い絆のことを言っているのです。たとえば、預言者エレミヤの召命の物語では、神がわたしたちの中でそのみことばが実現されるために一人ひとりのためにたゆまなく目覚めていることを、神が思い起こさせます。そこで選ばれたイメージは、春にいのちの再生を告げながら最初に花開く植物である、アーモンドの枝です(エレミヤ1章11‐12節)。あらゆるものは神からもたらされ、それは神の賜物なのです。世も、いのちも、死も、現在も、未来も。けれど、使徒パウロは確認します。「あなたたちはキリストのもの、キリストは神のものなのです」(Iコリ3章23節)。ここで、神に留まるあり方が説明されています。新しいいのちへのわたしたちの誕生の始めから洗礼(という恵み)を下さったイエスとの二つとない個人的な関わりを通して、です。そういうわけで、キリストこそが、「心を尽くし、理解を尽くし、存在を尽くして」(マルコ12章33節)神を愛しながら、神に信頼するためにそのみことばをもってわたしたちをたゆまず問いただす方なのです。ですから、あらゆる召命は、道には多様性があるわけですが、いつでも自分自身からの過越しをして、キリストとその福音に自分の存在の中心を置くことが求められるのです。結婚という生き方においてもそうですし、修道奉献という形や、司祭という人生においてでも、神のみ旨にそぐわない考え方や行動の仕方を乗り越える必要があるのです。それは「主への礼拝と兄弟姉妹の中におられる主への奉仕へとわたしたちを導く過ぎ越し」なのです(2013年5月8日、女子管区長国際連合の総会での演説)。ですから、だれもが自分の心の中でキリストを礼拝するように呼ばれているのです(Iペトロ3章15節参照)。そうして、わたしたちのうちで育ち、隣人への具体的奉仕へと姿を変えるべきみことばの種のうちに住まう恵みの促しにわたしたちが到達できるようになるのです。恐れてはなりません。神は情熱と巧みさをもって、人生のそれぞれのステージにおいてその御手の実りである働きを続けておられるのです。神は決してわたしたちを見捨てません。ご自分のプロジェクトがわたしたちの中で実現されることに関心をもっておられるのです。けれどこれをわたしたちの同意と協力によって達成したいと望んでおられるのです。

3.今日もイエスは生きていてわたしたちの日々の現実の中で歩んでおられます。そうして一番後ろの人たちから始めてすべての人に近づき、わたしたちの悪や病気を癒します。わたしは今、教会に鳴り響くキリストの声を聞くよい心がまえのある人たちに向けて、自分の召命はどれであるかを理解できるように語ります。イエスに耳を傾け、イエスについて行き、「霊であり命である」(ヨハネ6章63節)イエスの言葉によって内面的に変えてもらうようにと、わたしは皆さんを招きます。マリアは、イエスの母でありわたしたちの母ですが、(カナの婚宴の席で口にした)同じことばをわたしたちにも繰り返します。「この人の言う通りにしなさい」(ヨハネ2章5節)と。よりよいエネルギーを皆さんの中で、また皆さんの周りに目覚めさせることのできる共同体的な歩みに信頼して参加することは、皆さんに有益です。召命はほんものの教会生活という文脈の中で、互いの奉仕となる、相互愛によってよく培われた畑で成熟する実りです。勝手に生まれる召し出しも、勝手に体験する召し出しもありません。召し出しは神の心から生じ、兄弟愛の経験のうちに、忠実な民というよい土地で芽生えるのです。「あなたがたが互いに愛し合うなら、あなた方がわたしの弟子であることをすべての人が知るようになる」(ヨハネ13章35節)とイエスが言ったではありませんか。

4.愛する兄弟のみなさん、この「一般的なキリスト者の生活の《高い次元》」(ヨハネ・パウロ二世、使徒的書簡『新千年紀の初めに』31項)を生きるということは、時には流れに逆らって進み、わたしたちの内外で、障害に出会うこともあるということです。イエス自身がわたしたちに忠告しています。神のみ言葉のよい種は、時には悪者に盗まれ、動揺によって阻まれ、思い煩いや世俗の誘惑で窒息させられることもあるのです(マタイ131922節参照)。こうした困難はすべてわたしたちの気を落とさせもっと居心地のいいように見える小道へと撤退させるかもしれません。けれど本当の召命の喜びは、主であるイエスが忠実であること、イエスと共になら歩むことができ、神の愛の弟子かつ証し人となり、大きな理想や大いなるものごとに心を開くことができるということを信じ体験することにこそあるのです。「わたしたちキリスト者は小さなことのために主から選ばれたわけではないのです。いつも、もっと向こうへ、偉大なことに向かって行きなさい。青年たちよ、偉大な理想のために人生を賭けに出しなさい!」(2013年4月28日、堅信式ミサ説教)。司教団のみなさん、司祭団のみなさん、修道者のみなさん、キリスト者共同体のみなさん、キリスト教家庭のみなさん、お願いです。この方向に召命司牧を導いてください。そうして青年たちが歩む聖性の道のりを一緒に歩いてあげてください。主人公であるがために、「一人ひとりのリズムに合わせることのできる、ほんものの聖性の教育法が強く求められるのです。この教育法は個人的援助やグループでの援助の伝統的な形と、教会に認められている団体や運動で近年提供されている形のすべてに向けられている提案の豊かさを統合すべきなのです」(ヨハネパウロ二世、使徒的書簡『新千年紀の初めに』31項)。

 そういうわけですから、み言葉に耳を傾け、これを受け入れ、これを生き、そうして実りをもたらすために「よい土地」となるようにわたしたちの心を整えましょう。わたしたちが祈りや聖書、感謝の祭儀、教会で祝われ体験される諸秘跡、体験された兄弟愛をもってイエスと一つになればなるほど、あわれみと真理、正義と平和の御国の奉仕において神に協力する喜びがわたしたちの中で育つのです。そして収穫は豊かであり、それもわたしたちの中にどれだけ恵みを素直に受け入れることのできるかによってさらに豊かになるのです。この願いをもって、皆さんにはわたしのために祈ってくださることを求めつつ、心から皆さんに使徒の祝福をいたします。

2014115日、バチカン

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