2014年3月6日木曜日

3月5日(水)、灰の水曜日ミサ説教:四旬節は摂理的に、わたしたちを目覚めさせ、しびれや惰性から抜け出して頭をはっきりさせるために訪れる


「衣を裂くのではなく、お前たちの心を引き裂け」(ヨエル2章13節)

 この心にしみる預言者ヨエルの言葉をもって、典礼は今日、わたしたちを四旬節へと導き、心の回心にこの恵みの時の特徴があることを指摘します。預言としての呼びかけはわたしたち全員にとって挑戦となっており、これからまぬかれる人はだれもいません。そして回心は外面的な形式や曖昧な抱負に狭められるものではなく、人格の中心、意識の中心部から全存在まで含み、これを変革させるものだということを思い起こさせます。

 わたしたちは、日々の習慣に挑戦状を突きつけ、目と耳を開き、しかし何よりも、心を開いてわたしたちの「小さな庭」からずっと外に出ていくようにと努力するような道を歩み始めるように呼ばれています。

 神と兄弟たちに対して開くこと。わたしたちはますます作為的な世界、「行うこと」、「役立つ」ものの文化の中にいます。そこでは知らず知らずのうちにわたしたちの視界から神を除外しています。そうして視界に拡がる地平線そのものを除外しているのです。四旬節は「頭をはっきりさせる」ように、わたしたちは被造物であって、単純に言えばわたしたちは神ではない、ということを思い出すようにわたしたちを招いています。

 日々の小さな環境に目をやると、権力争い、土地を巡る争いもあり、こう考えるものです。でもこの人たちは創造主にでもなろうとしているのだろうか。まだ自分たちが神ではないことに気づいていないのか、と。

 また、他の人々に対しても、自分自身を閉ざし、彼らのことを忘れる危険にも走ります。けれどわたしたちの兄弟姉妹の困難や苦悩がわたしたちを問い正す時になって初めて、その時初めてわたしたちは過越への回心の歩みを始めることができるものです。それは十字架と放棄の意味を理解していく道のりです。

 今日の福音はこの霊的な歩みの要素を指摘しています。祈り、断食、施しです(マタイ6章1-6,16-18節参照)。この三つは見せかけのものごとに支配されないために必要な役割を演じています。いのちの価値は他者に認められることや成功に依拠するものではなく、内面にどれほどのものをもっているかにあるのです。

 最初の要素は、祈りです。祈りはキリスト者の力、信仰を持つすべての人の力です。わたしたちの人生の弱さやもろさにおいて、わたしたちは親に対する子の信頼をもって神の方を向き、神とのコムニオン(聖体的一致)に入ることができるのです。わたしたちに悪く働き、わたしたちの心をかたくなにしうるあまりに多くの傷を前にして、わたしたちは、神の温もりを味わうために神の限りない愛の海である、祈りという海に(ザブンと飛びこんで)浸るように呼ばれているのです。

 四旬節は祈りの時です。より濃厚な祈りの時です。より多く祈りの時間をとり、より熱心に祈る時であり、兄弟たちの必要性をより多く背負う、取り次ぎの祈りの時です。貧困の苦悩の実に多くの状況のために神の前で取り次ぐための時です。

 二つ目の、四旬節にとりわけ目立つ要素は、断食です。形式的な断食、あるいはこれをすると安心するから実際にはわたしたちを「満足させる」ような断食をしないように注意しなければなりません。断食は、ほんとうにわたしたちの安全を欠かせ、同時にそこから他者への益を生み出すなら、困難にある兄弟に対して身をかがめ、その人の身元を引き受けるよきサマリア人のスタイルを培うのを助けるならば、意味があります。断食とは目覚めた生き方を選ぶこと、そのスタイルで、廃棄せず、「使い捨てる」ことのない生き方を選ぶことにあります。断食することは本質的なものに心を連結させ、分かち合うようにとわたしたちを助けます。これは不正や暴挙、特に貧しい人たちや小さな人々に関するそうしたものに対する意識と責任があることのしるしです。そしてそれは神とその摂理に対するわたしたちの信頼のしるしなのです。

 三つ目の要素は施しです。施しは無償性を指します。なぜなら施しという行為において、見返りを期待できない誰かに与えるのですから。無償性は、神からすべてただで受けたこと、つまり何かの功績によらずに受けたことを自覚し、他の人々にただで与えることを学ぶ、キリスト者の特徴の一つであるはずです。あらゆるものが売り買いされている今では、しばしば無償性は日々の生活の一部を成していません。

 あらゆるものが計算と分量で測られるものとなっています。施しは、強迫観念からの解放、所有欲からの解放、持っているものを失う恐れからの解放、自分の財産を他の人々と分かち合うことを望まない人の悲嘆からの解放である、賜物の無償性を生きるのを助けてくれます。

 その回心の招きをもって、四旬節は摂理的に、わたしたちを目覚めさせ、しびれや惰性に流されて進む慣れから抜け出して頭をはっきりさせるために訪れます。預言者ヨエルを通して主がわたしたちに向けて告げる勧告は強烈で明白です。「心を尽くして(全身全霊で)わたしに立ち返りなさい」(ヨエル2章12節)。なぜ神に立ち返らなければならないのでしょうか?なぜならわたしたちの間で、社会の中で、教会の中で、何かがうまくいっていないからです!そして変わる必要が、変化をもたらす必要があり、これを回心する必要性がある、と呼ぶからです! 

 いま一度、四旬節は、わたしたち自身の中で、またわたしたちの周りで何か新しいことを実現することができるということをわたしたちに思い出させるために、その預言的呼びかけを向けにやって来ます。それは単純に、神は忠実だからです。神が忠実なのは、自分自身を偽ることができないからです。なぜなら彼は忠実であり、善意とあわれみにおいて豊かであり続け、いつもゆるし新たにやり直す心構えができておられるからです。この親に対する子としての信頼をもって、歩み始めましょう!
 
(María Fernanda Bernasconi – RV).

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