2013年7月12日金曜日

パパ・フランシスコによる司祭・牧者の役割に関する発言まとめ



教皇になってから4カ月に満たないが、パパ・フランシスコは熱心に、司祭の役割は何なのかどのように感じ取っているかを語って来た。彼にとって、その群れに奉仕する謙虚な牧者でなければならない。

パパの言葉はすでに教会の日々の生活に入ってきている。そしてフランシスコは何度もイエスによる使徒たちの召し出しや派遣を紹介する福音個所に触れている。

その考えは質素である。散漫な技術が、「あまりにきれいな雰囲気」、すこしスノッブ(上流ぶった俗物)をもって、わたしたちをそのように、つまり「無菌状態(冷淡)」にしてしまうこともある。一方で、そのような実践の務めを施行する人は、つまり手を汚しながら働く人は、していることの匂いをまとうものである。地面の匂い、海の匂い、馬小屋の匂い、さらには材木の「甘みがかった」匂いや皮のつんとくるにおいである。

 においというものは「二枚目の皮膚」、あるいは農民や大工、漁夫やあらゆる手芸品製作者にとっては一枚目の皮膚であろう。そしてこれが、司祭の「務め」を施行する者にとっての「身にまとうもの」であるようにとパパ・フランシスコが望んでいる「皮膚」なのである。去る聖木曜日に、その常軌を逸した発案で明らかに述べられ、サン・ピエトロ大聖堂の権威の座から発せられ、ツイッターで早速全世界を駆け巡った言葉は次のとおりである。

「私が願うことはこれです。羊の匂いのする牧者でありなさい」(聖香油ミサ、328日)

 そのため、司祭には牧している魂たちの香りがなければならないのである。さらに、パパはその状況で、もう一つの香りについて指摘した。キリストの香油である。キリストは神から油注がれたものであるが、彼は人類の上にその神としての本性を注ぐために来たのである。フランシスコははっきりと述べている。「良い司祭は、民がどのように油注がれているかによって見極められます。これは一目瞭然の証拠です」。

「わたしたちの民が喜びの香油を注がれて歩んでいる場合、すぐに気付きます。たとえば、よいニュースを受けた顔でミサから出てくる時です。(・・・)そしてわたしたちを通してキリスト、油注がれた者の香りが感じられる時、主に導くあらゆるものに関してわたしたちに信頼する気になれるのです。こう言ってくるでしょう。『神父さま、わたしのために祈ってください。こんな問題があるのです・・・』、『神父さま、祝福して下さい』、『わたしのために祈ってください』。こうした態度は祭服のすそにまで油注ぎが届いたことを示すしるしです。なぜならそれが嘆願となっているからです。それは神の民の嘆願なのです。(・・・)自分の殻からほんの少ししか出ていかず、ほんの少ししか油を注がない司祭は(・・・)仲介者になる代わりに、少しずつ仲買人、事務員のようになっていってしまうのです」(聖香油ミサ、328日)。

 「事務員の司祭」は、おそらくパパ・フランシスコが最も憂慮している司祭職の一面ではないだろうか。こういうタイプの司祭の祭服から出てくる匂いは、社会的には受けのいいものとして極められているかもしれないが、キリスト者としては偽りとして理解される。なぜなら牧者の香りはほかでもなく、一つのタイプのはずだからである。

「あなたたちは司祭なのです。公務員ではないのです。あなたたちは仲介者なのです。仲買人ではないのです。(・・・)いつでも〈よき牧者〉の模範を思い出していて下さい。彼は仕えられるためではなく仕えるため、失われたものを探し出し、救うために来たのです。」(司祭叙階式、421日)

 3週間前のローマ教区の集いにおいて、パパは次のような見解を述べた。福音のなかに、「羊の柵に戻ってみると一匹足りないことに気づいて、99匹をおいてその一匹を探しに出る牧者について語る」個所がある。「一匹を探しに出ているのです」と下線を引いたあとで、わたしたちキリスト者全員に原因があるとして呼びかけながら叫んだ。「わたしたちにはたった一匹がいるのみです。99匹足りないのです。出ていかなければなりません。その99匹を連れていかなければならないのです」。

 これは大変な責任です。そして主に、出ていくため、福音を告げるために出ていくための寛大さと勇気、忍耐を願わなければなりません。あぁ、それは難しいです。家でたった一匹の羊と留まる方が簡単です。その羊と一緒にいる方が、そうして櫛を通して、可愛がって撫でて、としている方が簡単ですよ、そりゃぁ。けれどわたしたち司祭団、それからキリスト者の皆さん、全員に、主は牧者であるようにと望んでおられるのです。羊の櫛梳き係ではなくて、牧者です!(ローマ教区総会、617日)

 群れが牧者の導きなしではありえないように、牧者も牧するための群れがいなければ存在しない。

 「最終的に、司教は自分自身のために司教なのではなく、民のためなのです。そして司祭は自分のために司祭なのではなく、民のためです。民、まさに群れを育て、牧する奉仕、違いますか?民を狼たちから守るためです。このことを考えるのは素晴らしいことです!この歩みにおいて司教がそのこと、つまり民との良い関係を成すならば、パウロがある意味司教としてその民と行ったようにするならば、すばらしいでしょう?そして司祭が民と素晴らしい関係にあるとき、わたしたちに愛が与えられます。その愛は彼らの間から来る、本物の愛で、教会は一つになっていきます」。(聖マルタの家の小聖堂でのミサ、515日)。

 (マリア・フェルナンダ・ベルナスコーニ – RV).

0 件のコメント:

コメントを投稿