2013年7月25日木曜日

7月24日、アパレシーダでのミサ説教

アパレシーダ、7月24日、9時15分、アパレシーダの聖地の大聖堂でのミサ

尊敬すべき司教職と司祭職における兄弟の皆さん、
愛すべき兄弟姉妹の皆さん、

 全ブラジル人の母の家、アパレシーダの聖母の聖地に来ることができて、何とうれしいことでしょう!わたしのローマ司教としての選出の翌日にローマのサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂に行きました。ペトロの後継者としてのわたしの奉仕職を聖母に委ねるためでした。今日、わたしがここに来たいと思ったのは、わたしたちの母であるマリアに、ワールドユースデーの成功を願い、ラテンアメリカの民のいのちをその足元に据えるためでした。

 何よりもまず皆さんに一つ言いたいことがあります。この聖地で、6年前に第五回ラテンアメリカおよびカリブ諸島司教総会が祝われました。そこで、とても美しいことが起こりました。わたしはそこで個人的に体験することができたものです。司教たちとして、キリストとの出会い、弟子としてのあり方、宣教使命のテーマについて作業をしていたものとして、何千もの巡礼者たちがその人生を聖母に委ねるために毎日押し寄せているのを見て、励まされている、伴われている、そしてある意味でインスピレーションを与えられていると感じました。あの総会は教会の大いなる瞬間でした。

 そして実際に、アパレシーダ文書はまさにマリアの母としての守りのもと、牧者たちの作業と巡礼者たちの簡素な信仰とのよりあいによって生まれたものであるということができるでしょう。教会は、キリストを探し求める時、いつもマリアの家に声をかけ、「わたしたちにイエスを見せてください」と頼みます。マリアからほんとうの弟子としてのあり方が学ばれるのです。ここに、なぜ教会はマリアの星にいつも従いながらその宣教を続けるかの所以があります。

 今日、わたしをブラジルに連れてきたワールドユースデーの訪問において、イエスを愛し教育したマリアの家の扉の前で呼びかけるためにもわたしは来ました。 わたしたちすべて、神の民の牧者、父、教育者であるわたしたちが、任された青年たちにより正義と連帯と兄弟愛に満ちた国や世界の建設者となれるようにする価値観を伝えるのを助けてくださいと呼びかけるために。そのため、三つのシンプルな態度を指摘したいと思います。希望を保つこと、神によって驚かされるに任せること、喜びをもって生きること、です。

1.希望を保つこと:ミサの第二朗読は劇的な舞台を紹介しています。一人の女性が、この人はマリアと教会を示すのですが、一匹の龍、つまり悪魔に追いかけられています。その子を引き裂こうとしているのです。けれど死の舞台ではなく、いのちのシーンなのです。なぜなら神が介入して子どもを救うからです(黙示録12章13a-16.15-16a)。わたしたちの民やわたしたちの共同体において、一人ひとりの人生にどれほどの困難があることでしょうか。けれど、それがどれほど大きく見えようとも、神は決してわたしたちが沈みこまないようにしてくださいます。

 福音化のために働く人や家庭の父として、母として信仰を生きようと努力する人々の人生にありうる落胆を前に、力強く言いたい。心にこの確信をいつも持っていてください、神はあなたたちの側を歩き、どんな時も皆さんを見放さない、と。決して希望を失わないようにしましょう。わたしたちの心の中で希望を決して消さないようにしましょう。「龍」、悪は、わたしたちの歴史の中に存在していますが、一番強い存在者ではないのです。もっとも強いのは神です。神がわたしたちの希望なのです。

 今日、みな少しながらも、わたしたちの青年たちも、神の代わりになろうとし、金銭、成功、権力、快楽と言った希望を与えるように見えるあまりに多くの偶像になびくようにとの招きを感じているのは確かです。しばしば多くの人の心の中に孤独感や空虚感の道が開け、代わりになるものや一時的で使い捨てるような軽いこうした偶像を求めるようになります。愛する兄弟姉妹の皆さん、希望の光になりましょう。現実のポジティブな展望をもちましょう。青年たちの特徴である寛大さを鼓舞しましょう。より良い世界の建設の主役となるように彼らを支えましょう。彼らは教会と社会にとっての力強いモーター(原動機)なのです。彼らは物だけが必要なわけではないのです。

 何よりも、一つの民の霊的な心臓である、民の記憶である非物質的なそうした価値観を提示されることを必要としているのです。ブラジルの記憶の一部であるこの聖地でほぼ読むことができると言えるほどはっきりしているのは、霊性、寛大さ、連帯、持続力、兄弟愛、喜びです。こうしたものはキリスト者の信仰における最も深い所にその根を見出すことのできる価値観です。

2.二つ目の態度、神によって驚かされるに任せること:希望の男、希望の女である人は、信仰がわたしたちにもたらす大いなる希望ですが、神が困難のうちでも活動し、わたしたちを驚かすことを知っています。そしてこの聖地の歴史は一つの例です。三人の釣り人が、パルナイーバ川の自ら一匹も釣れずに無駄に過ごされた一日の後で、思いもよらなかった何かを見つけるのです。無原罪の聖母の像でした。実りのない釣り場が同じ一人の母を持つ子らとしてブラジル人全員が感じられる場所に姿を変えるとは、だれが想像できたでしょう?

 神は、先ほど聞いたばかりの福音にある新しいワインの話のように、人を驚かせてやみません。神はわたしたちに一番いいものをとっておかれるのです。けれどわたしたちがその愛によって驚かされるに任せるように、その驚きを受け入れるようにと望まれます。神に信頼しましょう。神から、喜びのワイン、希望のワインから遠く離れていると、枯渇します。もしわたしたちが彼に近づき、彼と共に留まるなら、冷たい水に見えるものや困難に思えること、罪といわれるものも、彼との友情の新しいワインに変えられるのです。

3.三つ目の態度、喜びをもって生きること:愛する友の皆さん、もしわたしたちが、イエスがわたしたちに差し出す新しいワインによって驚かされながら希望のうちに歩むなら、すでにわたしたちの心には喜びがあり、この喜びの証し人とならずにはいられなくなります。キリスト者は喜びのある人です。決して悲しくありません。神がわたしたちに寄り添っておられる。第一朗読のエステル女王のように(エステル5章3節参照)、その子らの生活のため、わたしたちのためにいつもとりなしておられる一人の母がわたしたちにはいます。

 イエスはわたしたちに神の顔、つまりわたしたちを愛している父の顔を示しました。罪と死は打ち破られたのです。キリスト者が悲観主義者になることはあり得ません。永遠の喪に服しているように見える顔つきはしていないのです。もしわたしたちがほんとうにキリストに惚れこんでいるならば、そしてどれほど彼がわたしたちを愛しているかを感じているならば、わたしたちの心はあまりの喜びに「ふくらみあがるでしょう」。その喜びはわたしたちの周りに来る人々に伝染していくでしょう。ベネディクト十六世が言っていたように、「弟子はキリストがいなければ光も希望も愛も将来もないことを知っている」のです(2007年5月13日、第五回ラテンアメリカおよびカリブ諸島司教総会の開会演説、Insegnamenti III/1 [2007], p.861)。

 愛する友の皆さん、わたしたちはマリアの家の扉に立って声をかけるために来ました。彼女はわたしたちに扉を開き、わたしたちをなかに招き、その御子をわたしたちに示されます。今、彼女はわたしたちに頼みます。「すべてこの人の言う通りにしなさい」(ヨハネ2章5節)。そうです、わたしたちの母よ、わたしたちはイエスがわたしたちに言うことをすると約束します。そしてこれを希望を持って、神の驚きのうちに信頼しつつ、喜びに満たされながら行います。なれかし(アーメン)。

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