2013年7月1日月曜日

7月1日、朝ミサ説教:祈り:場違いと感じられるほどまでにしつこく求める祈り

朗読個所  : 福者ペトロ岐部司祭と187殉教者(記)
          創世記18・16-33
          マタイ8・18-22

バチカン、7月1日15時47分(バチカンラジオ)

  勇気をもって、アブラハムがしたような執拗さをも持って主に祈らなければなりません。パパ・フランシスコが今朝の聖マルタの家でのミサ中に語った言葉である。パパは祈るということは「主と取引をする」ことでもあり、イエスがわたしたちに教えるように、場違いと感じられる程までになることもあるとの見解を述べた。

 ミサには、キリスト者一致推進委員の司祭団や協力者と共に、クルト・コッホ枢機卿とブライアン・ファレル卿が共同司式に上がった。

 アブラハムは勇気と執拗さをもって主に語り、ソドムを破滅から守ろうとした。パパ・フランシスコはその説教を卿の第一朗読から語り、「アブラハムは勇気のある人で、勇気を持って祈る」との見解を述べた。「アブラハムは、主と面と向かって語る力を感じ、あの町を守ろうとします」とパパは言った。そしてこれを執拗に行う。聖書では、「祈りには勇気がいる」と思い返している、と教父は語った。

 「勇気について語る時、わたしたちはいつも使徒的勇気について考えます。福音を告げ知らせる勇気と言ったようなものです。・・・・・・けれどまた、主を前にした勇気というものも存在します。あの主の前でのパレシーアです。主の前に勇気を持って向かい、物事を頼むことです。このことはちょっとほほえましいものです。別によいのですが、笑えます。なぜならアブラハムは特別な仕方で主と語るので、祈りの人を見ているのか、『フェニキア商人』を前にしているのか分からなくなるような錯覚に陥るからです。というのは、値切って値切って、と交渉をしている感じだからです。そしてしつこく求めます。50から10までの値下げに成功します。アブラハムはこれが不可能ではないと知っていたのでしょう。たった一人の正しい人、その孫、その甥っ子がいたら・・・。けれどあの勇気を持って、あのしつこさをもって、前進し続けたのです!

 パパは具体化した。「しばしば、主のもとにすがり寄りますが、誰かのために何かを願うために行きます。あれこれお願いして、その後で忘れます。けれどそれは、祈りではありません」とパパは忠告した。「なぜならもし主が恵みを下さるのを求めるなら、勇気を持っていかなければならないからです。アブラハムが執拗に行ったあのことをしなければならないのです」。ローマ司教はイエス自身がわたしたちに、裁判官に頼み込むやもめや夜中に扉を叩く友のように祈らなければならないと言っているのです。執拗に。「イエスはそのようにわたしたちに教えておられるのです」。そして実際、イエスはシリアーフェニキアの女性が、娘の癒しを求めてしつこくつきまとう姿をほめる、とパパは見解を述べた。しつこさは、またわたしたちを疲れさせ、また「本当に疲れをもたらすものです」と教皇は確言した。「けれどこれは、祈りの態度のひとつなのです」。「聖テレジアは祈りについて、主と取引をすること、と語っています。そしてこれは主との親しい関係がある時にのみ可能なのです」。パパはアブラハムがその祈りにおいて用いる議論を強調した。「イエスと同じ心持ちで議論し、同じ動機をもっています」。


 「主に独特の徳をもって主を納得させる!それは素敵なことです!アブラハムの表明していることは、主の心に向かいます。そしてイエスはわたしたちに同じことを教えています。『父は物事を知っておられます。思い煩うのをやめなさい。父は正しい人の上にも罪びとの上にも雨を送り、正しい人にも罪びとにも太陽を昇らせるのだから』と。あの議論でアブラハムは前へと進みます。わたしはここに留まろうと思います。祈るというのは、主と取引をし、主との関わり方にしては場違いと思われるようなところまでになることです。祈るということはその美しいものごとの主をたたえることであり、またそうした美しい物事をわたしたちに送ってくださるように願い求めることなのです。そしてもし主がそれほどまでにあわれみ深く、それほどまでに良い方であるならば、わたしたちを助けてくださいますように!」

 フランシスコは結んで言った。「わたしは、わたしたち全員が、今日の一日の間に、五分間、それだけ、聖書を手に取り、ゆっくりと今日の二つの朗読の間に朗唱された詩篇102(103)編を読んだら、と思います」。

 「『わたしの魂よ、主をたたえよ。わたしの内にあるものはこぞって聖なる御名をたたえよ。わたしの魂よ、主をたたえよ。主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない。 主はお前の罪をことごとく赦し、病をすべて癒し、 命を墓から贖い出し、慈しみと憐れみの冠を授けてくださる』(詩篇103篇1―4節)。そしてこれをもって恵みを求める時に主に言わなければならないことは何かを学ぶことになるでしょう。『あなたはあわれみ深い方です。あなたは赦して下さる方です。ですから、私にこの恵みを下さい』と、アブラハムやモーセがしたように願うのです。勇気をもって、そして神の心からまっすぐに来るこの議論をもって、祈りにおいて前進しましょう」。 
(MZ, RC-RV)

0 件のコメント:

コメントを投稿