2013年7月17日水曜日

7月6日の神学生、男女修練者、召命の道を行く青年たちへの演説全文

2013年7月6日、バチカン市国にて



こんばんは!

 フィズィケッラ卿にみんなイタリア語が分るのか尋ねたら、みんな通訳がついているから大丈夫だと言われたので、ちょっと安心しました(小さな笑い)。

 フィズィケッラ卿、お言葉ありがとうございます。それからその働きに感謝します。これをするだけではなく、信仰年にこれまでしてきたことと、これからまだなさることすべて、本当によく働いてくれています。どうもありがとう!(拍手)でもフィズィケッラ卿は一言言いました。それは本当か知りませんが、もう一度繰り返してみます。彼は、皆さんが自分の人生を捧げようと望んでいると言ったのです、永遠にキリストに捧げると!(大拍手)。皆さんは今拍手をしましたね。お祝いをしています。新婚の時期だからです(笑い声)。けれど、ハネムーンが終ると(笑い声)、どんなことが起こるのでしょう?神学生が語ってくれたことがあります。勇気のある神学生です。キリストに仕えたいと思っていたけれど、10年たって(笑い声)、他の生き方を始めようと考えるというのです。これは危険です!よく聞きなさい。わたしたちはみんな、一番年寄りを含めて、わたしたちも含めて、この一時的で使い捨てるような軽い文化の圧力のもとにいます。そしてこれは危険なのです。なぜなら一度きり永遠に、という形で人生をかけることをしなくなるからです。「わたしは結婚します。けれど愛が覚めたら、シスターになります。でも『ほんのちょっとの間』だけです。『短い時間』。それからのことは、まぁその時に考えましょう」。「ぼくは神父になるために神学生になるけど、この話がどう終わるか分らないなぁ」。これではイエスさまの役に立たないのです!

 皆さんを責めようと思っているわけではないんですよ。わたしが責めているのは、このその場しのぎのものの文化なのです。これがわたしたち全員を痛めつけているのです。なぜならわたしたちのためにならないからです。決定的な選択をすることは、こんにち難しくなっているのです。わたしの時代には、まだ簡単でした。というのは文化的に結婚生活にしても、修道生活や司祭生活にしても、決定的な選択にとって都合がよかったからです。けれど今の時代では、決定的な選択をすることは簡単ではありません。わたしたちはこの一時的で使い捨てるような軽い文化の犠牲者なのです。皆さんにこのことを考えてもらいたいと思っています。「自分はこの一時的で使い捨てるような軽い文化から、どのようにすれば自由でいられるのか、どのように自分を自由にすることができるのか?」。わたしたちは、自分の内面の部屋の戸を(教皇、強く自分の胸を平手で叩くように押さえながら)、内側から閉めることを学ばなければなりません。
 
 あるとき、一人の司祭が、偉大な司祭ですが、へりくだった方でしたので、気分がすぐれませんでした。自分が罪びとだと感じ、おとめマリアにたくさん祈っていました。そしておとめにこう言っていました。スペイン語で言います。なぜなら、とても美しい詩だからです。彼はおとめに、自分がイエスから決して、絶対に離れないと言っていました。そしてこう言いました。「エスタ タルデ セニョーラ、 ラ プロメサ エス スィンセーラ。 ポル ラス ドゥーダス、 ノ オルヴィーデ デハール ラ ヤーヴェ アフエラ」(笑い声、引き続いて大きい拍手)。訳せば、「ご婦人(マリアさま)、今晩のわたしの約束はほんものです。けれどもしものために、鍵を外に置いておくのを忘れないでください」(小さい笑い声)。でもこれはおとめへの愛をいつも思いながら言っているわけですが、おとめに語っているのです。けれどもしものためにと言いながら、いつも鍵を外に置きっぱなしだったら、何が起こりうるでしょう・・・これは機能しませんね!内側から扉を閉めることを学ばなければなりません!そしてもし自分に確信が持てないなら、必要な時間をとって、もしすでに自信があるなら、イエスさまへの確信があるなら、分りますよね、だってだれだってイエスさまなしに確かである、ということはないのですから!確信がある時に、扉を閉める。分りますか?何が一時的で使い捨てるような軽い文化なのか?(大拍手)

 ここに入った時に、わたしは書いてきたものを見ました。皆さんに一つの言葉を言いたい。その言葉は、「喜び」です。いつも、聖職者や神学生、修道女や修道者、青年がいるところには、喜びがあります。いつも喜びがあるのです!それは爽やかさの喜び、イエスさまに従う歓喜の喜びです。聖霊がわたしたちに下さる喜びであって、この世の喜びではありません。喜びがあるのです!けれどどこでそれは生まれるのでしょう?それが生まれるのは・・・土曜日の夕方に家に帰り、昔からの仲間とダンスに行くことでしょうか?ここから喜びが生まれるのでしょうか?神学生の喜びが、たとえば、そこから?いいえ、ですか?(湧き上がるような笑い)(教皇、笑いながら)それとも、はい、ですか?(大爆笑、拍手)

 こう言う人もいるでしょう。歓喜は持っている物質からもたらされる、と。だから最新のスマートフォン(笑い声)を探して、一番早いスクーターを探して、話題の車を探して・・・。けれど本気でわたしは皆さんに言いますけどね、わたしは最新の車に乗っている司祭や修道女を見ると思うと、気分が悪くなります。ありえないことです!(大拍手)皆さん考えてください。そこで、じゃぁ神父さま、自転車で行かなければならないのですか?と。自転車はいいものですよ!(笑い声)アルフレッド卿は自転車に乗っています。彼は自転車で回っているのです(拍手、口笛)。車は必要だと思います。仕事がたくさんあってあちこち行かなければなりませんから。でも一番大人しい車を使ってください!そしてもし高くてきれいな車が好きならば、飢餓で死んでいく子どもたちのことを考えてください。これだけです!(大拍手)喜びは持っているものからは訪れないのです!

 他にこう言う人もいます。一番強い感動の感情を感じるための一番ものすごい経験から来るのだ、と。若者はジャックナイフのとがったのをもっていくのが好きです。その世代独特のものです。他にも流行の服に心が傾く人がいます。酒樽のいいところで楽しみます。だからといってシスターたちがそういうところに行っている、と言っているわけではないですよ。若者一般の話です(笑い声、拍手)。他にも喜びが彼氏や彼女をうまいこと口説くことのできることから来ると思っている人もいます。とっかえひっかえしながら。そしてこの愛の不安定感、これは安定していないのです。それは「ためしてみる」だけの愛なのです。そうやって続けていくこともありうる。皆さんも、こうした無視のできない現実とのコンタクトがあるでしょう。

 わたしたちは、こうしたことはすべて、ある種の願望は鎮めることができると知っています。一種の感情が生まれます。けれど最後には、表面的なところに留まる喜びは、内面の緊密なところには降って来ません。これは緊密な歓喜ではないのです。それは一時的な感情で、本当にはあなたを幸せにはしないのです。喜びは、一時的な感情ではありません。それは別のことなのです!

 本当の喜びは、物質からは来ません。持つことからは来ないのです。違います。それは出会いから、他の人との関わりから生まれます。受け入れられること、理解されること、愛されることから、受け入れること、理解すること、愛することから来るのです。そしてこれは一時的な関心によるのではありません。なぜなら他者というのは、男性であれ、女性であれ、人だからです。喜びは出会いの無償性から生まれるのです!「あなたはわたしにとって大切な人です」と聞くこと、言葉で言われる必要はありませんが。これは美しいことです…。そしてまさに、神がわたしたちに理解させることなのです。わたしたちに呼びかけるにあたって神はわたしたちに言います。「あなたはわたしにとって大切な人です。あなたのことが大好きですよ。あなたを当てにしています」と。イエスさまはわたしたちにこれを、一人ひとりに言ってくれるのです。ここから、喜びが生まれるのです!イエスさまがわたしたちを呼んで下さった瞬間の喜びです(深い沈黙)。このことを理解し、聞くことこそがわたしたちの喜びの秘訣です。神に愛されていると感じること、彼にとってわたしたちは番号ではなくて、人であるということ。そして彼こそがわたしたちを呼んでくださる方だと聞くこと。司祭になる、ブラザーになる、シスターになるというのは、第一にはわたしたちの選択によるものではありません。「ぼくはこの道を選びました」と言っているような神学生や修練女はわたしは信用できません。これはわたしは好きではありません(小さな笑い声、大拍手)。よくないのです!そうではなく、呼びかけに対する答え、愛に満ちた呼びかけへの答えなのです。何かを内側に聞いて…、落ち着かなくなり…、「はい、わかりました」と答えるのです。祈りのあいだに、主はわたしたちにこの愛を感じさせてくれます。けれど、わたしたちの人生やわたしたちの歩みに登場する多くの人々の中で読み取ることのできる多くのしるしを通してもこれを感じさせてくれます。

 これは彼との出会いの喜びです。そしてその呼びかけはわたしたちを自分の殻に閉じ込めるのではなく、開くことへと導きます。教会の中での奉仕へと導くのです。聖トマス(・アクイナス)は言っていました。「ボーヌム エスト ディッフースィヴム スーイ」これは、難しいラテン語ではないですね。「よいことというのは広がっていく」という意味です。そして喜びも伝えられるのです。主の呼びかけに、その愛の選びに答えた喜び、そして教会の奉仕においてその福音を証しする喜びを示すことを恐れてはいけません。そして喜びは、本当の喜びは伝染性のものです。伝染していく…、前へと進ませるのです(拍手)。一方、まじめすぎる神学生(笑い声)、悲しすぎる神学生(笑い声)、あるいはそういった修練女と顔を合わせると、あなたはこう考えるでしょう。「ここではなにかがうまくいっていないなぁ」と(爆笑、拍手)。主の喜びが足りないのです。奉仕へとあなたを導く喜び、イエスとの出会いの喜びが足りないのです。その喜びはイエスを伝えるために他者との出会いへとあなたを導いていくのです。これが足りないのです!悲しみの中には聖性はありません、ないのですよ(大拍手)。聖テレジアは、彼女をよく知っているスペイン人がたくさんいますね~(大拍手、口笛)、聖テレジアは言っていました。「悲しい聖人は聖なる悲しい人だ」と(笑い声、拍手)。小さなことです…。神学生や神父、シスターに会って伸びきった顔をしていて(笑い声)、その人生の上に湿っぽい覆いがかぶせられたかのような顔をしていたら、こうした重くて…ボーン、と、のしかかってきて…何かが機能していないのです!けれどお願いですから、シスターでありながら、司祭でありながら、「酢漬けのしぼんだきゅうり」のような顔にならないでください(大爆笑、大拍手)、絶対に!

 イエスから来る喜び。このことを考えてください。神父に、神父と言いますけど神学生も同様です、神父に、またシスターに喜びが足らず、悲しい様子を見た時、皆さんは「きっと精神的な問題があるんだろう!」と考えることもできるでしょう(やや笑い)。違いますか?ほんとうです。起こりえます。貧しくて、病気になることもあるでしょう。ありえます。けれどふつうは精神的な問題ではないのです。だったら不満の問題でしょうか?まぁ、そうとも言えるでしょう。けれど、どこにその喜びの欠如の中心があるのでしょうか?それは独身制の問題です。皆さんに説明しましょう。神学生、シスター、聖職者の皆さん、皆さんの愛はイエスへの愛です。大きな愛です。心がイエスのためにあって、これがわたしたちをして貞潔の誓願を立てさせ、独身制の誓いを宣言させるのです。けれど貞潔の誓願や独身制の誓いは、誓った時に終わるのではありません。それから先も続くのです…。それは成熟して、成熟して、成熟していく歩みです。司牧的父性、司牧的母性へと成熟していくのです。そして司祭が自分の共同体でお父さんではないなら、シスターが一緒に働いている人々のお母さんでないならば、悲しいものになるのです。これが問題なのです。だから皆さんに言います。司牧生活の悲しみの根そのものは、まさにこの奉献生活を誤って生きることからくる、そしてそうは言っても多産力へとわたしたちを導かなければならない父性や母性の不足にあるのです。司祭やシスターで多産力のない人を考えることはできません。これはカトリックではありません!この(生み出す力がないという)ことはカトリックではないのです!(大拍手)。奉献生活の美しさはこれに尽きます、歓喜、歓喜・・・。

 (最前列に座っていた年寄りのシスターに体を向けながら)わたしはこの、一列目にいる聖なるシスターを恥ずかしがらせるつもりはないのですが、可哀想に、体が曲がってしまって、けれど、顔に喜びをたたえているのです。あなたのその顔つきを見ることがわたしにとってとてもよかったんですよ、シスター!(温かい拍手)おそらくあなたはすでに何年も奉献生活を送っておられるのでしょうけれど、とても美しい目をしています、あなたは微笑み、周りの押し合いに文句も言いませんでした(拍手)。こうした、多くの、実に多くのシスターたちや司祭たちが喜んでいて、それは多産力があるからで、いのちを与え、いのち、いのち、とやっている模範にみなさんが出会う時…。このいのちを与えるのは、イエスに出会っているからですよ!イエスの喜びのうちにいるのです!喜びであって、悲しみではありません。司牧の多産力です!

 福音の歓喜に満ちた証し人となるためには、真正であること、一貫性をもつことが必要です。そしてこれが皆さんに言おうと思っているもう一つの言葉です。真正性!イエスは偽善者たちを攻撃していました。偽善者、つまり低レベルで考えていた人たち(訳者注:教皇は語源を説明している。「偽善者」はギリシャ語で「ヒポクリテース」。「ヒポ」=「低い、下の」、「クリテース」判断)、はっきり言えば、二面性をもっていた人たちを攻撃していたのです。青年たちに真正性について語るのには苦労しません。なぜなら青年たちというのは、皆、この真正でありたい、一貫性をもちたい、そういう願いをもっているからです。そして彼らは皆、わたしたち司祭たちの間に真正(ほんもの)ではない人を見ると、あるいは真正(ほんもの)ではないシスターを見ると、吐き気を催すのです!(長い拍手)

 これは何よりもまず、大人の、養成担当者の責任です。そして皆さん、ここにいる養成担当者の皆さん、より若い人たちに一貫性の模範をいつも示しなさい。一貫性のある若者、言行一致できる若者を求めていますか?ならわたしたちが一貫性をもちましょう!そうでなければ、主は神の民についてファリサイ人たちに言っていたことをわたしたちに言うでしょう。「言っていることは行いなさい。けれどやっていることは真似してはいけません」と。一貫性と真正性!

 けれど皆さんも、皆さんなりに、この歩みに続こうと努めなさい。わたしはいつもアシジのフランシスコが言っていたことを言います。キリストは言葉でも福音を宣べ伝えるためにわたしたちを派遣されたのです。フレーズはこうなっています。「福音をいつものべ伝えなさい。そしてもし必要であるならば、言葉を使って」(拍手)。これは何を言おうとしているのでしょうか?本物の生き方をすることで、言行一致した一貫性のある生き方をもって福音を宣べ伝えることです。(間)けれどこの世で、富があまりに悪い影響を及ぼすこの世にあって、わたしたち司祭やシスターが自分の清貧をもって一貫性を示す必要性があるのでしょうか? 教育機関や小教区の最大の関心事がほぼいつもお金にあるのを見るのは、いいようには働きません。よくないのです!(拍手)。それは矛盾です!一貫性をもち、本物でなければなりません。この歩みにおいて、聖フランシスコが言っていることを行いましょう。福音を模範によって宣言し、それからことばでも、です。けれど何よりもまず、わたしたちの生き方が、他の人が福音を読むべき場所にならなければならないのです!恐れずに、直そうとしているわたしたちの欠点も抱えながら、主が知っておられるわたしたちの限界を抱えながら、けれどわたしたちのうちに主が働いて下さるようにと明け渡す寛大さをも持って。欠点、限界、そしてもう一つ付け加えますが、罪を抱えて…。わたしは一つ知りたいことがあります。このホールで、罪びとではない人がいますか?罪のない人、いますか?手を上げてみてください。手を上げて!誰もいません、誰も。ここから、深い所に行きます…全てがです!けれどどのように自分の罪、自分の様々な罪と付き合って行けばいいのでしょうか?皆さんに一つ助言しようと思います。聴罪司祭に対して透明でありなさい。いつも、すべて言いなさい。恐れてはなりません。「神父さま、わたしは罪を犯しました!」。サマリア人の女性のことを考えなさい。証言として、その村の人たちに、メシアに出会ったことを語るにあたり、「あの人はわたしがしてきたことをすべて言いました」、そして誰もがこの女性の生活を知っていました。聴罪司祭に真実をいつも語ること。この透明性は皆さんに益となります。なぜなら、わたしたちすべてを謙虚にさせるからです。

 「でも神父さん、わたしにはこれが残っています。これをしました、憎みました」でも何でもいいのですが、本当のことを言うことです。自分に隠れてしまわずに、中途半端な言葉を使わずに、なぜならあなたは聴罪司祭の人格の中におられるイエスさまと話しているのですから。そしてイエスは真実を知っています。彼はあなたを赦すのみです、いつでも。けれど主はご自身では知っておられることをあなたが自分に言うようにと望んでおられるだけです。透明性です!神学生やシスターに会って、今日汚れを綺麗にするためにゆるしの秘跡を受けて、明日他の人のところで告解して、また他の人のところに行って、と自分の本当のことを隠すために聴罪司祭たちのお遍路をする姿を見るのは悲しいことです。透明性を、イエスがあなたのことを聞いておられるのですよ!告解部屋でイエスを前にして、この透明性をいつも持っていなさい!けれどこれは恵みなのです!「神父さま、わたしは罪を犯しました。これをしました。これと、これと」としっかりとあらゆる言葉を使って。そして主はあなたを抱きしめ、あなたにキスをしてくれます!まぁ、行きなさい。もう罪を犯してはならない!と。そしてまたしてしまったら?もう一度告解するのです。わたしは経験からこのことを言っています。わたしは奉献生活者で透明性の欠如というこの偽善の罠に陥る人を何人も見てきました。「わたしはこのことをしました」と謙虚に言えばいいのです。あの神殿の最後列にいた徴税人のように、「わたしはこれをしました、これもしました」と。そして主はあなたの口を閉じます。主があなたの口を閉ざすのです。自分でやってはいけません。理解できましたか?まさに罪そのものから恵みがさらに上回ってあふれるのです!恵みへの扉を開きなさい、この透明性をもって!(大拍手)。

 霊的生活の聖人や教師たちはわたしたちに、わたしたちの人生を真正性において育むのを助けるのにとても有効な、むしろ不可欠なこととして、日々の良心の糾明の実践について語っています。自分の魂に何が起こるのでしょうか?このように、主に対して開かれ、その後で聴罪司祭に、霊的なお父さんである神父に開かれるのです。これはとても大切なことです!

 あの、何時までですか?フィズィケッラ卿、まだ時間ありますか?(爆笑、大拍手)

 《フィズィケッラ卿:教皇様がおっしゃれば、わたしたちは明日の朝までここにいますよ、まったくもって》

 朝までというんだったら(教皇も笑いながら、大拍手)、皆さんに何かパニーニとかコカ・コーラとかを一人ひとりに持ってきてくださいね。もし朝までなら…少なくとも…(笑い声)

 一貫性はわたしたちの証しが信ぴょう性のあるものとなるために基本中の基本です。けれどそれだけでは十分ではありません。文化的な準備も必要です。文化的準備を取り上げるのは、信仰と希望について納得のいく説明をするためです。わたしたちが生きている文脈というのは、たゆまずこの「納得させる」ことを求めてきます。よいことが一つあります。わたしたちが何も隠したままにしないことを助けるからです。勘定をしないでいられるようなことは、こんにちではありえませんよ!この市民化された社会、この文化では、できません。けれど当然のことながらそれは大変なことです。よい養成が強いられます。バランスの取れた、人生のあらゆる次元を一つにできる、人間的で、霊的で、司牧の知的側面も含めた養成です。皆さんの養成には4つの基本的な柱があります。霊的養成、つまり霊的生活のこと;知的養成、この「納得させる」ための勉強をすること;使徒的生活、福音を告げ始めることです;そして四つ目は、共同体の生活です。四つです。そしてこの最後のポイントのために、志願期や修練期、神学院での養成が共同体でなされる必要があります…。このことをいつも考えています。神学院が全くないことよりは、あまり良くない神学校の方がまだましです(拍手)。なぜでしょうか?というのはこの共同体の生活が必要だからです。この四つの柱を覚えていなさい。霊的生活、知的生活、使徒的生活、共同体生活。この四つです。この四つの柱の上に、皆さんの召し出しを築いていかなければなりません(拍手)。

 ここで、わたしはこの共同体生活における、友情と兄弟愛に満ちた関係の重要性を取り上げたいと思います。それはこの養成の統合的な部分を成しているはずです。ここで、他の問題にぶち当たります。こう言っているのはつまり、友情と兄弟愛の関係です。わたしは何度も色々な共同体に顔を出してきました。神学生たち、シスターたち、教区共同体ですが、一番一般的な射祷がつぶやきになっている共同体です(拍手)。ひどいものです!互いに弱みを暴きあう…(やや笑い声)。これが司祭の世界、修道者の世界とは…。申し訳ありませんが、普及しています。嫉妬、うらやみ、他の人の悪口。上長の悪口を言うだけではありません、それは古典的です!(爆笑、口笛)けれどわたしはこれが一般的だ、とても普通だと言いたい(「ヴィーヴァ・パパ!」)。わたしもこれに陥ったことがあります、何度も。何度もです!(拍手)わたしは恥ずかしい!このことをわたしは恥だと思っています!これはよくないのです、他の人に対してつぶやくことは。「これ聞いた?ちょっとちょっとちょっと、これも聞いた?」と(笑い声)。その共同体は地獄です!これはいいことをもたらしません。そしてだからこそ友情と兄弟愛の関係が重要なのです。友達というのは少ないものです。聖書がこのことを語っています。友人は、一人か二人だ、と。けれど兄弟愛は全員で作られるものです。もしわたしがある姉妹やある兄弟と対立するようなことがあれば、面と向かって言う、あるいは助けることのできる人に話すものです。けれど他の人を「汚す」ために言うものではないのです。そしてつぶやきは、ひどいものです!コメントの裏には、羨み、妬み、野望があります。このことを考えなさい。ある人がこんなことを言っているのを聞いたことがあります。霊操の後でのことです。一人の奉献生活者、シスターが(笑い声)、あぁでもこれは良い話ですよ!(大爆笑、教皇もたまらず笑い出し、拍手)このシスターは主に他の人の悪口を言わないと約束したのです。これは聖性への美しい歩みです!他者の悪口を言わないこと。「でも神父さま、問題があるんです…」。上長に言いなさい。司教に言いなさい。何か手当てのできる人に話しなさい。助けの手を述べることのできない人には言ってはなりません。これは大切です、兄弟愛!けれどわたしに言ってみてください。あなたは自分のお母さんや、お父さん、兄弟の悪い所を人に話そうとしますか?ありえない、ですよね。それではどうして奉献生活において、神学校で、司祭生活においてこれを行うのですか?これだけです。考えなさい。考えなさい…。兄弟愛!これが兄弟愛なのです(拍手)。

 二つの極端があります。この友情と兄弟愛において、二つの極論があるのです。孤立と同様に、消散というのがあるのです。自分を孤独にも消散にも陥らないように助けてくれる友情あるいは兄弟愛。友情を培うことは、かけがえのない善です。教育は閉ざされたところではなく、自分の殻から出ていくようになされなければなりません。司祭、ブラザー、シスターは独りぼっちでいるわけにはいきません。出会いのための心がいつでもできている人でなければならないのです。友情は皆さんの修道会という家族の様々なカリスマによって豊かになります。これは素晴らしい富です。多くの聖人たちの素敵な友情のことを考えましょう。

 多分ちょっと短くしなければならないですかね。

〈神学生たち:ノーーー!〉

皆さん、すごい忍耐力ですね!

 そこで皆さんに言いたいことがあります。自分自身の殻から出て福音を告げに行きなさい。けれどこれをするために、自分自身の殻から出てイエスと一体にならなければならないのです。二つの出口があります。一つはイエスとの出会いへの道、超越へと向かうものです。もう一つはイエスを告げるための他者への道です。この二つのことは一緒に行きます。もし片方だけで歩もうとするならば、これは機能しません!わたしはカルカッタのマザー・テレサのことを考えます。このシスターはとても勇気のある人でした(拍手)。恐れるものなど何もなく、道という道をめぐりました。けれどこの女性は主の前で、二時間、跪くことをも恐れませんでした。祈りにおいて、また司牧活動において自分の殻から出ていくことを恐れないようにしなさい。祈るためにも、福音を告げるためにも勇敢でありなさい。

 わたしはもっと宣教する教会、あまりのんびりしない教会を望んでいます。前に進んで歩む教会というのは素敵な教会です。ここ数日、ここの聖マルタの家での朝ミサに、たくさんの宣教師男女が訪れました。そして挨拶をしている間にこう言っていました。「わたしは年寄りの女性です。40年チャドとか、あちこちにいます」。なんと美しいことでしょう!けれど理解して下さい。このシスターが何年もそこで過ごしたのは祈りにおいてイエスと出会うことを決して脇に追いやらなかったからです。自分自身の殻から出ていくこと、祈りにおいてイエスの超越に向かって、使徒職、仕事において他者への超越に向かって。皆さん、イエスが望まれる道を忠実に歩みながら、このような教会のために貢献しなさい。わたしたちから、(教皇、自分を指しながら)つまり一番若くないわたしたちから学んではなりません。わたしたちから、わたしたち年寄りがしばしばしてしまうスポーツを学んではなりません。つまり嘆きのスポーツを学ばないように!(軽い笑い声、拍手)。わたしたちから「嘆きの女神」への儀式を学んではなりません。これは女神ですよ、いつも嘆く。ポジティブでありなさい。霊的生活を培いなさい。同時に、人々と集まる能力をもちなさい。特にもっとも軽蔑された人々、もっとも貧しい人々と一緒に集まる能力を身につけなさい。出ていくこと、流れに逆らって歩くことを恐れてはなりません。観想的でありながら、宣教者でありなさい。おとめをいつも自分の側に置きなさい。ロザリオを祈りなさい。お願いです(大拍手)。ロザリオを欠かさないで!使徒ヨハネがマリアを自分の側に置いていたように、自分の家にいつもおとめマリアがいるようにしなさい。マリアがいつも皆さんに伴い、皆さんを守ってくださるように。そしてわたしのためにも祈ってください。なぜならわたしは祈りを必要としているからです(拍手)。なぜならわたしは憐れな罪びとですがみんなで前進していくからです。

 どうもありがとう。そして明日また会いましょう。

前進しなさい、喜びをもって、一貫性をもって、いつも真理を語る勇気をもって、その自分自身の殻から出て祈りにおいてイエスと出会い、他者と出会って福音を提供するために自分から出ていく勇気をもって。司牧的多産力をもって!

 どうか、「(霊的)行かず後家」にならないで。前へ!

(拍手、「ヴィーヴァ・パパ!」の叫び)

 フィズィケッラ卿が昨日はそれぞれ自分の言葉で信仰宣言を唱えたと言いました。みんな兄弟で、同じ一人のお父さんをもっていますから、今から、一人ひとり自分の言葉で主の祈りを唱えてください。主の祈りを唱えましょう。

 天におられる…

 それから一人お母さんがいます。それぞれの言葉でおとめに挨拶をしましょう。

 アヴェ・マリア…

 全能の神、父と子と聖霊が皆さんを祝福してくれますように。

(大拍手、「ヴィーヴァ・パパ!」の叫び、口笛)

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