2013年7月8日月曜日

7月7日、ミサ説教:神学生、修練士、修練女、召命を考えている青年へのミサ説教:いのちの木、主の十字架に接木されるためにキリストの愛に浸る

朗読個所  : 年間第14主日
          イザヤ66・10-14c
          ガラテヤ6・14-18
          ルカ10・1-12、17-20

バチカン、7月7日10時19分(バチカンラジオ)
 「教会がキリストの妻であるならば、ある意味では皆さんは恋人の期間にあると言えるでしょう。召し出しの青春、発見、試み、養成のステージにあるのです。そしてこれはとても素敵な期間です。未来に向けての基礎を据える時期なのです。よく来てくれました。ありがとう!」。この言葉でパパ・フランシスコは、信仰年のイニシアティブの雰囲気で行われた集いの閉会式に参加するために世界じゅうからやって来た神学生、修練士、修練女、召命の歩みを見出そうとしている青年たちを歓迎した。彼らすべてにローマ司教は教会の若さを代表して下さい!と喚起した。

 パパは今日わたしたちに宣教について語るみ言葉について言及した。そして彼らに宣教使命とはキリストの十字架であると言った。教父はその説教を聖母マリアの取り次ぎのもとに委ねて結んだ。なぜなら聖母はわたしたちが自由に恐れなく決定的な決断をするのを助けてくれるからである。そして、最後に、彼女が神の慰めの喜びの証しをし、十字架の愛の論理を納得し、ますます激しくなる主との一致において育つのを助けてくれるように願い求めた。 
(María Fernanda Bernasconi – RV).

教皇フランシスコのの説教全文
 

愛する兄弟姉妹の皆さん、

 もう昨日、皆さんと顔を合わせる喜びを味わいました。そして今日のわたしたちの祝いはさらに大きなものです。なぜなら主の日に聖体祭儀を祝うために改めて集まったからです。あなたたちは世界のあらゆるところからやって来た神学生、修練士、修練女、召し出しの道にある青年です。教会の青年層を代表しているのですね!もし教会がキリストの妻であるならば、ある意味では皆さんは恋愛期間、召し出しの春、発見や試み、養成(形成)のステージを成しています。そしてこれはとても素敵な期間なのです。未来への基礎を据える時期だからです。よく来てくれました、ありがとう!

 今日、神のみ言葉はわたしたちに宣教使命について語っています。その使命はどこから生まれるのでしょうか?答えは単純です。主がわたしたちになさる呼びかけから生まれるのです。そして彼によって呼ばれた者は遣わされるために呼ばれているのです。遣わされた者のスタイルはどうなければならないのでしょうね?キリスト者の使命で注意すべき点は何なのでしょう?先ほど聞いた朗読個所はわたしたちに三つのことを推薦しています。慰めの喜び、十字架、そして祈りです。

1.最初の要素:慰めの喜びです。
 預言者イザヤは追放の暗い時期を通った民に向けて語ります。民はとても厳しい試練に苦しみました。しかし今や、エルサレムに向かいます。慰めの時が訪れました。悲しみと恐れは喜びに道を開けなければなりません。「祝え…歓喜せよ…喜べ」、と預言者は言っています(66章10節)。喜びへの大いなる招きです。なぜでしょうか?この喜びへの招きの動機は何でしょうか?なぜなら主が聖なる都とその住民に向けて慰めの「早瀬」を流れさせるからです。慰めの「早瀬」と呼ばれるほどまでに慰めに満ちています。母の優しさのほとばしりなのです。「抱いて運ばれ、膝の上であやされる」と。 お母さんが子どもをその膝の上に抱き、可愛がって撫でる時のように、主はわたしたちにこうするでしょう、わたしたちにこれをなさるのです。これがわたしたちに実に大きい慰めをもたらす温もりのほとばしりなのです。「母がその子を慰めるように、わたしはあなたたちを慰める」(12―13節参照)。
 全キリスト者、特にわたしたちは、落ち着きと喜び、神の慰め、すべての人に対する温もりをもたらすこの希望のメッセージの運び手となるように呼ばれています。けれどわたしたちが運び手となれるのは、何よりもまずわたしたちが主によって慰められ、愛される喜びを味わっている場合のみです。わたしたちの宣教が実りをもたらすものとなるためには、このことが重要です!神の慰めを感じ、それを伝えるということは!わたしは時々修道者で、神の慰めを恐れている人たちを見てきました。そして哀れなのです。可哀想に、心を騒がせます。なぜなら神のこの温もりを恐れているからです。けれど恐れてはなりません。怖がってはいけないのです。主は、慰めの主、温もりの主なのですから。主はお父さんで、彼は、お母さんが我が子にするように、そのぬくもりをもってわたしたちになさると言っているのです。
 主の慰めを恐れてはなりません。イザヤの招きがわたしたちの心に響くべきです。「慰めよ、わたしの民を慰めよ」(40章1節)と。そしてこれが使命へと変わっていかなければならないのです。わたしたちを慰める主に出会い、神の民を慰めに行くこと。これが(宣教)使命です。こんにちの人々はまさに言葉を必要としていますが、何よりも心に火をともし、希望を目覚めさせ、善へと惹きつけるあわれみ、主の温もりの証しをわたしたちがするのを心待ちにしているのです。神の慰めを運ぶ喜びを!

2.宣教に関する二つ目のポイントは、キリストの十字架です。
 聖パウロは、ガラテヤ人に書きながらこう言っています。「わたしたちの主イエスキリストの十字架でないならば、誇ることから神がわたしを解きはなってくださいますように(新共同訳:このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません)」(6章14節)。そして「焼き印」について語ります。つまり、十字架につけられたキリストの傷のことです。それはその福音の使徒の決定的な刻印、しるしのようなものです。その奉仕職において、パウロは苦しみ、弱さ、打ちひしがれることを体験しましたが、喜びと慰めも体験したのです。ここに、イエスの過越しの神秘があります。死と復活の神秘があるのです。そしてまさに、イエスの死によって満たされるに任せることが、パウロをその復活、その勝利に参与させるに至らせたのです。暗闇の時間に、試練が目の前にある時、すでに光と救いがそこにあり、うっすらと空を白ませるように働き始めているのです。
 過越しの神秘は、教会の宣教の鼓動に満ちた心臓なのです!そしてもしこの神秘の内側に留まるならば、世俗的な視点や宣教の勝利主義的視点、あるいは試練や失敗を前に生まれうる落胆から、わたしたちは救われているのです。司牧的な多産力は、福音の宣言の多産力なのです。それは人間の評価基準による成功からも失敗からも来ません。そうではなく、イエスの十字架の論理に満足することから来るのです。それは自分の殻から出ていき、自らを差し出す、愛の論理なのです。十字架、常にキリストのかかっている十字架ですが、この十字架こそがわたしたちの宣教の多産力を保障するのです。そしてあわれみと愛の最高の行為である十字架から、わたしたちは「新しい創造」(ガラテヤ6章15節)として改めて生まれ直すのです。

3.最後に、三つ目の要素:祈りです。
 福音においてわたしたちは次のように聞きました。「だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」(ルカ10章2節)。収穫のための働き手は大々的なキャンペーンで選ばれた人でも、寛大な配給サービスに呼ばれたわけでもなく、神によって「選ばれた人々」、また「命じられている人々」なのです。神こそが選ぶ方、命じる方、派遣する方、使命を与える方なのです。だからこそ祈りが重要なのです。
 教会は、ベネディクト十六世がわたしたちに繰り返し言ってきたことですが、わたしたちのものではなく、神のものです。そして何度わたしたち聖職者たちはこれを自分のものだと思ってきたことか。でしょう?わたしたちは思いついたことをやってしまうのです。けれど、教会はわたしたちの持ちものではなく、神のものなのです。耕さなければならない土地は、神のものなのです。
 そういうわけで、使命は何よりも恵みなのです。宣教(=使命)は恵みです。そしてもし使徒職が祈りの実りであるならば、祈りのうちにその活動のための照らしと力を見出すことでしょう。実際、わたしたちの宣教使命は、泉である主とのつながりを断ち切るまさにその時に、実りをもたらす性質を失う、更には消し去ってしまうのです。

 愛する神学生の皆さん、愛する修練女の皆さん、愛する修練士の皆さん、召し出しの道にある愛する青年の皆さん。
 あなたたちのうちの一人、あなたたちの養成担当者の一人が先日このようなことを言っていました。évangeliser on fait en genou(フランス語)、福音化は跪くことで行われる、福音化は膝でなされるのだ、と。耳をかっぽじってお聞きなさい。「福音化は跪くことでなされるのです」。いつも祈りの男性、祈りの女性でおありなさい。いつも、祈りの男、祈りの女でいなさい!神とのたゆまない関わりがなければ、宣教は機能に型落ちしてしまいます。けれど仕立屋として働く、料理人として働く、司祭として働く、と言いますが、と言うでしょう。あなたは司祭として働いているのですか?シスターとして働いているのですか?違うでしょう。これは職業ではないのです、司祭であること、修道者であることは別のことなのです。活動主義の危険は、いつも見張っている形の、構造に信頼しすぎることにあります。イエスを見てみると、どの決定や重要な出来事にも、その前夜に緊密で長い祈りに沈潜していたことが分ります。観想の側面を培いましょう。もっとも緊急で差し迫った約束を果たす渦中にあってもです。イエスが皆さんを存在の中心から外れたところに行く使命へと呼びかければ呼びかけるほど、ますますあわれみと愛に満ちたキリストの心に一致していかなければならないのです。ここに、司牧の、実りをもたらす性質、主の弟子の多産力の秘訣があるのです。

 イエスは自分のもとにいた人々を、「下着も、袋も、サンダルも」持たせずに送り出します(ルカ10章4節)。福音の伝播が確実なものとされるのは、人の数によってでも、組織の名声によってでも、利用可能な資源の量によってでもありません。勘定に入るのは、キリストの愛にかぶれていること、聖霊に導かれるがままに任せること、自分のいのちをいのちの木、つまり主の十字架に接ぎ木していることなのです。

 愛する友だちの皆さん、大いなる信頼をもって皆さんを聖母マリアの取り次ぎのもとに置きます。マリアは自由に、恐れなく決定的な決断をする手助けをしてくれるお母さんです。みなさんが喜びに対する恐れをもたずに、神の慰めの喜びの証しをするのを、マリアが支えてくれますように。みなさんが十字架の愛の論理に満足し、祈りにおいて主とのより緊密な一致において育っていくのを、マリアが支えてくれますように。このようにして、皆さんの生活がより豊かになり、より実りをもたらすものとなりますように!

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