2013年7月27日土曜日

7月26日(金)、WYD中の十字架の道行、招きのことば:わたしたちの人生の中で、その大小を問わず、主がわたしたちと分かち合わない十字架はない


 十字架の道行は、エルサレムにおけるイエスが歩いた苦しみの道であるが、金曜日に、パパの面前で、コパカバーナで行われた十字架の道行は青年たちによって再解釈されて作られたものである。この夜、それぞれの留では今の青年たちに直接関連するようなテーマのいくつかが繰り広げられた。宣教、回心、共同体、未成年でお母さんになる女の子、神学生、いのちの保護における宗教、夫婦や恋人、苦しむ女性、学生、ネットワーク、留置所の青年たち、刑務所司牧、不治の病、早死に、全世界の青年層・・・。黙想のテキストは、ブラジルで青年への献身でよく知られたデオニア修道会のゼジーニョ神父とジョアンジーニョ神父の手で整えられた。ワールドユースデーに来た何十万人の信徒や巡礼者たちに向けて、パパは、自分の側にアルゼンチンのダンボール拾いの野宿労働者グループを呼びたいと望みつつ、「イエスはその十字架を担いでわたしたちの使っている通りを、わたしたちの怖れや問題、苦しみを、それこそ最も深い苦しみまでをも担ぐために歩きまわります」と語った。

十字架の道行の時の教父の演説
愛する青年の皆さん、


 わたしたちは今日ここに来て、イエスの痛みと歩みの道、十字架の道行きの道のりをイエスと共にします。それはワールドユースデーの中でもとてもインパクトの強い瞬間のひとつです。あがないの聖年を結ぶにあたって、福者ヨハネ・パウロ二世は皆さん、青年たちに十字架を委ねようと望みました。そしてこう言いました。「イエスの人類への愛のしるしとして世界じゅうにこれを運んでください、そしてすべての人にただ十字架につけられて死に復活したキリストにおいてのみ救いとあがないがあるのだということを伝えてください」(1984年4月22日、聖年の十字架を青年たちに渡すにあたってのことば。Insegnamenti VII,1 (1984), 1105)。その時から、この十字架は全大陸をめぐり、人間の存在の様々な世界を通って来ました。ほんとうに多くの青年たちが見、抱えている生の状況が刻まれていると言えるでしょう。自分自身の何かを残さずに、また自分自身の人生にイエスの十字架から何かをもっていかずには、だれもイエスの十字架に触れることはできません。この夜、主に従いながら、皆さんの心に三つの問いかけをしてほしいと思います。「ブラジルの青年の皆さん、この壮大な国をめぐった二年間、みなさんは十字架の中に何を置いてきましたか?」「十字架は皆さん一人ひとりの中に何を残しましたか?」そして最後に、「この十字架はわたしたちの人生に対して何を教えていますか?」

1.古いローマの教会の伝統でこのような話があります。使徒ペトロが、皇帝ネロの迫害から逃れようとして町から出て言っていたときに、自分の逃げている方向と反対側に向かってイエスが歩いているのを見たので、すぐに尋ねました。「主よ、どこに行かれるのですか?(クォ・ヴァディス・ドミネ?」。イエスの答えは「わたしはもう一度十字架にかかるためにローマにいくのだよ」。その時、ペトロは勇気をもって最後まで主に従わなければならなかったことを理解しました。けれど、何よりも理解したことは、自分がその歩みにおいて一度も一人きりになったことはなかったということでした。自分と一緒にいつもあのイエスが、十字架で死ぬほどまでに自分を愛して下さったあのイエスがいたことを悟ったのです。見なさい。十字架を担いだイエスがその十字架を担いでわたしたちの使っている通りを、わたしたちの怖れや問題、苦しみを、それこそ最も深い苦しみまでをも担ぐために歩きまわります。十字架を担いで、イエスはもはや叫ぶことすらできなくなった暴力の犠牲者の沈黙に自分を重ね合わせます。特に無垢な人々や自分を守ることのできない人たちにです。十字架を担いで、イエスは子どもと死に別れて泣いていたり、麻薬のような人工的な天国の犠牲者となっているのを見て苦しんでいたりする、困難にある家族と一つになります。十字架を担いで、イエスは毎日何トンもの食料を捨てている世界の中で、飢餓に苦しんでいる人々と一つになります。十字架を担いで、イエスは自分の持っている宗教や考えのため、あるいはただ皮膚の色が違うというだけで追われている人々と一つになります。十字架のうちに、イエスは利己主義や汚職を見て、政治機関への信頼を失った多くの青年たち、あるいはキリスト者や福音の奉仕者の言行不一致のために教会への信頼、更には神への信仰を失ってしまった青年たちと一つになります。キリストの十字架の中に、人間の苦しみや罪があります。それはわたしたちの苦しみや罪でもあります。そしてイエスはすべてを、両腕をいっぱいに広げて迎え、自分の背中にわたしたちの様々な十字架を背負い、こう言います。「盛り上がっていこう(がんばれ)!君は独りでこれを運んでいるわけじゃないんだ。君と一緒にわたしがそれを担いでいるんだ。そしてわたしは死に打ち勝った。わたしは君に希望を与え、いのちを与えるために来たんだ(ヨハネ3章16節参照)」と。

2.そうして二つ目の問いに応えることができます。十字架はこれを見た人々に、これに触った人々に何を残したのでしょうか?わたしたち一人ひとりに何を残すのでしょうか?他の誰もわたしたちにもたらすことのできないよいものを残します。神の尽きることのない愛の確信です。わたしたちの罪の中にまで入り込み、それを赦し、わたしたちの苦しみの中に入り込んでわたしたちにこれを乗り越える力を与え、わたしたちの死にも入り込んでこれに打ち勝ちわたしたちを救うほどの、ともかく大いなる愛です。キリストの十字架の中に、神の愛すべてが、その超大なあわれみがあります。そしてそれは信頼に値する愛、信じることのできる愛なのです。愛する青年の皆さん、イエスに信頼しましょう。彼にまったき信頼を置きましょう(回勅『ルーメン・フィデイ』16参照)。死んで復活したキリストにおいてのみ、救いとあがないを見出すことができます。キリスト共にいるならば、悪や苦しみ、死にはとどめの言葉はありません。なぜならキリストがわたしたちに希望といのちを下さるからです。憎しみと破壊、死の道具であった十字架は愛と勝利、いのちのしるしに変化したのです。

 ブラジルは最初、まさに「聖なる十字架の地」という名で呼ばれていました。キリストの十字架は500年以上前に波打ち際に打ち立てられただけではなく、歴史の中に、心の中に、ブラジルの民の生活の中に、そして他の多くの人々の中に打ち立てられたのです。苦しむキリストに、わたしたちは近さを感じます。最後までわたしたちの歩みを分かち合ってくれる人、わたしたちのうちの一人であると感じます。わたしたちの人生の中で、その大小を問わず、主がわたしたちと分かち合わない十字架はありません。

3.けれど十字架は、この愛によって感染されるようにともわたしたちを招きます。わたしたちにそうやって他の人、特に苦しむ人、助けを必要としている人、ほんの一言、一つの仕草を待っている人、わたしたちが自分の殻を出て出会いに行って手を伸ばすのを待っている人を、いつも憐れみと愛をもって見つめるようにと教えます。カルワリオへのその歩みにおいてイエスについてきた顔ぶれはたくさんです。ピラト、キレネ人、マリア、婦人たち・・・。わたしたちも他の人を前にして、イエスのいのちを救うために流れに逆らっていく勇気がなくて手を洗うピラトのようになることもありえます。愛する友の皆さん、キリストの十字架はあの重い木を運んでイエスを助けるキレネ人、愛と温もりをもって最後までイエスについていくのに恐れをなさないマリアや婦人たちのようになるようにと、わたしたちに教えています。そして、君は、誰ですか?ピラトのようですか?キレネ人に似ていますか?マリアのようですか?

 愛する青年の皆さん、キリストの十字架のところにわたしたちの喜び、わたしたちの苦しみ、わたしたちの失敗を持っていきましょう。わたしたちを理解し、わたしたちを赦し、わたしたちを愛し、わたしたちの人生にこの同じ愛を持っていき、わたしたちの一人ひとりの兄弟姉妹をその同じ愛を持って愛するようにと求める開かれた心を見出すでしょう。なれかし(アーメン)

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