2013年7月29日月曜日

7月28日(日)、WYD閉会ミサ説教:「行きなさい」「恐れずに」「奉仕するために」

愛する青年の皆さん、

「行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」。この言葉で、イエスは皆さん一人ひとりに次のような言葉を向けています。「ワールドユースデーに参加して、ほんとうによかったですね。地球の四方八方からやって来た青年たちと一緒に信仰を生きることができて。でも今、君は行かなければなりません。そしてこの体験を他の人たちに伝えなければなりません。イエスはご自分が受けた使命を果たすにあたり君が弟子となるように呼びかけています。先ほど聞いたみ言葉に照らして、主は今日、わたしたちに何を語っておられるのでしょう?三つの言葉です。行きなさい。恐れずに。奉仕するために。

1.行きなさい。この数日、ここリオで、イエスに出会う素晴らしさい、共にイエスに出会う素晴らしさをみなさんは体験することができました。信仰の喜びを感じることができました。けれどこの集いの経験は自分の生活、あるいは小教区、ムーブメント、自分の共同体の中に閉じ込めたままではいられません。 それは燃えている炎から酸素を奪うようなものです。信仰は分かち合えば分かち合うほど、すべての人がこれを知るように伝えれば伝えるほど、愛すれば愛するほど、イエスをいのちと歴史の主であると告白すればする(ローマ10章9節参照)ほど、ますます活き活きとなる炎です。でも気をつけて!イエスはこうは言いませんでした。もししたいなら、もし時間があるなら、とは言わなかったのです。そうではなくて「行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」と言いました。信仰体験を分かち合うこと、信仰の証しをすること、福音を告げ知らせることと言うのは全教会に、そして君にも信頼している主の命令なのです。それは支配や権力の意志から生まれた命令ではなく、愛の力、わたしたちよりも来てわたしたちに、自分の内の何かではなく、自分のすべてをわたしたちに下さったこと、神の愛とあわれみをわたしたちに示しわたしたちを救うためにその命を与えたことにある力からの命令なのです。イエスはわたしたちを奴隷のようには扱わず、自由人、友、兄弟として扱いうのです。そしてわたしたちを派遣するだけではなく、わたしたちと共に行き、この愛の使命においてわたしたちの側にいつもいるのです。

 イエスはわたしたちをどこに送るのでしょう?国境はありません。境界線はないのです。わたしたちをすべての人に対して派遣するのです。福音は数人の誰かのためではなく全員のためにあるのです。 一番近くにいる人、一番受け入れてくれそうな人、歓迎してくれそうな人に見える人たちだけではありません。すべての人のためのものなのです。どのような環境にでも赴き、キリストをもたらすのを恐れてはなりません。存在の中心から外れたところ、一番遠くにいて、一番無関心に思われるような人にも、です。主はすべての人を探し求めています。その憐れみと愛の温もりをすべての人が感じてほしいと望んでいるのです。

  特別な仕方で、この「行きなさい」というキリストの命令が、あなたたち、ラテンアメリカの教会の青年たちにこだましたらいいと思います。あなたたちは司教たちによって推進されている大陸宣教への献身があるのです。ブラジルは、ラテンアメリカは、世界はキリストを必要としています。

 聖パウロはこう言っています。「もし福音を告げ知らせないなら、やる瀬ないのです(私は不幸なのです、Iコリント9章16節) 」。この大陸は福音の宣言を受け入れました。その歩みが刻まれ、多くの実りをもたらしました。今、この宣言は、新たな力をもってこだまするようにと、皆さんにも託されています。

 教会は皆さんを必要としています。皆さんの特徴である熱意、独創性、喜びを必要としています。ブラジルの大いなる使徒、福者ジョゼ・デ・アンシエタは、まだほんの19歳の時に宣教をしに出かけて行きました。皆さんは青年たちに福音を伝えるための一番よい仲介は何だか知っていますか?もう一人の青年なのです。これがみなさんが辿らなけらばならない道なのです。

2.恐れずに。こう考える人もいるでしょう。「特別な準備が全くありません。どうすれば福音をのべ伝えに行くことができるのでしょうか?」愛する友よ、君の恐れはエレミヤの恐れと大して変わりませんよ。皆さんのように青年だったエレミヤは、預言者となるために神から呼ばれた時に、そういう恐れを抱いていたのです。
 ちょっと前に、わたしたちの耳に入って来た言葉はこれです。「あぁ、主よ、我が神よ!ご覧ください。わたしは語ることを知りません。子どもに過ぎません」。神は皆さんにもエレミヤに言った言葉を向けます。「彼らを恐れてはならない。わたしがあなたを解き放つために、あなたと共にいる」(エレミヤ1章6節、8節)。彼は、わたしたちと共にいます。

 「恐れてはならない」。キリストをのべ伝えに行く時、キリストこそが先頭を切り、わたしたちを導くのです。自分の弟子たちを宣教に派遣する時、このように約束しました。「わたしは毎日あなたたちと共にいる」(マタイ28章20節)と。これはわたしたちにとっても真実です。イエスはわたしたちを一人ぼっちにしません。決して一人にしておかないのです。いつもともに歩んでくださるのです。

 しかもイエスは「(君、)行きなさい」ではなく 、「(君たち、)行きなさい」と言ったのです。わたしたちは一緒に送りだされているのです。愛する青年の皆さん、この宣教において、全教会が共に歩むことを感じ、聖人たちとの聖体的一致をも感じなさい。挑戦に共に立ち向かう時、わたしたちは強く、持っていなかったと思われた資材を見出すのです。イエスは使徒たちを、孤立して生きるようには呼びだしませんでした。彼らを、グループを作るように、一つの共同体を作るために呼んだのです。

 わたしは、このエウカリスティアでわたしと共同司式をしている愛する司祭たち、あなたたちにも言葉を向けたいと思います。皆さんは自分に託された青年たちと共に歩むためにやって来ました。そしてこの信仰の経験を分かち合うのは素敵なことです。けれどこれは歩みの途中の段階です。寛大に、喜びをもって彼らに寄り添い続けなさい。彼らが教会で活発に献身するように助けなさい。彼らが独りぼっちだと決して感じることがないように。わたしはここで、青年司牧のグループや、その実に創造的で、実に大胆な教会であるということのその経験において、青年たちと歩みを共にするムーブメントや新しい共同体に、心から感謝したいと思います。前進し続けなさい!そして恐れないで!

3.最後のことば。奉仕するために。先ほどわたしたちが宣言した詩篇の最初に、このような言葉があります。「新しい歌を主に歌え」(95篇1節)。

 新しい歌とはどのようなものなのでしょう?それは言葉でも、メロディでもありません。それはその命の歌なのです。それはわたしたちの人生のアイデンティティがイエスの人生になるようにすることなのです。それはイエスと同じ感情、その考えを抱き、イエスのように行動することなのです。そしてイエスのいのちは、他の人々のためのいのちなのです。それはひとつの奉仕の命なのです。

 聖パウロは、ついさっき聞いた朗読の中でこう言っていました。「わたしはすべての者の奴隷になりました。そうして一人でも多く得るためです」(Iコリント9章19節)。イエスを宣べ伝えるために、パウロは「すべての人々の奴隷」になったのです。

 福音化するとは、神の愛を第一人称で証しすることです。それはわたしたちの利己主義を乗り越えることです。それはイエスがしたように、わたしたちの兄弟たちの足を洗うために頭を低くして奉仕することなのです。

 「行きなさい」「恐れずに」「奉仕するために」この三つの言葉に従っていれば、皆さんは福音化する人は福音化される人であるということ、信仰の喜びを伝える人は喜びを受けるということを経験することでしょう。愛する青年の皆さん、自分の家に帰った時、キリストに寛大になること、福音の証しをすることを恐れないでください。

 第一朗読で、神が預言者エレミヤを送り出す時に、彼に「抜き取り壊すため、滅ぼし破壊するため、再建し植えるため」 (エレミヤ1章10節)の力を与えます。皆さんにとっても同様です。福音を運ぶことは、悪や暴力を抜き取り壊すための力、利己主義や不寛容、憎しみを滅ぼし破壊するための力、新しい世界を建設するための力を運ぶことなのです。イエス・キリストは皆さんを当てにしています。教会は皆さんを当てにしています。パパ(教皇)は皆さんを宛てにしています。イエスの母でありわたしたちの母であるマリアさまが、いつもそのぬくもりをもって皆さんに寄り添って歩んでくださいますように。「行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」。アーメン。

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