2013年7月4日木曜日

7月3日、朝ミサ説教:より弱い兄弟にあるイエスの傷にキスをすることで神に出会う

朗読個所  : 聖トマ使徒(祝)
          エフェソ2・19-22
          ヨハネ20・24-29

バチカン、7月3日18時00分(バチカンラジオ)

 
 生きた神に出会うためには、わたしたちの、腹をすかせた兄弟、貧しい兄弟、病気の兄弟、刑務所にいる兄弟のうちにおられるイエスの傷口にやさしく接吻をする必要があります。使徒聖トマスの祝日の典礼で読まれるようにとされている福音にコメントをしながら、パパ・フランシスコは今朝聖マルタの家の小聖堂で捧げられたミサの説教で語った。

  この聖体祭儀には、諸宗教間対話のための聖庁委員会の司祭団や協力者たちが、この委員会の議長であるジャン・ルイス・タウラン枢機卿に率いられて参列した。

 イエスは復活後、使徒たちに現われるがトマスはそこにいなかった。「一週間待つようにと主は望まれたのです」とパパ・フランシスコは説明した。「主はどのような意図で物事を行うかご存知です。そしてわたしたち一人一人に、わたしたちにとって一番と思われる時を与えてくださるのです。トマスには一週間が与えられました」。イエスは傷を負った姿でご自身を示される。「その体はすべて清く、とても美しく、光に満ちていました」と教父は強調した。「けれど傷はありました。まだあったのです」。そして世の終わりに主がこられる時には、「わたしたちにその傷をお見せになります」。トマスは信じるためにこの傷口に自分の指で触りたいと望んでいた。

 「トマスは頑固でした。けれど、主はまさに、わたしたちがより偉大なことを理解できるように、ひとりの頑固者を望まれたのです。トマスは主を見ました。釘跡の傷にその指を入れるように、脇腹にその手を入れるようにと招かれました。そしてこうは言いませんでした。「本当だ、主は復活されたのだ!」。違うのです!さらに進みます。こう言ったのです。「神だ!」と。復活の後、キリストの神性を告白する最初の弟子となったのです。そうしてイエスを礼拝しました」。


 パパは続けて言った。「そうして、トマスを待たせるにあたっての主の意向が何だったのかが理解されます。その不信をも受けとめ、復活を認めないことではなく、その神性を認めることへと導かれたのです」。「神であるイエスとの出会いへの道は、その傷にあります。他にはありません」と強調した。

 「教会の歴史において、神への道でいくつかの誤りがありました。ある人は生きた神に、キリスト者の神に、瞑想の道によって出会うことができ、瞑想においてもっと上へといけると信じました。それは危険なことですよ。わかりますか。どれほどの人がその道で自分を見失い、たどりつかないことか。到達すると言えば、そうですね、神に関する知識には、おそらく到達するでしょう、けれどイエス・キリスト、神の子、三位一体の第二のペルソナに関する知識ではないのです。この人にはたどり着かないのです。それは、グノーシスの道でしょう、違いますか?良いことです。役に立ちます。けれど、これは正しい道ではないのです。それはとても複雑で、よい港へは連れて行ってくれないのです」。

 「他の人は、神にたどり着くためには痛悔をし、本物となるために償いと断食の道を選びました。そしてこれすら生きた神、生きた神であるイエス・キリストにはたどり着かないのです。それは自分の努力でたどり着くと思う、ペラギウス主義になります」。しかしイエスは自分に合うための道はその傷に出会うことであると言う。


 「そしてイエスの傷には、あわれみのわざを行いながら出会います。肉体に対して、肉体をもった人に足して子のあわれみを差し出しながら、また魂に対してあわれみを差し出しながらです。けれど、あなたの傷ついた兄弟の体にあわれみを差し出すのです。その人はお腹がすいているから、のどが渇いているから、着るものがないから、蔑まれているから、奴隷になっているから、刑務所にいるから、病院にいるからです。これが今日のイエスの傷です。そしてイエスはわたしたちが信仰のわざを行うようにと求めます。イエスへの信仰の業ですが、こうした傷を通して行うのです。あぁ、よくわかりました!じゃぁ基金を作ってそうした人たちをみんな助けられるようにして、助けるための慈善事業を興しましょう。というのは大切なことですが、もしわたしたちがこの計画に留まるばかりならば、人道主義者になるだけです。わたしたちはイエスの傷に触れなければなりません。イエスの傷の手当てをやさしくしてあげなければなりません。温もりをもってイエスの傷を癒さなければならないのです。イエスの傷にキスをしなければならないのです。そしてこれを文字通りに行うべきなのです。聖フランシスコがらい病患者を抱きしめた時に起こったことを考えましょう。トマスに生じたことと同じです。その生き方が変わりました!」

 生きた神に触れるには、「現代化の研修をする」のは役に立たない、とパパは確言した。そうではなく、イエスの傷に入らなければならず、このためには「通りに出て行くだけで十分です」。フランシスコは結んで言った。「聖トマスに、わたしたちの温もりをもってイエスの傷口に入っていく勇気をいただく恵みを求めましょう。そして間違いなくそこで生きた神を礼拝する恵みをいただくことになるでしょう」。 
(マリア・フェルナンダ・ベルナスコーニ– RV).

0 件のコメント:

コメントを投稿