2013年7月29日月曜日

7月27日(土)、徹夜祭での演説:あなたたちはより美しい教会とより良い世界の建設者なのです。


 パパとの2013年ワールドユースデーの祈りの徹夜祭はコパカバーナの岸辺で27日土曜日の夜に始まった。悪天候のためにグアラチバの「カンプス・フィデイ」は使えず、カリオカ三角州の、同様に世界じゅうからの何十万人の青年たちを、この青年の集い特有のカラフルな雰囲気の中で迎えた。祭りとまくし立てるような声、けれど同時に黙想と教皇を待つ集中に満ちていた。そして教皇の言葉はまさにわたしたちはいったい誰なのか、何へと呼ばれているのかをわたしたちに思い出させることになった。

 この夜、み言葉の祭儀には二つの時があって発展した。パパと青年たちとの対話と聖体行列、そして聖体礼拝である。最初の部分は教会を「建設する」ことに努めている何十人もの青年たちの参加による示唆的な劇に伴われて行われた。『あなたたちは信仰の耕地です。皆さんはキリストのアスリートです。皆さんはより美しい教会とより良い世界の建設者なのです」とフランシスコはリオに集まった青年たちに、そして彼らを通して、すべての青年に向かって語った。

青年たちとの徹夜祭中のパパの演説

愛する青年の皆さん、

 ほんの少し前にアシジの聖フランシスコの物語を思い起こしました。十字架の前でイエスの声を聞きます。「行きなさい、フランシスコ、そしてわたしの家を修復しなさい」。そして若いフランシスコは早速、寛大にこの主の呼びかけ、主の家を修復するということに応えます。少しずつ、それは大工になって石で作られた建物を修復するのではなく、教会のいのちに貢献することであると気づいてきます。教会を愛しつつ、その中でますますキリストの顔が反映されるために働きながら、教会の奉仕に自らを据えることが扱われています。今日も主はその教会に青年たちを必要としています。愛する青年の皆さん、主は皆さんを必要としています。今日もあなたたち一人ひとりを、その教会で主に従い、宣教者となるようにと呼んでいます。愛する青年の皆さん、主は今日みなさんを愛しています。大勢をいっぺんに愛しているのではなく、あなたを、あなたを、あなたを、一人ひとりを愛しています。心の中で何を彼が皆さんに語るかに耳を傾けなさい。この数日起こったことから何かを学ぶことができるでしょう。悪天候のために今夜の徹夜祭をグアラチーバの「カンプス・フィデイ(信仰耕地)」で行う予定だったのをキャンセルしなければならなかったように。「主がわたしたちに言おうとしているのは、ほんとうの信仰の農耕地、本物の「カンプス・フィデイ」は地理的な場所にあるのではなく、わたしたち自身だ、ということなのではないでしょうか?そうです、本当に、わたしたち一人ひとり、皆さん一人ひとり、わたし、全員です。そして弟子であり宣教者であるということは、わたしたちが神の信仰のキャンプ場であるということを知ることにあります。ですから、だからこそ、信仰の農耕地のイメージから、わたしは三つのイメージについて考えました。弟子であり宣教師である人であるとは何なのかをより分かりやすくするのを助けることのできる、三つです。最初のイメージは、種をまく土地、二つ目は、訓練の場としてのグランド、三つ目は、建設工事の場としての土地です。

1.最初に、種をまく場所としての耕地です。 誰もが種をまくために農地に出ていった種まきについて語るイエスの譬え話を知っています。ある種は道端に落ちたり、石の間に落ちたり、茨の真っただ中に落ちたりして、育つに至りませんでした。けれど他の種はよい土地に落ち、多くの実りをもたらしました(マタイ13章1―9節)。イエス自身が譬え話の意味を説明しました。種はわたしたちの心の中にまかれた神の言葉です(マタイ13章18―23節)。愛する青年の皆さん、それはほんとうのカンプス・フィデイは心であることを意味しています。神の言葉をわたしたちが受け入れる時、わたしたちが信仰の農地になっているのです。お願いですから、キリストその言葉が皆さんの人生の中に入るようにしなさい。神の言葉の種が入るようにしなさい。芽を出させなさい。育つようにしなさい。神がすべてをなさるのですが、皆さんはそれを神にさせなさい。彼がその成長において働くように。

 イエスは道端や石の間や茨の間に落ちた種は実りをもたらさなかったとわたしたちに言っています。わたしは、正直に言って、次のような問いかけをすることができると思います。「わたしたちはどのようなタイプの農地なのだろう?」、「わたしたちはどのような農地になりたいと望んでいるのだろう?」おそらく、しばしばわたしたちは道の様かもしれません。主に耳を傾けるけれど、人生において何も変わらない、なぜなら耳に入ってくる表面的な実に多くの主張でとろっぽくなるに任せてしまうからです。わたしたちは皆さんに尋ねますが、今は答えないでください。一人ひとり自分の心の中で答えなさい。「わたしはとろっぽい青年男子、青年女子でしょうか?」「それとも石だらけの土地でしょうか?」。熱心にイエスを迎え入れるけれど、継続的ではなく、困難を前に、流れに逆らっていく勇気がないような。一人ひとり自分の心で答えましょう。「わたしには勇気があるのだろうか?それとも臆病なのだろうか?」「あるいは茨だらけの土地だろうか?物事や否定的な情がわたしたちの中で主の言葉を息苦しくしているような(マタイ13章18―22節参照)。「わたしの心には二つの極端で自分を演じて神とも悪魔ともうまくやっていけるようにする習慣がないだろうか?」それぞれ沈黙のうちに答えましょう。今日、しかしながらわたしは種はよい土地に落ちたと確信しています。わたしたちはこうした証言をよい土地に落ちた種として聞きました。「いいえ、神父さん、わたしはいい土地なんかではありません。わたしは厄介者です。わたしには石も茨もたくさん、色んなものでいっぱいです。そうです、わたしはそれが上で言われたようなものもないわけではないのですが、ほんのかけらがあるだけ、ほんのちょっとだけ良い土地があるだけです。だったらそこに種が落ちるようにしなさい。そうすればどう芽生えるかを見ることになるでしょう。わたしは皆さんが良い土地になりたい、パートタイムのキリスト者ではなく、取り澄ました、キリスト者のように見えるけれど深い所では何もしていない、鼻のそうなったようなキリスト者でもなく、本気のキリスト者になりたいと望んでいることを知っています。顔だけのキリスト者ではない。そうしたキリスト者はただの見せかけだけです。そうではなく、ほんもののキリスト者になりたい、と。わたしは、皆さんが流行や一時の都合で引きずられるような味のない自由を生きたいとは望んでいないことを知っています。わたしは、皆さんが高いものを目指し、満ち満ちた意義を与えるような決定的な決断を目指していることを知っています。それとも、わたしは勘違いしていますか?もしわたしの思っている通りなら、ちょっと全員沈黙をしてみましょう。自分の心を見ましょう。そして一人ひとり、イエスに自分はその種をほしいと言いましょう。イエスにこう言いなさい、「イエスさま、こんなにも石があります、見てください。見てください、茨だらけです。雑草を見てください。でもあなたに差し出すこのほんの少しの土地を見てください。そこに種が落ちるように」。沈黙のうちにイエスの種が入るようにしましょう。(沈黙)。この時のことを覚えていなさい。一人ひとり入ってきた種に名前があり、その名前は何かを知っています。これが育つようにしなさい。神さまは皆さんを手塩にかけてくれます。

2.訓練の場としてのグランド。イエスはわたしたちが全生活をかけて自分に従うようにと求めています。わたしたちがその弟子となるように、「彼のチームでプレイをするように」求めています。ここにいる皆さんのほとんどはスポーツが好きなのではないかと思います。そして、ここブラジルでは、他の国々のように、サッカーは国民的な情熱のもとです。ところで、チームを組むために呼ばれた時、選手は一体何をするでしょうか?訓練をしなければなりません。たくさん特訓をするのです。そのように、わたしたちの主の弟子としての生活も同じです。聖パウロはわたしたちにこう言います。「競技をする人は皆、すべてに節制します。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、わたしたちは、朽ちない冠を得るために節制するのです」(Iコリ9章25節)。イエスはワールドカップよりももっと偉大な何かをわたしたちに差し出すのです!わたしたちに実りある幸せな人生の可能性を差し出し、また主との終わりのない未来、つまり永遠の命をも差し出します。けれど、「フォーメーションを組む」ために、恐れることなく人生のあらゆる状況に、自分の信仰の証しをしながら立ち向かうために、わたしたちが訓練をするようにと願っているのです。どのように?主との対話を通して。つまり祈りです。祈りは、いつもわたしたちに耳を傾けてくださる神さまとの日々のおしゃべりです。わたしたちの中でその現存を育て、わたしたちをキリストの姿にコンフィグレーションしていく秘跡を通して。耳を傾け、理解し、ゆるし、受け入れ、他者を助け、誰も疎外せず、除外せずすべての人を助けることを知っている兄弟愛を通して。愛する青年の皆さん、ほんものの「キリストのアスリート」になりなさい!

3.建設工事の場としての土地。わたしたちの心が、キリスト者として生きようとして、神の言葉を受け入れる良い土地である時、(しっかり訓練することで)「シャツが汗でびっしょりになる」とき、何か大きなことを経験します。わたしたちは決して一人ぼっちにはなりません。同じ道をめぐりゆく兄弟たちからなる一つの家族の一部を成すのです。わたしたちは教会の一部です。さらに、わたしたちは教会の建設者になります。歴史の主役になるのです。聖ペトロは、わたしたちは霊的な家を形作る生きた石であると言っています(Iペトロ2章5節)。そしてこのボックス席に目を向けると、石と煉瓦でできた教会の形をしているのが見受けられます。イエスの教会には、生きた石があります。わたしたちです。そしてイエスはわたしたちにご自分の教会を建てるようにと願います。そしてほんの小さなグループの人たちがはいれるような小聖堂のようにではありません。その教会は全人類が入ることができるほどにしっかり大きくあるようにと求めます。全員の家となるようにです。イエスはわたしに、あなたに、一人ひとりに言います。「行きなさい、すべての民を弟子にしなさい」。この夕刻、彼にこう答えましょう。「はい、わたしも生きた石でありたいです。わたしたちは一緒にイエスの教会を建設したいのです。一緒に言いましょう。「わたしは行って、キリストの教会の建設者になりたい」

 皆さんの若い心はより良い世界建設の望みを宿しています。わたしは、世界の様々な場所で(ここ、ブラジルにおいても)、実に多くの青年がより公正で兄弟愛に満ちた市民化の望みを表現するために道に出て行ったということに関するニュースを注意深く追ってきました。彼らは変化の主役になりたい青年たちです。わたしは、まとまった、平和裏な、責任のある、福音の価値によって動かされた形で、みなさんが無感覚を乗り越え、それぞれの国に現存する社会・政治的な不安にキリスト教的答えを差し出し続けていくようにと促します。しかしながら、問いが残ります。「どこから始めればいいのか?」マザー・テレサに教会で何が変わらなければならないかを尋ねた時、彼女は「あなたとわたしです」と答えました。

 愛する友の皆さん、忘れないでください。みなさんが信仰の土地であるということを。 皆さんはキリストのアスリートなのです。皆さんはより美しい教会とより良い世界の建設者なのです。わたしたちの眼差しをおとめマリアに向けましょう。マリアはわたしたちがイエスに従うのを助けてくれます。わたしたちに神への「はい」と言う返事をもった模範を示してくれます。「わたしは主のはしためです。お言葉どおりにこの身になりますように」(ルカ1章38節)。これをわたしたちも、マリアと共に神に言いましょう。「お言葉どおり我になれかし」、と。なれかし(アーメン)。

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