2013年3月30日土曜日

3月29日、ラニエロ・カンタラメッサによる聖金曜日の黙想:死は永遠への橋へと姿を変えた。

朗読個所  :  聖金曜日(主の受難) ※大斎・小斎
          イザヤ52・13~53・12
          ヘブライ4・14-16、5・7-9
          ヨハネ18・1~19・42:
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バチカン、3月29日17時20分(ACI/EWTNニュース)
 
今日の午後、サン・ピエトロ大聖堂で教皇フランシスコの司式により、主の受難の祭儀が執り行われた。聖座の説教者、ラニエロ・カンタラメッサ神父が黙想の担当であった。


教皇フランシスコ、主の受難の祭儀において。写真:News.va提供

ラニエロ・カンタラメッサ神父の説教全文をここで読むことができる。

 「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです」(ローマ3章23-26節)。

 信仰年の頂点、決定的な時に至りました。これこそが救いをもたらす信仰、「世に打ち勝つ信仰」(一ヨハネ5章5節)なのです!信仰は、わたしたちが自分のものとしていくものですが、キリストを通して実現した救いであり、その正義の上着でわたしたちは新たに覆われるのです。

 一方で、その恵みを人に差し出す神の手が伸びていますが、もう一方では、信仰を通してその恵みを迎えるために伸べられる人の手があります。「新しい永遠の契約」は神と人とが交わす強い握手によって刻印を押されています。

 この日に、わたしたちに永遠の扉を開くあの、人生で最も大切な決断を下す可能性があります。それは信じる、ということです!イエスが「わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられた」(ローマ4章25節)と信じることです!

 四世紀のある復活祭の説教で、ある司教が稀有にも現代的で存在的な次の言葉を発しました。「一人一人の人にとって、いのちの基本は、自分のためにいけにえとなったキリストから始まるのです。けれどキリストは恵みを認め、あの方によって探し求められたいのちについて意識をしたときに、その人のためのいけにえとなるのです」(387年の復活祭説教、SCh36,p.59s)。

 なんとすごいことでしょう!今年の聖金曜日は、信仰年に、ペトロの新しい後継者を前にして祝われていますが、これはもしわたしたちが望むなら、新しいいのちの始まりとなりうるのです。ポワティエの司教ヒラリウスは、歳をとってからキリスト教に改宗しましたが、自分の過去の人生を再考しながらこう言いました。「あなたを知る前には、わたしは存在していなかったのです」と。

 求められているのは、アダムのように過ちを犯した後に隠れないことのみです。義とされる必要性があることを認識し、自分で正当化をしないことです。

 譬え話の徴税人は神殿に上り、短い祈りをしました。「あぁ、神さま、罪びとのわたしをあわれんで下さい」と。そしてイエスはこの人こそが「義とされて」家に帰ったと言います。つまり、正しい者となった、ゆるされた、新しい被造物となった、ということです。きっとその心に喜びあふれる歌が生まれたでしょう(ルカ18章14節参照)。

 何かすごいことをしたのでしょうか?何もしていません。真理において神の前に身を置いただけです。そしてこれが神に必要な唯一の行為なのです。

 アルプスの岸壁を渡っている人が危険なところを乗り越えた後、息を整えるためにしばらく止まり、目の前に広がる新しいパノラマを堪能するように、ローマ人の手紙の第5章を始めるにあたり使徒パウロは同じようなことをします。信仰を通しての義化を告げた後の個所です。

 「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」(ローマ5章1-5節)。

 これらは、人工衛星から、地球の全地域と惑星全体の赤外線写真のことを考えるとまさにその通りだと言えます。上から見た、あの赤外線に照らされたパノラマは、わたしたちが自然の光で、その中にいながら見ているものと比べると、何と異なって見えることでしょう!

 世に出回った最初の衛星写真の一つを覚えています。シナイ半島全体を写したものでした。色もずいぶんと異なり、輪郭や高低差がよりはっきりとしていました。これはシンボルです。人間のいのちも、カルワリオの高みから、信仰の赤外線を当ててみると、「単純に見る」のとは違って見えるのです。

 旧約の知恵ある人は言いました。どれも同じように起こるのだ、善人にも悪人にも、と。「太陽の下、更にわたしは見た。裁きの座に悪が、正義の座に悪があるのを」(コヘレト3章16節、9章2節)。実際、いつの時代でも勝利に満ちた悪も、さげすまれた無垢も見受けられます。

 しかし、世に何か変わらず確かなものがあると信じないために、ここに、ボッスエットが、物事がしばしば反対に見える、と指摘します。つまり、玉座にある無垢と絞首台にある悪が見えるというのです。しかし、コヘレトはどう結んでいたのでしょうか?「わたしはこうつぶやいた。正義を行う人も悪人も神は裁かれる。すべての出来事、すべての行為には、定められた時がある」(コヘレト3章17節)と。改めて平和のうちに魂を落ち着かせる視点を見出したのです。

 コヘレトが知ることができず、しかしわたしたちが知っていることというのは、すでに与えられた次のような判断基準です。「(イエスは言った。)今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」(ヨハネ12章31-32節)。

 死んで復活されたキリストにおいて、世はその最終目的に到着しました。人類の発展はこんにちめまぐるしいリズムで進んでおり、人類はその発見の実りとして、新しく思いもよらなかった地平が広がっているのを目の当たりにしています。

 また、世(時代)の終わりが既に来たとも言えます。それは父の右にのぼられたキリストにおいて、人類はその最終目的に到達したからです。新しい天と新しい地というのはすでに始まっているのです。

 あらゆる悲惨や不正、地上にある醜悪な非道にも拘らず、キリストにおいてすでに世の決定的な秩序が始まったのです。わたしたちの目に映るものはわたしたちに正反対のことを思わせようとするでしょうが、悪と死は本当に永遠に打ち負かされたのです。

 その泉は枯渇したのです。現実というのは、イエスが世の主であるということにあります。彼によってなされた贖いによって悪は根本的に打ち負かされたのです。新しい世はすでに始まったのです。

 信仰の目をもってすると一番異なって見えることは何でしょうか?それは死です!キリストは暗い牢屋に入っていくように死に入っていきました。けれどそこからこれに対抗する壁を通って出てきたのです。ラザロが再び死ぬためにいのちに戻って来たのとは違い、来たところに戻ったのではないのです。

 誰にも二度と閉ざすことのできない命への突破口を開きました。そして誰もがその後に続くことができるのです。死はもはや人の希望をすべてつぶす壁ではないのです。永遠への橋へと姿を変えたのです。「溜息の橋」と言えるでしょう。それはおそらく誰も死ぬのを好まないからです。けれどもそれでも橋なのです。もはやあらゆることを飲み込んでしまう深淵ではないのです。

 「愛は死のように強」い、と雅歌が歌っています(8章6節)。キリストにおいては、愛は死よりも強いのです!

 「英国の教会の歴史」において、尊者ベーダはどのようにキリスト教の信仰が英国の北部に入って行ったかを語っています。ローマから来た宣教師たちが北ウンベルランドに到着した時、その地の王は新しいメッセージの伝播を認めるべきか否かを決めるために、高官たちによる顧問会を招集しました。

 そこにいた人たちには、好意を示した人もいましたし、反対するものもいました。冬でした。外には雪と吹雪。けれど部屋は輝き温かくなっていました。しばらくして、一羽の鳥が壁の穴から出てきて、おどろいたようにしばらく部屋のなかを飛び回り、その後反対側の壁の穴に入って見えなくなりました。

 そこでそこにいた人たちの一人が立ち上がり言いました。「あぁ、王様、この世でのわたしたちのいのちは、あの鳥のようなものです。どこから来たか分りませんが、短い間この世の光と温かさを味わって喜び、その後どこに行くか分らぬまま、また暗闇に消えていきます。もしこの人たちがわたしたちに、人生の神秘の何らかを示してくれるのなら、聞かなければならないでしょう」。

 キリスト教の信仰は、その介入の時になされたのと同じ理由で、わたしたちの大陸や世俗化した世に帰っていくことができるでしょう。人生の大きな問いや死に対して与える確かな答えをもっている唯一のものとして。

 十字架は信者と信者でない者の分け目です。なぜなら人によってはこれはスキャンダルかつ、ばかげたことであり、別の人にとっては神の力、神の知恵だからです(一コリント1章23-24節参照)。けれどより深い意味においては、これが信者も信者ではない者も、すべての人を一つにするのです。イエスは「国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死」ななければならなかったのです(ヨハネ11章51節以降)。新しい天と新しい地はすべての人の権利に属し、すべての人のためにあります。なぜならキリストはすべての人のために死んだからです。

 それらすべてから生まれる緊急の課題は、福音化することです。「一人の方がすべての人のために死んでくださった」ことを考えると「キリストの愛がわたしたちを駆り立て」るのです(二コリント5章14節)。わたしたちを福音化に駆り立てるのです!

 「今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです」(ローマ8章1-2節)というよい知らせをわたしたちは世に伝えます。

 ユダヤ人のフランツ・カフカの語りで、強い宗教的シンボルであり、新しい意味を持ち、ほぼ預言的で、聖金曜日に聞かれるものがあります。そのタイトルは「皇帝のメッセージ」です。一人の王の話です。王は死の床にあって、自分の側に側近を呼び、その耳に一つのメッセージを囁きます。

 そのメッセージはとても大切だったので、自分の耳元で復唱させます。その後でこの伝達者を送り出すために、去らせる仕草をします。けれど、実際の著者の口から、この著者特有の夢のような、ほぼ悪夢のような語り口で、この話がどう続くかを聞きましょう。

 「はじめに片方の手を広げ、続いてもう一方を広げると、まるで誰もいないかのように群衆の間に道が開く。しかし群衆は実に大勢である。その宿舎は無限である。もし彼の前に自由な野が広がるならば、飛んでいるにちがいない!打って変わって、その努力のなんと空しいことか。未だ宮廷内の寝室を通じて道が開きつつあるところで、決して出ていかないだろう。そしてこれをなし得たとしても、何の意味もないだろう。まだ階段を下りていくために努力しなければならないのだ。これをなし得たとしても、全く先に進んだことにならないだろう。中庭を渡らなければならないのだ。そして中庭を抜けると、これを囲む第二の宮殿。そして最後の扉をついに通り抜けても――そんなことは決して起こり得ないのだろうが――、まだ皇帝の街を通らなければならないのだ。そこは世の中心で、屑が山積みになっているのだ。その中にいれば、誰にもこれを通す道を開けることはできない。しかも死んだ者のメッセージのためなどもってのほかである。お前は、一方で、お前の窓際に座り、そのメッセージについて想像するのだ、夜の帳(とばり)が降りるときに」。

 死の床から、キリストは自分の教会に一つのメッセージを託しました。「全世界に行って、全ての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」(マルコ16章15節)と。この話のようにメッセージを持ったまま、知らないうちに窓際で立ちつくして夢描いている人がまだたくさんいます。ヨハネは、今聞いたばかりのところで、十字架にいたキリストの脇腹を兵士が貫いたと言います。「彼らは、自分たちの突き刺した者を見る」書いてある聖書の言葉が実現するためでした(ヨハネ19章37節参照)。

 黙示録では加えてこう言われています。「見よ、その方が雲に乗って来られる。すべての人の目が彼を仰ぎ見る、ことに、彼を突き刺した者どもは。地上の諸民族は皆、彼のために嘆き悲しむ」(黙示録1章7節)

 この預言は、もはや回心の時ではない、キリストの最終的な来臨を告げるものではありません。自分の立場から、民の福音化の現実を描写しているのです。これにおいて、救いをもたらす主の、神秘に満ちてはいるけれど本当の訪れの証言をしているのです。

 この訪れは絶望の叫びではなく、痛悔と慰めの声です。これこそキリストの貫かれた脇腹において実現されたとヨハネが見ている、預言的な文章の意味なのです。つまりゼカリアが12章10節で言っていることです。「わたしはダビデの家とエルサレムの住民に、憐れみと祈りの霊を注ぐ。彼らは、彼ら自らが刺し貫いた者であるわたしを見つめ、独り子を失ったように嘆き、初子の死を悲しむように悲しむ」。

 福音化の起源は神秘的なものです。キリストの十字架から、あの開かれた脇腹から、あの力、そのあの水からもたらされる賜物です。キリストの愛は、あの三位一体の愛のように、歴史的な表明であり、「diffusivum sui」なのです。つまり、おのずと広まろうとし、すべての造られたもの、「特にそのあわれみを最も必要としている人々」に届くのです。

 キリスト教の福音化は侵略ではありません。宣伝でもありません。神の、御子イエスにおける世のための賜物なのです。「頭(であるキリスト)」に、その心臓から体に向かって、最も遠くにいる部分までをも活かす命の流れを感じる喜びを与えることなのです。

 全力を尽くして、教会が、あのカフカが描写する複雑で一杯の城に決して姿を変えないようにしなければなりません。そうすればその歩みを始めた時と同じようにそこからメッセージが自由に幸せに出て行くことができるのです。

 伝達者をとどめうる妨害が何なのかをわたしたちは知っています。キリスト教の教会同士を分けているものから始まって、分け隔てる壁、過度の官僚制、儀式ばったところ、残骸となった過去の法律や矛盾などがあります。

 黙示録において、イエスは自分が門のところに立ち呼びかけていると言っています(黙示録3章20節参照)。しばしば、教皇フランシスコが指摘したように、中に入るためではなく、中から出ていくために呼びかけられるのです。「罪や苦しみ、不正や無知、宗教的無関心、あらゆる形の悲惨な状態といった、存在の中心から離れたところ」へと出ていくことです。

 古い建物に起こりやすいことが起こります。何世紀もたつと、時代の要望に合わせるために、仕切りや外付き階段、部屋や小部屋が増えていきます。気づいた時にはそうした適合のどれも、現実の要望に応えていないことに気づき、さらには、それが障害となっていることに気づくのです。そしてその時には、これを取り壊し、建物にその本来の単純さとすっきりとした線状をもたらす勇気を持つことが必要になるのです。

 これがサン・ダミアンの十字架の前で祈っていた一人の男がある日受けた使命でした。「フランシスコよ、行きなさい。わたしの教会を建て直しなさい」。

 「けれど、だれにそのような務めを果たすことができるのだろうか?」怖れをなした使徒は、世において「キリストの香り」になるという、超人間的な務めを前にして、自問自答しました。そしてここに、こんにちにおいても同じ価値をもった答えを聞きます。「何かわたしたち自身からくるものがわたしたちに権威を与えることができるのではなく、すでにわたしたちの能力は神から来ているのです」。

 神はわたしたちに新しい契約の奉仕者となるための能力を与え、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。なぜなら文字は殺し、霊は命を与えるからです(二コリ2章16節、3章5-6節参照)。

 聖霊が、この教会に新しく希望に満ちた時を始めているこの時に、メッセージを待って窓のそばにいる人々の中で、そしてメッセージを運ぶ人々の中で、そのメッセージを、命を賭けてでも伝える意志が目覚めますように。

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