2013年3月28日木曜日

自分の殻を出て他者との出会いに向かい、キリストに従おう。教皇の勧め。


バチカン3月27日9時38分(ACI/EWTNニュース)

何千もの信者を前にサンピエトロ広場で祝われた教皇の在位期間最初の謁見で、教皇フランシスコはカトリックの信者にとって聖週間を生きるとは何を意味するかについて黙想し、自分の殻を出て、同様に主を必要としている人との出会いに向かって行きながらこの道でイエスについて行くように励ました。

枝の主日の時と同様に、教皇は自分の殻を出て「存在の中心から外れたところにある」人々、兄弟、姉妹、慰めと助けを必要としている人々と出会う必要性を強調した。

「わたしたちにとって、この季節を生きるとはどういうことでしょうか?カルワリオに向かい、十字架に向かい、復活に向かう道でイエスに従うとは何を意味するのでしょうか?」と教皇は問いかけた。「それは、キリストのように生きる、よいお父さんあるいはよいお母さんのように生きるということを意味します」。神はただ待っているのではなく「わたしたちのところに来られた」のである。「彼はいつも初めの一歩を踏みます。彼がわたしたちに向かって動いてくれるのです」。

「それはわたしたち自身という殻を出て、他者との出会い、存在の中心から外れたところ、より遠くにいる人々、忘れらている人々、理解や慰めと助けを必要としている人々に向かっていくことです。この季節を生きるということはまた、神の論理、十字架の論理、福音の論理にさらに踏み込んでいくことをも意味します」。

キリストは「友の裏切り」までも体験して苦しんだ。けれども「わたしたちの間で」歩み続けるのである。「イエスには家がありませんでした。なぜなら彼の家は人々、わたしたちだからです」。

聖週間に、「人類の歴史をめぐる、この愛のデザインの最高潮を行きます。わたしたち一人一人が、イエスはわたしのため、わたしのために十字架でご自身をささげられたのだということができるのです」と教皇は力説した。

教皇は聖週間を「イエスに従いながら」「わたしたち自身という殻から出て、存在の中心から外れたところにある人々に向かっていきながら」生きるように勧告した。兄弟たちに向かって、特に「もっとも忘れられている人たち、助けと慰めの必要性が最も高い人たちに向かって」。

聖週間を生きるということは「十字架のダイナミックなエネルギーと愛のダイナミックなエネルギーに入っていくこと」、福音の論理に入っていくことなのである。

教皇は信仰を「マンネリ化し、疲れ切った形で」生きないように勧告し、「神のあわれみは救い、希望を与える」ことを思い出すよう招いた。

ある人はこう言うかもしれません。「『時間もないし、もうどうせ罪びとです』と。そしてわたしは愛徳の仕草と集中力の欠けた主日のミサで満足します。けれどわたしたち自身の殻から出ていく勇気がないのです」。

「神はいつもあわれみを持って物事を考えます。これを決して忘れないように」とフランシスコは言った。「神は息子の帰還を待っており、出会うために出かけていく父なのです。これがわたしたちのあわれみ深いお父さんなのです」と確認した。

「神はいつもサマリア人のように考えます。・・・決してよそ見をしません・・・異邦人であるか、サマリア人であるか、金持ちか、貧乏人かなど、何も問わずにいつも手助けをします。一切尋ねず、ただ、助けるのです」。

教皇は頼んだ。聖週間の間、「わたしたちの小教区やムーブメントを解放しなければなりません」。どんなに多くの小教区が閉ざされており、それがどれほど残念なことか!

いつも、神の愛と優しさをもって、尊敬と忍耐のうちに、わたしたちが自分の手や足、心を差し出すけれど、神さまこそがこれを導き、わたしたちの活動を実り豊かなものとしてくれることを知りながら殻から出ていくこと」を、と確認した。

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