2013年3月24日日曜日

3月24日、枝の主日のミサでの説教

朗読個所> 第一朗読:イザヤ50・4-7
        第二朗読:フィリピ2・6-11
        福音朗読:ルカ22・14~23・56 > http://www.pauline.or.jp/calendariocappella/cycleC/c_passion_sun.php#first



http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/francis/msg0007.htm 
↑が中央協議会からの翻訳です。こちらが正式です。

3月24日、バチカンラジオ


「こ の典礼集会は主の過ぎ越しの先触れです。それは四旬節の始めからわたしたちは償いと愛徳のわざをもって準備しているものです。」とフランシスコは枝の主日 の祭儀を始めるにあたり今日、「イエスはその死と復活の神秘を成就するためにエルサレムに入られる」ことを思い出しながら言った。

教 皇の説教の中心には三つのテーマがあった。喜び:「キリスト教徒の一員は決して哀しい存在であってはなりません。イエスと出会ったことから生まれる喜び を」。十字架:「神が悪に打ち勝った十字架です」。青年たち:「28年前から、枝の主日は青年の日なのです。若い皆さんは信仰の祭儀において重要な部分な のです」。その密な言葉において、教皇はさらに「主の復活に参与するため、十字架まで彼に従う恵みを願いながら、聖なる街への入場においてわたしたちの救 い主に、信仰と敬虔をもって」従うよう招いた。

この日を特徴づける、オリーブと棕櫚の葉を手にした伝統的な荘厳行列を太陽に照らされるサン・ピエトロ広場で、何千もの信者の参列を得て行った後、ローマ司教はミサを司式し、説教をした。





〈以下、説教全文〉

1.イエスはエルサレムに入ります。弟子たちの群れが祭りの盛り上がりをもってイエスと共に行きます。彼の前にマントが広げられ、イエスがした不思議なわざについて語られ、賛美の叫びがあがります。「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように。天には平和、いと高きところには栄光」(ルカ19章38節)と。

人々 の群れ、祭り、賛美、祝福、平和。喜びの雰囲気が胸に吸い込まれます。イエスは心に、特に乏しく、質素で、貧しく、忘れられた人たち、世の目に大したもの として映らない人々の心に大きな希望を目覚めさせます。彼は人の悲惨を理解することができ、神のあわれみの顔つきを示し、体と魂を癒すために身をかがめま した。そして今や聖なる街にはいられます。光と、喜びと、祭りに満ちた美しい場面です。

ミ サの初めに、わたしたちも同じことを再現しました。わたしたちは自分の手のひらや、オリーブの枝を揺すり、「主、イスラエルの王の名によって来られる方に 賛美!」(答唱)と歌いました。わたしたちも主を迎えました。わたしたちも主と共に歩む喜び、主がわたしたちの間で友だちのように、兄弟のように、またそ うでありつつ王のように、つまりわたしたちの人生の輝かしい松明のようにいてくださり、そうしてわたしたちに近しい方であると知る喜びを表現しました。

そ してここに、わたしたちに最初の言葉が来ます。喜びです。悲しい男、悲しい女にならないでください。キリスト者は決してそうあってはならないのです。決し て落胆に打ちのめされないようにしなさい。わたしたちの喜びはたくさんものを持つことから生まれるようなものではなく、ある人、つまりイエスに出会ったこ とから生まれるもの、イエスと共になら、困難な時においてさえ、さらには乗り越えられないように見える問題や障害を前に人生がつまずくときですら、わたし たちは決して孤独にならないと知ることから生まれるものです。あぁ、他にも本当にたくさん動機はあります! わたしたちはイエスと共に行きます。イエスに 従います。けれど何よりわたしたちは、彼がわたしたちと共に行き、その肩にわたしたちを背負ってくださることを知っています。ここにわたしたちの喜びがあ ります。ここにわたしたちのこの世において運ばなければならない希望があります。すべての人々に信仰の喜びを運びましょう。

2. けれども自問します。なぜイエスはエルサレムに入るのでしょう?あるいはこう聞いた方がいいかもしれません。どのようにしてイエスはエルサレムに入られる のでしょう?群衆はイエスを王として宣言します。そして彼はこれに反対もせず、黙らせもしません(ルカ19章39節‐40節参照)。けれど、イエスはどう いうタイプの王なのでしょうか?見てみましょう。ロバの子にまたがり、彼についてくる側近はおらず、権力のシンボルである軍隊に囲まれてもいません。彼を 迎えるのは乏しく質素な人々です。イエスは、権力があり支配する地上の王たちのために控えられた名誉を受けるために聖なる街に入るわけではありません。鞭 打たれ、暴言を吐かれ、ほほを平手打ちされるために入るのです。それは第一朗読でイザヤが告げることです(イザヤ50章6節)。茨の冠を受けるため、(錫 杖を手にする代わりに)葦の茎による打撃と、緋色のマントを受けるために入るのです。その王たるしるしは嘲笑の的となるでしょう。木材を背負ってカルワリ オへと昇っていくために入るのです。

そ して、そこで、二つ目の言葉を見ることになります。十字架です。イエスは十字架上で死ぬためにエルサレムに入ります。ダビデ王の選びを思い出しましょう。 神は一番強い人や一番勇気のある人を選ぶのではなく、一番最後尾の人、一番若い人、だれも勘定に入れなかった一人を選びます。これが語るのは、地上の権力 についてではありません。ピラトを前に、イエスは言います。「わたしは王」です」と。けれどその権威は神の権威で、世の悪、人のあるべき面持ちをゆがめる 罪に対するものです。イエスはみずから世の、またわたしたちの、悪や汚れ、罪を受け、これを洗いますが、その血によって、あわれみによって、神の愛によっ て洗います。わたしたちの周りにまなざしを向けましょう。悪が人類に課す傷のなんと多いことか!戦争、暴力、より弱い人の上に降りかかる経済対立の数々、 金銭欲、権威欲、汚職、分裂、人の命や被造物に対する犯罪……。そしてわたしたちの個人的な罪もあります。愛の欠如、神や隣人、全被造物への尊敬の欠如。 イエスは十字架上であらゆる悪の重みを感じ、神の愛の力によってこれを乗り越え、その復活においてこれを打ち滅ぼします。

親 愛なる友の皆さん、キリストと共にあるなら、善そのものである方と共にあるなら、みんな自分のうちにある悪、また世にある悪に打ち勝つことができるのです よ。弱いとか、ふさわしくないとか、能力がないとか感じているのでしょうか?けれど、神は力を振りかざす方法は求めません。悪に打ち勝った十字架によるの です。わたしたちに、暴力や汚職、不正や自分の罪に対して何もできないのだとはたみかける悪の言葉を信じてはなりません。絶対に悪に慣れ親しんではなりま せん。キリストと共にあれば、わたしたち自身と世を変容させることができるのです。すべての人々に、そしてどこにいても、キリストの十字架の勝利を、この 神の大いなる愛を運ばなければならないのです。そしてこのためにはわたしたちすべて、わたしたち自身の殻を出ていくのに、他者に向かっていくのに、恐れを 抱いてはなりません。

第 二朗読において、聖パウロはイエスが自分自身を自ら手放し、わたしたち人間の状況を身に受け、わたしたちと出会うために(神の懐から)出てきたと言ってい ます(フィリピ2章7節)。上にあるもの、神に目を向けることを学びましょう。けれど下にあるもの、他者、最後尾にある者に目を向けることをも学びましょ う。そして犠牲を恐れてはなりません。お母さんやお父さんのことを考えてください。どれほどの犠牲をささげていることか!けれど、なぜ犠牲するのでしょう か?愛のためです。ではどのようにこれに向き合うのでしょうか?喜びをもってです。けれど愛する人々のためだからです。キリストの十字架は、愛をもって抱 きしめられたものですが、悲しみではなく喜びへと導くのです。

3. この広場には多くの青年たちがいます。28年前から、枝の主日は青年の日です。そしてこれが三つ目の言葉になります。青年たち。愛する青年の皆さん、オ リーブの枝を揺すりながらイエスの周りでパーティーをしている姿をわたしは思い浮かべます。その名を口にし、主と共にいる喜びを表している姿をわたしは思 い描きます。皆さんは信仰の祭儀の重要な部分を占めているのです。わたしたちに信仰の喜びをもたらし、70歳、80歳になっても、いつでも、若い心で信仰 を生きなければならないと皆さんは告げます。キリストと共にあるならば人の心は決して歳をとりません。

け れど誰でもが知っているように、そして皆さんならよく分かっていると思いますが、わたしたちがついて行き、わたしたちと共に歩む王は、とても特別な王で す。彼は十字架に至るまで愛し、わたしたちに仕えること、愛することを教える王です。そして皆さんはその十字架を恥としません。さらに、自分にある賜物に こそまことの喜びがあり、神はまさに愛によって悪に打ち勝たれたということを理解したために、その十字架を抱きしめているのです。

皆 さんはあらゆる大陸を通り、世にある道という道をめぐって巡礼をする十字架を運んでいます。皆さんは今年のワールドユースデーのテーマである、イエスの 「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」(マタイ28章19節)という招きに応えてこの十字架を運んでいます。すべての人に、十字架 においてイエスは、人々や国と国を隔てる敵意の壁を打ち崩し、和解と平和をもたらしたと告げるために、この十字架を運んでいます。

愛 する友の皆さん、わたしも皆さんと共にこの道において、福者ヨハネパウロ二世とベネディクト16世の足跡の上に身を置きます。今や、キリストの十字架のこ の大巡礼の次なる段階に、もうわたしたちは近づいています。喜びをもって、リオ・デ・ジャネイロで迎える次の7月を楽しみにしています。ブラジルのあの大 都市で会う約束をします。よく準備してください。特にそれぞれの共同体において、霊的に準備して下さい。そうしてこの出会いの場が全世界にとって信仰のし るしとなるように。
青年の皆さん、世に語りなさい。イエスに従うことはいいことだ!イエスと共に歩くことはいいことだ!イエスのメッセージはいいことだ!イエスを運ぶために自分の殻を破って存在の中心から離れたところに向かって出ていくことはいいことだ!と。イエスの十字架を運びながら、愛をもって、常に若い精神をもってイエスと共に歩む喜び、イエスと共にいる喜びを生きようではありません か。

おとめマリアの取り次ぎを求めましょう。マリアはわたしたちにキリストと出会う喜び、十字架のもとで主を見つめることにおいて得られる愛、この聖週間において、またわたしたちの全人生を通じて主について行くための若き心の熱意を教えてくれるからです。アーメン。

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