2013年3月28日木曜日

3月28日、午前:聖香油ミサ説教

朗読個所 : 聖香油ミサ
       イザヤ61・1-3a、6a、8b‐9
        詩編89
       黙示録1・5-8
       ルカ4・16-21



こちら、中央協議会からの翻訳をどうぞ。http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/francis/msg0010.htm


親愛なる兄弟、姉妹の皆さん、

 ローマの司教として最初の聖香油ミサを喜びをもって祝います。みなさんに、特に今日、わたしのように、叙階の日を思い出している親愛なる司祭の皆さんに、愛を込めて挨拶します。

 朗読は「油注がれた者」についてわたしたちに語っています。イザヤ書における主(YHWH)の僕、ダビデ、わたしたちの主イエスです。この三人に共通なことがあります。それは彼らが仕える神の忠実な民に油を注ぐために彼らが受ける油注ぎです。その油注ぎは貧しい人たちのため、捕らわれた人々のため、虐げられている人々のため……です。この「だれかのためにある」聖なる香油のとても美しいイメージが詩篇に見られます。「かぐわしい油が頭に注がれ、ひげに滴り、衣の襟に垂れるアロンのひげに滴」(詩篇133編2節)るように、とあります。注がれた油がアロンのひげを伝ってその聖なる衣服の裾にまで滴っていくイメージは、司祭の受ける油注ぎがこの油注がれた者を通して、衣服の表象で示される世界のすみずみまで届くイメージなのです。

 大祭司の聖なる衣服は豊かなシンボルに満ちています。その一つは、現在のわたしたち司祭が着るカズラのもととなっている、エフォドと呼ばれる服の両肩を飾っていた、ラピス・ラズリの石に、右肩の石に6つ、左肩の石に6つ刻まれたイスラエルの子らの名前のイメージです(出エジプト記28章6―14節)。同じく、胸あてにはイスラエルの12族の名前が刻まれていました(出エジプト記28章21節)。これは、祭司は任された民をその肩に担ぎ、その心に彼らの名を刻みつけて運びゆきながら祭儀を執り行うことを意味しています。わたしたちの質素なカズラを着こむ時にも、両肩と心にわたしたちの忠実な民、わたしたちの聖人たち、わたしたちの殉教者たちの人生の重みとその顔ぶれをよく感じさせることができるでしょう。

 愛する兄弟の皆さん、ただの飾りでも服をかっこいいと感じることでもなく、活力を得て慰められた神の民における、輝かしいわたしたちの神の栄光の現存の美しさから出て、実践においてわたしたち自身を見据えることへと移ります。アロンの頭に注がれる高貴な油はその人に香りを与えるにとどまらず、たっぷり滴っていき、「中心から外れたところ」まで到達するのです。主ははっきりと言うでしょう。その油注ぎは貧しい人たちのため、捕らわれた人々のため、病気の人々のため、悲しい人々、さびしい人々のためである、と。油注ぎはわたしたち自身に香りをつけるためではなく、ましてやこれをビンのなかにとっておくためでもないのですよ。そんなことをしたら油が古くなって嫌なにおいを発し、心は苦々しくなります。

 よい司祭というのは、自分の民がどれほど油注ぎを受けて歩むかによって認められます。わたしたちに任せられた人々が喜びの油を注がれている時には、見て分ります。たとえば、よい知らせを受けた顔でミサから出た時です。わたしたちに任せられた人々は、油注ぎをもって語られた福音に感謝します。わたしたちが宣べ伝える福音がその日々の生活に届き、アロンの油のように現実の生活の縁まで降ってくるとき、限界の状況、忠実な民がその信仰を奪い取ろうとする(悪の力の)侵略にもっともさらされるような「中心から外れたところ」を照らす時、人々は感謝するのです。そのことをわたしたちに感謝するのは、その喜怒哀楽のある、悩みも希望もある彼らの日常生活の物事のことでわたしたちが祈ったことを感じるからです。そしてあの油注がれた方、キリストの香りが、わたしたちを通して届いたと感じるとき、あらゆることをわたしたちに任せ、それが主に届いてほしいと願う勇気が出るのです。「神父様、わたしのために祈ってください、こんな問題があるのです」「わたしを祝福して下さい」「わたしのために祈ってください」といった言葉は、油注ぎが衣の裾に達したことのしるしです。それは、願いへと姿を変えていっているからです。

 わたしたちがこのようにして神との関係、その民との関係にある時、そしてわたしたちを通して恵みが伝わる時、わたしたちは司祭であり、神と人々の間の仲介者であると言えるのです。指摘したいのは、いつでも、恵みを活性化させ、あらゆる祈りにこれを感じさせなければならない、ということです。ときには時宜にかなわない願いを持ってくるかもしれません。ときにはまったくもって物質的な願い、さらには平凡な願いかもしれません。けれど、それは見かけだけです。わたしたちは任せられた民の、香り高い油で油注ぎを受けたいという願いを活性化しなければならないのです。なぜなら人々は、わたしたちがその油を持っていると知っているからです。主が衣の裾を触った出血で苦しんでいた女性の、期待と苦悩の入り混じった気持ちを感じ取ったように、勘を働かせ、感じること。そのイエスの瞬間、あらゆるところからきて自分を取り囲んでくる人々のただ中に飛び込んでいた瞬間に、その服の上を伝っていく香油のついた祭司の服を着たアロンの美しさのすべてが受肉しているのです。それは出血で苦しんでいた女性の持つ信仰に満ちた目にのみ輝いて見える、隠れた美しさなのです。将来祭司となる弟子達すら、まだこれを見る器を備えておらず、理解できないのです。「存在の中心から外れたところ」では、息苦しくなるほどまでにあらゆるところから押し寄せてくる大群衆(ルカ8章42節参照)という表面的な姿しか見えないのです。一方、主はその衣の裾に神の油注ぎの力を感じ取られるのです。

 このようにわたしたちは、わたしたちの受けた油注ぎ、その力、そのあがないの効果を体験するために出ていかなければならないのです。「中心から外れたところ」すなわち、苦しみのあるところ、出血のあるところ、見たいと思いながら見えない状態のあるところ、ひどい上司のせいで捕らわれの身となっている人々のいるところへと。主と出会えるのはまさに、自分の内なる体験でもなく、内省の繰り返しにおいてでもありません。人生における自助研修会は役立つものですが、わたしたち司祭の生活においては、研修会から研修会へ、方法論から方法論へと渡り歩いて生きるようでは、わたしたちはペラギウス的になってしまい、これではわたしたち自身を差し出し、他者に福音を差し出すために信仰をもって出かけて行けばいくほど活性化し育っていくはずの恵みの力をどんどん弱めていってしまうのです。たとえ持っている油が少ないとしても、まったく何も持っていない人に与えれば、その恵みは活性化し育つのです。

 自分の殻から出ていくことの少ない司祭は、人に油を注ぐことも少ないものです。――「全くない」とは言わないのは、わたしたちに任せられた人たちは、ありがたいことにわたしたちの油を盗んでいってくれるからです。――こうしてわたしたちの民のもっともよいものを失います。しかしそれは司祭の心の最も奥の深みで活性化できるものなのです。自分自身の殻から出ない人は、仲介者になる代わりに、少しずつ金融の仲買人、司法書士に姿を変えていきます。誰でもこの違いが分るでしょう。金融の仲買人や司法書士は「すでに給料をもらえる」のです。そこでは自分の肌もさらさず心も賭けないので、心から生まれる愛情に満ちた感謝を受けることもありません。ここからまさに、なかには不満を持ち始める司祭がいて、悲しんで終わる、悲しい司祭になって終わることにつながってしまうのです。群れの間にいる羊飼い、「羊のにおい」のする羊飼い、人をすなどる漁師になる代わりに、一種の骨董品の収集家、あるいは新品の商品のコレクターになりさがってしまうのです。わたしは、これを切に願います。羊のにおいのする牧者になってください!それが人に気づかれるように!司祭のアイデンティティの危機と呼ばれているものがわたしたちすべてを脅かしており、これに文明化の危機が加わっていることは事実です。けれど、もし波のかわし方を知っていれば、主の名において沖に漕ぎ出し、網を打つことができるはずです。現実そのものがわたしたちをわたしたちのありのままの状態に導いてくれるのはよいことです。つまり‘わたしたちがわたしたちそのものであること’が恵みによって、ただただ恵みによって明らかにされ、油注ぎ(ウンツィオーネ)のみが――役職(フンツィオーネ)ではなく――意味をなすその実際の世の海原で自らをはっきりと表し、そしてわたしたちが信じたあの方、つまりイエスの名において投じられた網でのみ豊かな結果が得られるのだということを知るのはよいことなのです。

 信徒の皆さん、愛情と祈りをもって皆さんの司祭たちと共に歩んで下さい。彼らがいつも神の心に適った羊飼い(牧者)であることができるように。

 親愛なる司祭の皆さん、父なる神が皆さんのなかで、わたしたちが油注ぎを受けたその聖性の霊のはたらきを刷新してくださいますように。わたしたちの心のなかでこれを刷新し、それによってすべての人々に、わたしたちの忠実な民がこれを最も待ち望み価値を認めている場所、「中心から外れたところ」にも油注ぎが届きますように。わたしたちに任せられた人々がわたしたちに主の弟子の雰囲気を感じ取り、主の名をまとっていることを感じ取り、他のアイデンティティを探していないことを感じ取りますように。そしてわたしたちのことばと働きを通して、油注がれた方、イエスが皆さんにもたらすために来られたその喜びの油を受けることができますように。アーメン。

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