2013年3月22日金曜日

バチカン、教皇フランシスコの紋章と銘を紹介する:「あわれみを持って、選びつつ」



3月18日11時42分(ACI/EWTNニュース)

 ローマ聖庁の会見室長であるフェデリコ・ロンバルディ神父は、今朝記者集会で教皇フランシスコの紋章は本質的には大司教のときのものと同じで、その銘は「Miserando atque eligendo」で、翻訳するならば「それをあわれみをもって見、それを選んだ」あるいは「それを愛でながら選んだ」と訳せるだろう。

 基本的線において教皇フランシスコは司教叙階から保ってきた、特にその質素さで特徴づけられる紋章と同じものを保つことに決めた。

 青い盾は前任者ベネディクト16世によって選ばれた者と同じく使徒座の尊厳のシンボルによって戴冠されている。ミトラが中心にあり、これが交差する鍵によって高く挙げられる。鍵のうち一つは金色、もう一つは銀色で表現され、それは赤い縄(絵の下部)によって一つになっている。

 盾の上部には自分の属するイエズス会の紋章が表れる。ぎらつく太陽があり、その真ん中に赤い字でキリストの象徴文字であるIHSという文字が刻まれる。Hの文字の上に十字架が掲げられ、下端では三つの黒い釘がその基となっている。

 盾の下部には☆とナルドの花が見られる。星は、古代紋章学の伝統に従って聖母であるおとめマリア、キリストと教会の母を象徴する。一方、ナルドの花は着座式の行われる3月19日にその祭日を祝う、普遍教会の守護聖人である聖ヨゼフの人柄を思い出させる。

 スペインのイコン学の伝統においては、聖ヨゼフは手にナルドの花をもって描かれる。自分の盾にこれらの絵を据えることで、教皇は自らの聖母マリアと聖ヨゼフへの独自独特の信心を表現しようとした。


 教皇フランシスコの銘は尊者聖ベーダ司祭の説教(Hom.21;CCL122,149-151)から取られており、そこでは聖マタイの召命に関する福音のエピソードについてコメントされている。そこで書かれているのは次のことである。

 「Vidit ergo iesus publicanum et quia miserando atque eligendo vidit, ait illi Sequere me」という、次の個所を思い出させるものである。「イエスはマタイと呼ばれる一人の男を見た。彼は徴税の机の前に腰掛けていた。イエスは言った。『わたしに従いなさい』。彼を見たが、肉体的な目によると言うよりは、その愛の内なるまなざしをもって観たのである。イエスは徴税人を見たが、彼をあわれみをもって見つめ、彼を選びつつ(miserando atque eligendo)わたしに従いなさいとおおせられたのである。『わたしに従いなさい』が言わんとするのは『わたしのまねをしなさい』ということである。彼に『わたしに従いなさい』と言ったのだが、その歩み方、その働き方をもって従うようにと言ったのである。なぜなら、キリストの内にいつもいると述べる人は、彼が歩んだようにたゆまず歩まなければならないからである」。

 尊者聖ベーダ司祭の説教は、神のあわれみへの賛辞であり、聖マタイの祝日の時課に再編されて現れ、さらには教皇の人生において、またその霊的旅路において独特な意味をもってくるのである。

 1953年の聖マタイの祝日に、若きホルヘ・マリオ・ベルゴリオは、17歳にして、独特な仕方で、その人生における神の愛に満ちた現存を体験したのである。その後、ゆるしの秘跡を受けたのち、心において何か触れられた感覚を得、やさしい愛の眼差しをもって、ロヨラの聖イグナシオによって創立されたイエズス会における修道生活に招く神のあわれみが自分に降って来たのに気付いたのである。

 かつて、まだベルゴリオ卿であった頃に司教は、自分に深く刻まれたその時のことを思い出しながら、聖ベーダの表現「あわれみをもって、選びつつ」を銘として選ぶことを決め、これを自身の教皇の銘にも繰り返すことを望んだのである。

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