2013年3月21日木曜日

着座式の説教(3月19日)

朗読個所:第一朗読:サムエル下7・4-5a、12-14a、16、第二朗読:ローマ4・13、16-18、22、福音朗読:マタイ1・16、18-21、24a→ http://blogs.yahoo.co.jp/therese1897/31639640.html



(カトリック中央協議会の方から、すでに翻訳が出ていました。そちらが正式です。ご覧ください。
こちら→ http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/francis/msg0006.htm


親愛なる兄弟姉妹の皆さん。

おとめマリアの夫であり普遍教会の守護聖人である聖ヨゼフの祭日にペトロの奉仕職を始めるこの聖なるミサを祝うことができ、主に感謝しています。豊かで意義深いめぐりあわせで、わたしの前任者の霊名日でもあるのです。愛情と感謝に満ちた祈りを持って彼の心に寄り添います。
愛情をもって枢機卿たち、司祭たち、助祭たち、修道士、修道女、そして信徒の皆さんすべてに挨拶します。一緒にいてくださってありがとう。そして他の教会の代表者の皆さん、教会共同体の皆さん、そしてユダヤ教の大共同体、そして他の宗教の皆さん、ありがとう。
また世界じゅうの州や国家の元首の皆さん、勅使の皆さん、外交団の皆さんに心からご挨拶いたします。

福音で「ヨゼフは天使に言われたとおりに、おとめを受け入れた」(マタイ1章24節)と聞きました。この言葉にはすでに神がヨゼフに任せている使命、custos、庇護者となる使命が含まれています。庇護者、誰のでしょうか?マリアとイエスの庇護者です。けれどこの庇護は福者ヨハネパウロ二世が指摘しているように、教会にまで伸びていきます。「彼はマリアを愛を持って守ったように、イエス・キリストの教育のために喜びを持ってその努力をささげました。さらにはそのイエスの神秘体である教会、おとめマリアがその型であり模範である教会を守っています」(使徒的勧告『Redemptoris Custos1
ヨゼフはどのようにこの庇護を実践するのでしょうか?分別を持って、沈黙のうちに、けれど常にそこにいて、たとえ理解できない時でも忠誠を保ちながらです。マリアとの結婚からイエスが12歳でエルサレム神殿に上がったエピソードまで、彼は細心の注意を払い、また愛をもって寄り添います。
生活の落ち着いている時にも難しい時にも、妻であるマリアと共にいます。住民登録のためのベツレヘムへの旅行、緊張して震えをもたらすけれど喜びに満ちた出産の数時間、エジプトへの逃避の劇的な時、そして不安いっぱいで神殿で息子を探していたときに。それからナザレの家、イエスに職を教えた仕事場での日々の生活においてです。

ヨゼフは、どのようにそのマリアの庇護者、イエスの庇護者、教会の庇護者としての召命を生きているのでしょうか?継続的な神への傾聴、そのしるしへの開き、自分の計画よりも神の計画に応える心構えをもって生きます。そしてそれは第一朗読で聞いたように、ダビデ王に神が求めたことです。神が求められるのは人の手で建てられた家ではなく、神の言葉、神の計画への忠誠です。神ご自身が家を建てられるのですが、聖霊によってしるしを受けた生きた石によってこれをなさるのです。
そしてヨゼフが「庇護者」なのは、神に聞き従うことを知っているからです。彼は神のみ旨が導くままに任せ、まさにそれだからこそ、彼に委ねられた人々に対して最も感受性強く接するのです。出来事を現実的に読み取ることができ、周りのことに気がきき、より知恵の働いた決断をすることができるのです。
ヨゼフにおいて、親愛なる友の皆さん、神の呼びかけにどのように応えるべきかを見ることができます。それは、心構えと、迅速さです。けれど、同時にそこにキリスト教の召命の中心はどんなものかも見ることができるのです。それは、キリストです。わたしたちの人生においてキリストを守りましょう。そうして他の人を守り、被造物を保護しましょう。
けれど庇護すると言う召命は、わたしたちキリスト教徒だけに関することではなく、キリスト以前にさかのぼり、単純に人間的な、すべての人にふさわしい次元があるのです。被造物を庇護すること、被造物の美しさを庇護することです。それは創世記で言われることですし、アシジの聖フランシスコがわたしたちに示すものでもあります。神に作られたものすべて、またわたしたちが生活している環境に敬意を保つことです。
それは人々を庇護することでもあります。すべての人のことを配慮すること、愛をもって一人一人に、特にもっとも脆くしばしばわたしたちの心の片隅に追いやられてしまう子供たち、高齢者に気を配ることです。
それは家族において互いに配慮し合うことでもあります。夫婦が互いに守り合い、それに引き続いて、親として、子供たちの世話をし、さらに時間がたつと、子供たちもその両親の世話をする人になっていく、というようにです。
それは誠実に友情を生きることでもあります。信頼と尊敬、そして善良さにおいて互いに守り合うことです。深い所では、庇護は人に任せられているので、わたしたちすべてに影響を及ぼす責任問題なのです。みなさん、神の数ある賜物の庇護者となりなさい。

そして人がこの責任を裏切る時、被造物や兄弟姉妹の配慮をしない時、その時に破壊に支配され、心は荒みます。ひどいことに、歴史のどの時代にも死の計画を考えあぐねる「ヘロデ王」がいるもので、破壊し、人々の顔をゆがめています。
お願いですから、経済、政治、社会環境の責任者としての地位を占めている皆さん、そして良い心の持主である男女の皆さん、被造物、自然に書きこまれた神の計画の「庇護者」になりましょう。他者、環境のガードマンとなりましょう。破壊と死のしるしがわたしたちのこの世の歩みについてこないようにしましょう。
けれど「庇護する」ためには、わたしたち自身をも気にかけなければなりません。憎しみ、嫉妬、傲慢が人生を汚すことを思い出しましょう。庇護すると言うのは、目覚めて見張ることです。わたしたちの感情、わたしたちの心を見張ること、なぜならそこがよい意向も悪い意向も、建設するものも破壊するものも出てくるところだからです。善意をもつこと、さらにはやさしさをもつことに恐れを抱いてはなりません。
ですからここに最後の確認事項を加えます。気を配る、庇護するといったことには善意が必要で、やさしさをもって生きるよう頼まれています。福音において、聖ヨゼフは強く勇気ある男、働きものとして出てきますが、その魂からは大いなる優しさを感じ取ることができます。それは弱い人の徳ではなく、全く反対なのです。そこではやる気、傾聴能力、理解力、他者への本当の開きの能力、愛する能力が表れます。善意と優しさをもつことに恐れを抱いてはなりません。


今日、聖ヨゼフの祭りに当たり、ペトロの後継者である新しいローマ司教の奉仕職開始を祝いますが、彼も権威に携わるものです。当然、イエス・キリストはペトロに権威を授けましたが、それはどのような権威でしょうか?イエスがペトロにした愛に関する三回にわたる問いに続いて、三回にわたる招きがあります。わたしの子羊たちを牧しなさい、わたしの牝羊たちを牧しなさい、と。
本当の権威というのは奉仕にあることを絶対に忘れないようにしましょう。つまり教皇も、権威を行使するにあたり、十字架がその輝く頂点となるその奉仕の世界にますます深く入っていかなければならないのです。その目を、聖ヨゼフが持っていたようなつつましやかな奉仕、具体的な奉仕、信仰豊かな奉仕に向けなければなりません。聖ヨゼフのように、神の民すべてを庇護するために両腕を開き、全人類を愛情と優しさをもって受け入れなければなりません。特により貧しい人々、より弱い人々、より小さな人々に対してです。そのことについてマタイが愛徳について最後の審判のことを描写しています。飢えるもの、渇くもの、流れ者、服のない者、病人、刑務所にいる人への愛徳です(マタイ25章31-46節参照)。愛をもって奉仕する人だけが庇護することができる人です。

第二朗読において、聖パウロはアブラハムについて語っています。「希望するすべもなかった時に、なおも希望し、信じ」た(ローマ4章18節)と。希望するすべもない時に、希望したのです。
今日も、どんよりとした灰色の空を前に、希望の光を見出し、わたし自身が希望を与えなければなりません。被造物、一人一人の男性、一人一人の女性を、やさしさと愛に満ちたまなざしをもって庇護すると言うことは、こんなにも厚い雲のただ中で光の切れ間を開くこと、希望の熱を運ぶことなのです。
そして、信者にとって、わたしたちキリスト者にとっては、アブラハムのように、聖ヨゼフのように、わたしたちが抱く希望には神の地平があり、それはキリストにおいてわたしたちに開かれた地平で、神である岩を礎として成り立っているのです。

マリアと共にイエスを庇護すること、全被造物を庇護すること、すべての人々、特により貧しい人たちを庇護すること、わたしたち自身庇護し合うこと、ここにローマ司教が賭けていくようにと呼ばれている奉仕があります。けれど、それはわたしたちすべての人に呼びかけられていることで、希望の星を輝かせることなのです。愛をもって神がわたしたちに与えられたものを守りましょう。
おとめマリアと、聖ヨゼフ、使徒ペトロとパウロ、聖フランシスコの取り次ぎを願います。その取り次ぎによって聖霊がわたしの奉仕職と共にいて歩んで下さいますように。そして皆さんすべてに言います。わたしのために祈ってください。アーメン。

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