執拗に、そして神がわたしたちの祈りに耳を傾けてくださるとの確信をもって祈ること。パパは今日、聖マルタの家でのミサの説教中にこのテーマについて回想をした。祈りには、二つの態度がある。「必要」だから、そして同時に神さまがその時とその仕方をもって、必要性に耳を傾けてくれる、と言う事実に「確信をもって」いる。
祈りは、それが本当にキリスト者らしくあるならば、いつも含まれていることだけれど必要性と、正確にいつかは分らないにしてもきっと聞いてもらえるという確信との間を行ったり来たりします。それは、祈る人は神に厄介になるを恐れず、その父としての愛への盲目なほどまでの信頼を養うからです。今日の福音書の個所の、イエスの後ろで癒してもらいたいと自分たちの必要性を叫ぶ二人の盲人のように、盲目です。あるいは周りが黙らせようとしてもますます強い声で先生の介入を呼び求めるエリコの盲人のように。なぜなら同じイエスが真夜中に食べ物を求める「厄介な友人」あるいは「汚職の裁判官に対するやもめ」のように祈ることをわたしたちに教えてくださったからです。
「多分耳障りかもしれませんが、祈るということは、わたしたちに耳を傾けてもらうために、すこしばかり神さまに厄介になることです。けれど、主はこう言います。真夜中の友人のように、裁判官に対するやもめのように。・・・それは眼差しを弾きつけること、わたしたちに向かって神の心をひきつけることです。・・・そしてこれを、イエスに近づいたあのハンセン病患者たちはしたのです。「もし望んでくださるなら、あなたにはわたしたちをいやすことができます」。ある種の確実さをもって彼らはこれを行ったのです。そのように、イエスはわたしたちに祈ることを教えます。わたしたちが祈る時、善くこう考えます。『でも、そうです、これがわたしの必要性だと思います。同じことを、一回、二回、三回、と頼みますが、それほどの力強さはありません。その後で頼み疲れて、頼むのも忘れてしまいます。『彼らは叫び、叫び疲れることを知らなかった』。イエスはわたしたちに言います。「求めなさい」けれどこうもわたしたちに言っています。『扉のところから呼びかけなさい』、そして扉のところで呼び声を挙げる人というのは、騒ぎ、厄介をかけ、うんざりさせます」。
うんざりとなる限界までのしつこさです。けれど同時に、折れることのない確実さです。福音書の盲人たちはまだ一つの模範に過ぎません。「彼らは自分たちの健康を主に求めるにあたり、確信をもっています」。なぜなら彼らを自分が癒すことができると思うのかというイエスの問に対して、彼らは応えるからです。「はい!主よ!信じます!わたしたちは確かに信じます!」
「そして祈りにはこの二つの態度があると言えます。必要であることと確かであることです。いつも祈りと言うのは必要です。祈りは、わたしたちが何かを求める時、必要です。「この必要性があります。主よ、わたしに耳を傾けてください』。けれど同時に、それが本物である時、それは確実になります。「聞いてください!わたしはあなたがそれをできると信じています、あなたが約束してくださったからです」と。
「主はそれを約束してくださった」。ここに、祈りの確かさに支えを置く要石があります。「この確実さをもって、主にわたしたちの必要性について言っていましたが、彼はそれができるのだという確信をもちながらです」。祈るというのは、二人の盲人たちにしたイエスの質問、「あなたはわたしにこれができると思うのか?」をもってイエスから問い掛けられていると感じることです。
「彼にはこれができます。いつするのか、どうやってするのかは私達には与り知れぬことです。これが祈りの確実さです。主に、真理をもってこれを語る必要があります。「わたしは目が見えません、主よ。わたしにはこんな必要性があります。わたしにはこんな病気があります。わたしにはこんな罪があります。わたしにはこんな痛みがあります」。けれど、いつも真理、です。物事と言うのはそのようなものです。そして彼は必要性を感じますが、確かに介入してくださることを望んでいると感じるのです。わたしたちの祈りは必要か、確かかを考えましょう。必要、というのはわたしたち自身に真理を述べることになるからで、確か、というのは主はわたしたちが求めることを成すことができるからです。
(RC-RV)
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