2013年12月17日火曜日

12月13日(金)、朝ミサ説教:説教からもたらされる解放は教会を育てる


 説教者に対するアレルギー体質をもったキリスト者たちはいつも何か批判しますが、実際には聖霊に対して扉を開くのを恐れ、悲嘆に暮れます。パパ・フランシスコはこの金曜日に聖マルタの家でささげたミサの中でこう語った。

 当日の福音で、イエスはその頃の世代を「幸せに遊ぶことをすらず、音楽があても踊らず、嘆きの歌を歌っても泣かない。・・・いいものは何もない、と他の人の招きをいつも拒む」いつも不満な青年たちと比較しています。教皇は説明して語った。「あの人たちは神の言葉に対して開かれていなかったのです」。その拒絶は「メッセージへの拒絶ではなく、メッセージを語る人に対するものです」。「食べも飲みもしない」洗礼者ヨハネを拒みながら、「彼は悪魔に取りつかれている」と言います。イエスは「大食漢で大酒のみだ、徴税人や罪びとたちの友達だ」と言われているのでこれを拒みます。いつも説教者を批判するきっかけを見つけます

 「そしてあの時代の彼らは、一番手の込んだ宗教に逃げ込むことの方を好みました。ファリサイ派のように道徳観念に逃げ込み、サドカイ派のように政治的献身に逃げ込み、熱心党(ゼーローテース)のように社会革命に逃げ込み、エッセネ派のようにグノーシス的霊性に逃げ込みました。善くきれいに整えられ、よくできたシステムに。けれど説教者に対しては、ノー、でした。イエスも彼らに思い出させています。『あなたたちの父祖たちは預言者たちに対して同じことをした』と。神の民にはみ言葉の説教者にたいしてある種のアレルギーがあります。預言者たちに対しては、これを迫害し、殺害してきました。

 ローマ司教は続けた。「こうした人々は啓示の真理を受け入れるとは言いますが、説教者や説教は受け入れません。受肉のない自分の概念、自分の献身、自分の革命的計画、自分の霊性という檻の中に留まる生活の方を好むのです」。それは説教者たちが語ることに対していつも不満を覚えているキリスト者たちです。

 「こうしたキリスト者たちは閉鎖的です。檻の中にいます。悲しいキリスト者たちです。・・・自由ではありません。なぜでしょう?なぜなら説教を通して訪れる聖霊の自由を恐れているからです。そしてこれは聖パウロが語っていた説教のつまずき(スキャンダル)なのです。説教のつまずきですが、十字架のつまずきに終わるものです。神さまが限界のある人々、罪ある人々を通してわたしたちに語るということがつまづきになるのです。スキャンダルになるのです!自称神の子という男を通して神がわたしたちに語り、わたしたちを救うと言われるにあたってはもっとスキャンダルとし、これを有罪判決にして終るのです。そのことがスキャンダルになるのです」。

 フランシスコは確言した。「こうした悲しいキリスト者たちは聖霊を信じません。あなたに忠告し、あなたを教え、あなたにビンタを張ることもある、説教からもたらされるあの自由を信じないのです。けれどまさにその自由こそが教会を育てるものなのです」。

 「踊ったり泣いたりするのを怖がり、どんなことも怖がり、どんなことにも安定を求めるその人々を見ながら、真理について説教する説教者たちをいつも批判するそうした悲しいキリスト者たちのことを考えます。なぜなら聖霊に対して扉を開くのを怖がっているからです。彼らのために祈りましょう。そしてわたしたちのためにも祈りましょう、説教のつまずきを通してわたしたちにもたらされる自由、聖霊を取り除いて悲しいキリスト者になってしまわないように。
(RC-RV)

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