30日の午後、サン・ピエトロ大聖堂は改めて伝統となったローマの諸大学の学生たちとの待降節の集いを行った。
パパの説教全文
今日、改めてローマの諸大学の学生たち、それに加えてローマとイタリアのアテネオの学長の皆さん、教授の皆さんとの待降節の集いを行います。助任枢機卿、司教団、市長、大学や専門学校の権威者の皆さん、霊的指導と学生グループの指導に当たっている皆さんに心をこめて挨拶します。そして特に、愛する大学生の皆さんに特別に挨拶します。
聖パウロがテサロニケのキリスト者たちに言葉をかけたのは、神さまが彼らを完成まで聖なるものとしてくださるようにという望みからでした。その望みは一方ではその聖性が気にかかっていたですが、もう一方では神の介入への大いなる信頼でした。この使徒の気がかりは、わたしたち、こんにちのキリスト者にも意味をもちます。神さまが人々の中で果たすキリスト者の生活の満たしは、いつも世俗精神に流される誘惑にさらされています。だから神さまはわたしたちにその助けを下さり、それによって聖霊の様々な賜物、聖霊がわたしたちにこれまで下さった賜物、わたしたちに下さる阿多tらしい後、わたしたちの存在と精神、魂と体全体を保つことができるのです。非の打ちどころのないもの、このうえなく完全なものに保たれるのです。けれど、なぜ神様は、霊的な宝をわたしたちに下さった後で、これを完全に保つためにまたもや介入しなければならないのでしょうか?これこそがわたしたちが立てなければならない問いです。なぜならわたしたちは弱いからです。善く分っています。わたしたちの人間本性はもろく、神さまの賜物は「土の器」(IIコリ4章7節参照)のようなわたしたちに中で保たれているのです。そのような弱さなのです。
最後の時まで、イエスとの決定的な出会いまでのわたしたちの忍耐ある継続に味方する神さまの介入は、神さまの忠実さの表現です。それは、わたしたちの弱さと神さまの誠実さの間でなされる対話のようなものです。神さまは強い忠実さをもっています。そしてパウロは自分が弱い時にこそ強いというでしょう。なぜでしょうか?なぜなら神さまのあの忠実さとの対話、神さまの忠実さはけっして失望させないからです。神さまは何よりもまず自分自身に忠実です。だからその呼びかけをもってわたしたちの中で始められた働きを、その完成まで導きます。このことはわたしたちに安心と大いなる信頼をもたらします。神さまによりかかりる信頼で、今という瞬間の挑戦を前に活発で勇気あるわたしたち協力を求めます。
愛する大学生の青年の皆さん、よくご存じのとおり、挑戦を見ず、これに応えずに生きることはできません。挑戦から目をそらす人、挑戦に応えない人は、生きないのです。洗礼の日から皆さん一人ひとりの中にス回る聖霊の力と一つになった皆さんの意志と皆さんの能力は、傍観者ではなく、現代の出来事の主人公になるようにしてくれるのです。お願いですから人生をベランダから眺めてばかりいないようにしてください。挑戦があるところにいつもいてください。挑戦は皆さんが人生や人間の尊厳を支える発展と努力を前に進めるのを助けます。価値観のための努力と、日々立ち向かわなければならない様々な努力を。
みなさん、大学生の青年たちの皆さんが内なる力と福音の大胆さをもって立ち向かうように呼ばれている挑戦は多種多様です。力と大胆さ。皆さんがはめ込まれている社会文化的文脈は、しばしば凡庸でつまらないことでいっぱいです。日々の生活の単調さにかまけず、胸を拡げて呼吸をできるプロジェクトを培い、普通のことを越えていくことです!青年としての熱意を奪われないようにしてください!弱く画一的な考え方に捉われてしまうのも誤りです。その考え方は公認のものとして理解されるグローバル化を公認します。こうした危険を乗り越えるために、見習わなければならないモデルはどの特徴も慣らされどの違いも消えていくような球体ではありません。その代わりのモデルは様々な要素の多様性を含み、多様性における一致を尊重する多面体なのです。一致を守ることで、多様性をも守ります。そうでなければその一致は人間的ではなくなります。考えや行動が多産的であるのは、それが開かれた考えの表現であり、真善美によっていつも照らされながら識別をする時です。もし主流の意見に条件づけられないならば、キリスト者としての倫理的宗教的基本に忠実であるならば、流れに逆らって行く勇気にも出会うでしょう。グローバル化された世界において、独特であること、独自の性質をもつことを救うことに貢献します。倫理レベルを下げないようにしながら。実際、考えの多様性と個人主義の多様性は誠実さと知的努力をもって真理にその支えをもつ時、多様性や美に近づく時神の多様な知恵を反映することになり、一人ひとりがすべての人の益となる賜物になりえるのです。
信仰において歩み、福音の言っている通りに振舞う努力がこの待降節に皆さんと共にありますように。そうして皆さんが主の誕生の記念を本物の仕方で生きることができますように。福者ピエール・ジオルジオ・フラッサーティの美しい証しはいい助けになるでしょう。彼は皆さんのような一人の大学生でしたが、こう言っていました。「信仰なく、世襲財産なく、真理のための戦いを支えること生きるということは、生きるとは言わず、引きずっていく、と言うのです。…わたしたちは引きずっていくのではなく、生きなければならないのです」(I.ボニーニへの手紙, 27. II. 1925)。
ありがとう。そしてベツレヘムへのよい旅路を!
信仰において歩み、福音の言っている通りに振舞う努力がこの待降節に皆さんと共にありますように。そうして皆さんが主の誕生の記念を本物の仕方で生きることができますように。福者ピエール・ジオルジオ・フラッサーティの美しい証しはいい助けになるでしょう。彼は皆さんのような一人の大学生でしたが、こう言っていました。「信仰なく、世襲財産なく、真理のための戦いを支えること生きるということは、生きるとは言わず、引きずっていく、と言うのです。…わたしたちは引きずっていくのではなく、生きなければならないのです」(I.ボニーニへの手紙, 27. II. 1925)。
ありがとう。そしてベツレヘムへのよい旅路を!
(Traducción de Cecilia de Malak y Griselda Mutual)
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