2013年12月26日木曜日
12月25日(水)、『Urbi et Orbi(ローマと全世界へ)』のメッセージ:平和の願いを自分たちのものにしましょう
12月25日水曜日の正午きっかりに、ローマ司教はサン・ピエトロ大聖堂の中央バルコニー(祝福のバルコニーとして知られているところ)から首を出し、全世界に向けて挨拶をし、祝福をした。「今日、救い主、メシアである主がお生まれになりました」とフランシスコは宣言した。「ベツレヘムの幼子の前を何もせずに通り過ぎることのないようにしましょう。わたしたちの心が動かされ、神の温もりによって燃え立たせてもらえますように。わたしたちはその愛に満ちた可愛がる行為を必要としているのです。神の愛は偉大です。神に世々にいたるまで栄光があるように」。地球という惑星の様々なところでの実際の対立を思い返しながら、パパは神がわたしたちの平和であることを強く訴えた。「わたしたちの生活において、わたしたちの家族において、わたしたちの町の中で、国の中で、全世界でその平和を日々建設するのにわたしたちを助けてくださるように願いましょう。神の善意によって感動させられるようにしましょう」。すべての人に幸せな降誕祭を願いながら、教皇は、わたしたちのためにこの世に来られたイエスが、病気や苦悩の試練の時を過ごしている人々を慰め、より窮乏にある兄弟たちのための奉仕を捧げている人々を支えてくださるようにと祈った。
パパ・フランシスコによるUrbi et Orbi(ローマと全世界へ)のメッセージ全文
「天のいと高き所には神に栄光
地には平和、神が愛する人々に」(ルカ2章14節)。
ローマと全世界の愛する兄弟姉妹の皆さん、降誕祭おめでとう!
降誕の夜にベツレヘムの羊飼いたちに現われた天使たちの歌のことばをわたしのものとします。天に賛美と栄光をささげ、人々のいる地に平和の望みをもってあいさつをします。
この歌を自分のものとするように、皆さん全員を招きます。これは夜の間目覚めている男女一人ひとりの歌です。よりよい世界を待ち望む人、他者のことを心配し謙虚に自分のなすべきことをしようと努める人、一人ひとりの歌です。
神に栄光。
降誕祭はまずこのことにわたしたちを招きます。神に栄光を捧げることです。なぜなら神は良い方、忠実な方、あわれみ深い方だからです。この日、わたしの願いはすべての人が神の本当の顔つきを知ることができるように、というものです。その神はわたしたちにイエスを下さったお父さんなのです。わたしは、すべての人が神を近くに感じ、その現存の中にいることを感じ、神を愛し、神を礼拝することができれば、と望んでいます。
そしてわたしたち全員が、特に、生き方をもって、神への愛と兄弟姉妹たちへの愛に捧げられた生き方をもって神に栄光を捧げますように。
人々に平和。
本当の平和は対立する力との平衡状態ではありません。喧嘩や分裂を隠すただの「見せかけ」ではありません。平和とは日々の献身です。神の賜物やイエス・キリストがわたしたちに下さった恵みを当てにしながら達成されるものです。
ベツレヘムの幼子を見ながら、戦争のもっとも傷つきやすい犠牲者である子どもたちのことを考えましょう。けれどまた、お年寄りやひどい扱いを受けている女性たち、病人などのことをも考えましょう。戦争はあまりに多くの命を滅茶苦茶にし、あまりに多くの苦しみを生み出しています!
最近シリアの対立ではあまりに、ひどく多くの命が滅茶苦茶にされ、憎しみと復讐を生み出しています。愛すべきシリアの民がこれ以上の苦しみから解放され、対立している人々が暴力に終止符を打ち、人道支援への通過口を保証するように、主に祈り続けましょう。祈りの力を確認することをしてきました。そして今日、異なる宗教的信仰告白をしている信者たちがシリアにおける平和のためにわたしたちの祈りと心を一つにしてくれていることは喜ばしいことです。祈りの力を決して失わないようにしましょう。神にこう言うための力です。主よ、シリアと全世界にあなたの平和をもたらしてください、と。
しばしば人々から忘れられている、中央アフリカ共和国に平和をもたらしてください。けれど主よ、あなたは誰のことをも忘れません。多くの人々が屋根も水も食べ物もなく、生存最低条件をも満たせずにいる、暴力と悲惨な状態のらせんによって苦悩を余儀なくされているあの地にも平和が支配することをあなたはお望みです。南スーダンにおける和平を確かなものとしてください。実際の緊張がすでに犠牲者を生み出し、この若い国での平和共生を脅かしているからです。
平和の王子(君)よ、武器を手放し、対話の歩みを始めるために互いに出会う場である、暴力的な人々の心を回心させてください。ナイジェリアを寝ずに見守ってください。無垢なものも無防備なものをも尊重しない暴力が続けられることでずたずたに引き裂かれています。世に来るために選ばれた地を祝福し、イスラエル人とパレスチナ人の間の平和交渉がよい結末を迎えられるようにしてください。まだ頻繁なテロによって鞭打たれている愛すべきイラクの地の傷をいやしてください。
いのちの主よ、あなたの名のせいで迫害に苦しむ人々を守ってください。移民や難民、特にアフリカの角(訳者注:アフリカ大陸東端のソマリア全域とエチオピアの一部などを占める半島。 ウィキペディアより)と、今後民主共和国の移民難民を励まし慰めてください。移民の皆さんが、尊厳ある生き方を探し求め、受容と援助を見出すことができるようにしてください。ランペドゥーサにおける数多くの死者を含め、今年見てきたような悲劇を新たに体験することがありませんように。
ベツレヘムの幼子よ、人身売買に携わっている人々の心に触れてください。この人類に対する犯罪の重大さに気付きますように。武力対立において誘拐された子どもたち、傷つけられた子どもたち、殺された子どもたち、そしてそのよう時期が奪われて強制的に兵隊にされる子どもたちにあなたの眼差しを向けてください。
天と地の主よ、わたしたちのいる惑星、地球をご覧ください。人々の貪欲と利己主義が無差別に搾取をしています。自然災害の犠牲者、特に最近の台風でひどい被害をこうむった愛するフィリピンの国に留まり、守ってください。
愛する兄弟姉妹の皆さん、この世において、この人類において、今日、救い主、メシア、主が生まれました。ベツレヘムの幼子の前を何もせずに通り過ぎることのないようにしましょう。わたしたちの心が動かされ、神の温もりによって燃え立たせてもらえますように。わたしたちはその愛に満ちた可愛がる行為を必要としているのです。神の愛は偉大です。神に世々にいたるまで栄光があるように。神はわたしたちの平和です。わたしたちの生活において、わたしたちの家族において、わたしたちの町の中で、国の中で、全世界でその平和を日々建設するのにわたしたちを助けてくださるように願いましょう。神の善意によって感動させられるようにしましょう。
パパ・フランシスコの降誕祭のあいさつ
全世界のあらゆるところからこの広場にやって来た愛する兄弟姉妹の皆さん、皆さん全員に、そしてソーシャル・コミュニケーションを通してわたしたちと一つになっている諸国の人々に、よいクリスマスを祈ります。この日、ベツレヘムの質素なほら穴から出る福音の希望に照らされて、皆さん全員に、子どもたちに、お年寄りに、青年たちに、家族に、貧しい人たちに、疎外されている人たちに、降誕祭の賜物である喜びと平和があるようにと願います。わたしたちのためにこの世に来られたイエスが、病気や苦悩の試練の時を過ごしている人々を慰め、より窮乏にある兄弟たちのための奉仕を捧げている人々を支えてくださいますように。(RC-RV)
12月24日(火)、降誕祭夜半のミサ:信徒としてのわたしたちのアイデンティティは約束の地に向かう巡礼者のアイデンティティ。主はこの歩みの歴史にいつも共にいてくださる
信徒でぎゅうぎゅうづめになったサン・ピエトロ大聖堂での火曜日の夜、パパ・フランシスコはその教皇職最初のクリスマスミサを執り行った。ローマ司教はその説教を、「闇の中を歩んでいた民は大いなる光を見た」(イザヤ9章1節)というイザヤの預言を引用しながら始めた。これはこの降誕祭の夜には特に感動的な個所である。パパは見解を述べた。「この個所がわたしたちの心を揺り動かすのは、わたしたちのありのままの現実を語っているからです。歩みの中にいる民、そしてわたしたちの回り、さらにはわたしたち自身の内側にも、闇があり、光があります。そして子の夜、暗闇の精神が世界を覆っている時に、わたしたちをびっくりさせ、驚かせるような出来事が更新されるのです。歩みのうちにいる民が大いなる光を見るのです。次のような神秘について回想するようにとわたしたちを招く光です。つまり、歩むことの神秘と見ることの神秘です」。
教皇はまさにわたしたちの信徒としてのアイデンティティについて回想した。「それは約束の地に向かう巡礼者のアイデンティティです。主はいつも子の歩みの歴史を共に歩んでくださいます。またわたしたちの個人的な歴史においても、輝かしい時と陰った時、光と影の時とが交互に訪れます。もし神と兄弟たちを愛するならば、わたしたちは光の内を歩むけれど、もしわたしたちの心が閉ざされ、驕りや嘘、自分の関心の探求が優位にあるなら、そこでわたしたちの内側でも外側でも闇が囲んでくるのです」。
「世に現われた恵みは、おとめマリアから生まれた、まことの神であり人である方、イエスでした」。フランシスコはこのように、さらにイエスがわたしたちの歩みの歴史を訪れ、わたしたちの歩みを分かち合ってくれたことについて触れつつ述べた。「イエスはわたしたちを暗闇から解放し、光を与えるために来られたのです。イエスにおいて恵みやあわれみ、御父の温もりが現れました。イエスは肉体をとられた愛なのです。羊飼いたちはこの「幕屋」を見た最初の人々でした。イエスの誕生の宣言を受け取った最初の人々だったのです。彼らは一番になりました、一番最後に追いやられた、疎外された人々だったからです。そして一番になったのは、あの夜、その群れの番をしながら、目覚めていたからです。この夜、福音の喜びを分かち合いましょう。神hわたしたちを愛しています。わたしたちをあまりに愛していて、その御子をわたしたちの兄弟として、わたしたちの闇に対する光としてくださるほどです。
フランシスコは全員に繰り返した。「恐れることはない。わたしたちの父はわたしたちに対して忍耐強く、わたしたちを愛し、約束の地への歩みにおける導き手としてイエスをわたしたちに下さいます。イエスは闇をうちはらう光です。イエスはわたしたちの平和なのです」。
(RC-RV)
12月20日(金)、朝ミサ説教:沈黙が希望の神秘を育んだ
わたしたちの神との出会いの神秘は宣伝を求めない沈黙のうちに理解されます。沈黙においてのみ人が神に対して果たしていく歩みの神秘が守られるのです。パパ・フランシスコは聖マルタの家で捧げられたミサの説教でこう確かめた。主が、わたしたちに「沈黙を愛する恵み」を下さるように。沈黙はあらゆる「宣伝」から離れて「守られる」ひつようがあるから。
救いの歴史において、賑やかな音楽でも輝かしい装飾でもなく、かげと沈黙こそが人に自らを示すために神が選んだ「場所」でした。「少しずつ、少しずつ見える形、肉体をとっていったその神秘の、すぐに消えゆく地の果てです」。教皇の回想は今日の福音によって勧められているお告げの場面に端を発した。特にそこでは天使がマリアに位と高き方の威力が「その影を覆う」と語る場面を成している聖書個所である。奥には、かげとほぼ同じ本質として、雲もある。その雲によって神はユダヤ人たちを砂漠で守って来たのである、と教皇は思い返した。
「主はいつも神秘を占め、神秘を覆ってきました。神秘を宣伝しませんでした。自分のことを宣伝するのはキリスト者らしくありません。神の神秘ではないのです。それは神秘の芝居です!そしてこのことはその御子を受ける時におとめマリアにここで起きたことなのです。マリアの処女でありながら母であることの神秘は隠されています。その一生の間、隠されていたのです。そしてマリアはそのことを知っていました。その神の影は、わたしたちの生活において、わたしたちの神秘、わたしたちの主との出会いの神秘、わたしたちの主との生活の歩みの神秘を見出す助けとなります」。
ローマ司教は語った。「わたしたち一人ひとり、わたしたちの心、わたしたちの魂の中で神秘的に、主がどのように働くかを知っています」。続けて言った。「では、雲とか、威力とかいったものは、どのようなものでしょう?わたしたちの神秘を覆うための聖霊のスタイルはどのようなものでしょう?」
「わたしたちのなか、わたしたちの生活におけるこの雲を、沈黙と呼びます。沈黙はまさにわたしたちの主との関係、わたしたちの生成、わたしたちの罪の神秘を覆うのです。この説明しえない神秘を覆うのです。けれどわたしたちの生活に沈黙がない場合、神秘は失われ、過ぎ去ります。沈黙をもって神秘を守ること!それこそが雲、それこそが神のわたしたちの対する威力、それこそが聖霊の力なのです」。
イエスの母は沈黙に関する完璧なモデル(イコン)です。その比類なき母となるお告げからカルワリオまでです。フランシスコは黙想して言った。「わたしは思います。マリアは何度沈黙を守り、その子との関係の神秘を守るために感じたことを言わずに来たことか、と」。もっとも惨い沈黙、「十字架のもとでの沈黙」まで。
「福音はわたしたちには何も語っていません。そうです。彼女は(十字架のもとで)一言も語らないのです。・・・マリアはもの静かな人でした。けれどその心の中には、主にどれほどのことを語ったことでしょう!『神さま、あなたはわたしにあの日、彼は偉大なものとなると言いました。あなたはわたしに、その父祖ダビデの冠を彼に与えたと言いました。いつまでもその王座は続く、と。けれど今、こんなことになってしまった』。おとめマリアは人でした!そしてきっと『うそだ!騙された!』と言いたかったかもしれません。ヨハネ・パウロ二世はこのことを、その時のおとめについて語るにあたり言っていました。けれどマリアは、沈黙をもって、理解できなかった神秘を覆いました。そしてこの沈黙をもって希望において育ち花開くことのできるこの神秘を残してくださったのです」。
2013年12月20日金曜日
12月19日(木)、朝ミサ説教:実りをもたらすあり方には謙遜が必要
「実りをもたらすあり方には謙遜が必要です」。パパ・フランシスコは聖マルタの家での木曜日の朝ミサでこう強調した。教皇は神の介入はわたしたちの人生の不妊の状態にまさり、この人生を実りをもたらすものにしてくださる、と語った。そのため教皇は、わたしたちを不毛にしてしまう傲慢の態度に対して警戒網を張った。
聖書では、何度も何度も、主が命の賜物を下さる不妊の女性たちに出会います。ローマ司教は、そのように当日の朗読個所についてコメントをしながらその説教を始めた。そして特に不妊の女性でありながら息子、ヨハネをいただいたエリザベトについて語る福音についてのコメントをした。「命を生み出すことの不能の状態から、命が訪れます」。そしてこれは、「不妊の女性に起きた出来事というよりも、生きる希望のなかった人たちに起きた出来事なのです」。
「主はこうした女性たちの人生の中に介入し、こう言います。『わたしには命を授けることができる』。預言者たちの中にも、砂漠のイメージ、涸れ果てた土地、気が育たず実がならず、何も生まれてこないような土地のイメージが存在しています。『しかし砂漠は森のようになる。―預言者たちは言う―大きくなり、花を付けるだろう』。けれど砂漠で花が咲くでしょうか?咲くのです。不妊の女性が命を産み出すでしょうか?産み出します。主のあの約束があるのです。わたしにはできる!という。わたしは渇いた状態から、あなたたちの渇いた状態から、命を、救いを育てることができるのだ!わたしは荒れた状態から実を付け育てることができるのだ!」
ローマ司教は語った。「そして救いはこれです。わたしたちを子を産み実りをもたらすことができる者にし、わたしたちにいのちをもたらす能力を与える神の介入です」。教皇は忠告して言った。「わたしたちは自分たちだけではこれはできません」。「しかしながら、何度もわたしたちを救うためのわたしたちの能力について考え、試してきたのです」
「わたしたちキリスト者も、そうですよ!たとえば、ペラギウス派について考えてみましょう。すべてのことは恵みです。わたしたちに救いをもたらすのは、神の介入なのです。わたしたちを聖性の歩みにおいて助けてくれるのは神の介入なのです。神だけがこれをできるのです。けれどわたしたちの側では、何をするのでしょう?一つ目:わたしたちの枯渇した状態、わたしたちの命を与えられない状態を認識すること。これを認識することです。二つ目:求めること。『主よ、わたしは実りをもたらせる者になりたいです。わたしはわたしの命がいのちをもたらし、わたしの信仰が実りをもたらし、前進し、他の人々にいのちを与えられるようになりたいのです』。『主よ、わたしにはいのちが育ちません。わたしにはできません。あなたにはできるのです。わたしは砂漠です。わたしにはできません。あなたにできるのです』」。
付けくわえて言った。「そしてこれこそが、まさにここ数日、クリスマス前の祈りになりえるでしょう。自分だけですべてできると思っているあの傲慢な人々がどのように罰を受けているか考えましょう」。パパはサウロの娘、ミカルについて触れた。「不妊ではない女性でした。けれど傲慢でした。そして神をたたえるとはどういうことなのか理解していませんでした。さらには、賛美というものをバカにしていました。そうして罰として不妊の女性にされたのです」。
「実りをもたらすあり方には謙遜が必要です。あの女性のように自分は正しいと思っていて、最後には悲劇に終わる人がどれほどいるでしょうか。主に『主よ、わたしは不妊です、わたしは砂漠です』と告げ、ここ数日、教会がわたしたちに祈るようにするあの美しい、『おぉ、ダビデの子よ、おぉ、主よ、おぉ、知識よ、今日、おぉ、エッサイの根よ、おぉ、インマヌエル、わたしたちに命を与えに来てください。わたしたちを救いに来てください。なぜならあなただけにそれができるからです。わたしだけではできないのです!』という答唱句を繰り返す謙遜です。この謙遜、砂漠の謙遜、いのちを生み出せずにいる魂の謙遜をもって、恵み、花を開かせる恵み、実りをもたらす恵み、いのちを生み出す恵みを受けましょう」。
2013年12月19日木曜日
2013年12月18日水曜日
12月17日(火)、朝ミサ説教:わたしたち一人ひとりが、神さまの名字
この火曜日、パパ・フランシスコの誕生日であったが、聖マルタの家で働く従業員が、教皇になってから住まいとしているその家の小聖堂でささげられたミサにいてくれるようにと望んだ。系図に関する福音個所は、イエスの親戚の名前に満ちているが、これをきっかけにパパはその説教の中で、愛情をこめてそこに参列していた従業員のうち幾人かの名前を挙げた。
神さまは決してわたしたちを一人ぼっちにしません。わたしたちといつだって共に歩んでくださるのです。とフランシスコは、イエスの系図を中心とした当日の福音個所について考えをめぐらし、わたしたちの生活のただ中におられる主の現存を際立たせた。
「だれかがこんなことを言っているのを聞いたことがあります。『この福音個所は電話帳みたいだ!』と。違いますよ~。別のものです。この福音個所は、純粋な歴史であり、とても大切な物語の筋を含んでいるのです。純粋な歴史であるのは、教皇聖レオが言っていたように、神さまがその息子を送ったということからです。そしてイエスは父、つまり神さまと本質を共有するのですが、母、つまり一人の女性とも本質を共有しているのです。そしてこれがあの母親の共有性なのです。神さまが歴史となったのです。神さまは自らを歴史にしたいと望まれたのです。わたしたちと共にいるのです。わたしたちと共に、歩みとなったのです」。
教皇は強調して言った。「楽園における最初の罪の後、神さまにはこのアイデアがありました。いつかわたしたちと共に歩みとなる、と。アブラハムを呼びました。リストの最初に名指されている人です。そして彼を呼ぶにあたって、歩むようにと招きました。一方アブラハムは、あの歩みを始めました。その後でイサク、ヤコブ、ユダと続きます。そうやって歴史においてこの歩みを進みます。神さまは、その民と共に歩むのです。神さまは歴史抜きでわたしたちを救いに来ることを望みませんでした。神さまはわたしたちと共に歴史を作り上げたいと望んだのです。聖性から罪へと続く歴史です。このリストには聖なる人々もいますが、罪びとたちもいるのです」。
「それもかなりハイレベルな罪びとたち、重大な罪をたくさんの課した人たちです。そして神さまはこの人たちと共に歴史を作り上げてきたのです。罪びとたちは、神さまが彼らのために考えていたことすべてには応えませんでした。ソロモンについて考えてみましょう。実に偉大で、実に賢い人でしたが、貧しく、何と呼んだらいいか分らないその場所で幕を閉じました。けれど神さまは彼と共にいたのです。これって素敵じゃありませんか?神さまはわたしたちと本質を共有してくださるのです。わたしたちと共に歴史を作ってくださるのです。もっとです。神さまが自分について誰かを言おうとするときには、『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』と。けれど神さまの名字は何でしょう?それはわたしたちです。わたしたち一人ひとりが神さまの名字なのです。神さまはわたしたちにあるわたしたちの名をとって、ご自分のものとされるのです。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、ペトロの神、マリエッタの神、アルモニーの神、マリサの神、シモネの神、すべての人の神である』、と! わたしたちから名字をとられます。神さまの名字はわたしたち一人ひとりなのです」。
「彼は、わたしたちの神さまですが、わたしたちと共に歴史となり、わたしたちの名をその名字とされました」。「わたしたちを通して歴史を書くに任せました」。「わたしたちは、恵みと罪のこの歴史を書いていきますが、神さまはそのすぐ後ろについてきてくれます」。「これが、そのような神様をもつことで実に多くの愛、実に多くの温もりをふるい起すのです」。
「その喜びはわたしたちと共にその命を分かち合うことでした。知恵の書が、主の歓喜は人の子らの間に、わたしたちと共にある、と言っています。降誕祭が押し迫るこの時期に、こう考えることは益となります。もし神さまがわたしたちと歴史を作られたのなら、もし神さんがわたしたちから自分のための名前をとったのなら、もし神さまがその神さまの歴史をわたしたちが書くに任せたのなら、せめて神さまがわたしたちの歴史を書くに任せようではありませんか。それが聖性というものなのです。『神さまがわたしたちの歴史を書くに任せること』。これがわたしたち全員にとっての降誕祭の望みです。主があなたに歴史を書き刻み、あなたが神さまがその歴史を書くに任せますように。なれかし(アーメン)。
2013年12月17日火曜日
12月16日(月)、朝ミサ説教:あなたの民に預言者が不足しませんように。
教会に預言が不足する時、神のいのちそのものが不足し、祭司中心主義がエプロンをかけます(威勢を張る)。今日、待降節第三月曜日の聖マルタの家で捧げられたミサでパパ・フランシスコはこう言った。
教皇はこの日の朗読個所についてコメントをしながらこう語った。「預言者は、神のことばを聴きとる人です。時を見極めることができ、未来へと向かう目標を立てられる人です。自分の中にこの三つの時を手にしています」:すなわち過去と現在と未来です」。
「過去:預言者(御言持)は約束を自覚しており、自分の心の中に神の約束があり、その約束は生き生きとしていて、それを思い起こし、繰り返します。その後で現在を見ます。その民を見つめ、持ちあがり、未来へ向かう道を続けるのを助ける人ことを言うための聖霊の力を感じています。預言者というのは三つの時の人です。過去の約束、現在の観想、未来への道を指し示すための勇気。そして主は、困難な時にも、民がやる気もなくし破壊されていたような時、神殿が無かった時、エルサレムが敵の抑圧下にあった時、民が自らのうちで『でも主よ、あなたがわたしたちにこのことを約束してくれたんですよ!それなのに今は、どうしたんですか?』と自問していたときに、預言者たちと共に、いつもその民を見守ってきました」。
ローマ司教は続けた。これこそ「十字架の足元にいたときに、おとめ(マリア)の心の中で起きたことなのです」。この時期、「預言者の介入が必要です。そして預言者というのは、必ずしもいつも歓迎されるとは限りません。頻繁に拒絶されています。イエス自身もファリサイ派の人々にこう言います。彼らの父祖たちは預言者たちを殺してきた、なぜなら耳触りのよくないことを言っていたからだ。彼らは真実を語り、約束を思い起こさせていたのです!」。フランシスコは見解を述べた。「そして神の民に預言が足りない時には、何かが足りません。主の命が足りないのです!」。「預言がない時には、力は適法性に陥ります」、適法主義が優位に立つのです。そのように、福音において祭司たちは、適法証明カードを提出するようにとイエスのもとに赴くのです。『何の権威によってこのようなことをするのか?わたしたちが神殿の管理人なのに!』と」。「彼らには預言が分りませんでした。約束を忘れてしまっていたのです!時のしるしを読むことを知らず、洞察のための眼差しをもたず、神の言葉に関することに耳を傾けもしませんでした。ただ権威だけしかなかったのです!。
「神の民に預言がない時、これが残す空間は聖職者主義で埋められます。イエスに問をふっかけるのは、まさにこの聖職者主義です。『何の権威によって、何の正当性をもってこのようなことをするのか?』と。そして前進する約束と希望の記憶は現在のみにしぼられます。過去でも、希望の未来でもなく。現在こそが適法なのです。もし適法ならば、前進します」。
「けれど適法主義が支配する時、神の言葉は存在せず、信じる神の民は、その心の中で泣きます。なぜなら主に出会うことがなく、預言が不足するからです。神さまがわたしたちに約束の記憶を思い起こさせるとき、そして希望をもってわたしたちを未来へと押し出す時、サムエルの母、ハンナが泣いていたように、民の多産性、神の力からもたらされる多産性を求めつつ泣きます。これこそが預言者です!これこそが洞察の眼差しを持った男、神のことばに耳を傾ける男なのです。
「主の降誕祭を準備するこの数日の祈りが次のようなものでありますように。『主よ、あなたの民に預言者が不足しませんように』。わたしたち洗礼を受けた者すべてが預言者なのです。『主よ、あなたの約束を忘れることがありませんように! 前進し飽きませんように! 扉を閉ざす適法性の内側に閉じこもりませんように! 主よ、あなたの民を聖職者主義から解放し、預言の精神によって助けてください』と」。
(RC-RV)
12月13日(金)、朝ミサ説教:説教からもたらされる解放は教会を育てる
説教者に対するアレルギー体質をもったキリスト者たちはいつも何か批判しますが、実際には聖霊に対して扉を開くのを恐れ、悲嘆に暮れます。パパ・フランシスコはこの金曜日に聖マルタの家でささげたミサの中でこう語った。
当日の福音で、イエスはその頃の世代を「幸せに遊ぶことをすらず、音楽があても踊らず、嘆きの歌を歌っても泣かない。・・・いいものは何もない、と他の人の招きをいつも拒む」いつも不満な青年たちと比較しています。教皇は説明して語った。「あの人たちは神の言葉に対して開かれていなかったのです」。その拒絶は「メッセージへの拒絶ではなく、メッセージを語る人に対するものです」。「食べも飲みもしない」洗礼者ヨハネを拒みながら、「彼は悪魔に取りつかれている」と言います。イエスは「大食漢で大酒のみだ、徴税人や罪びとたちの友達だ」と言われているのでこれを拒みます。いつも説教者を批判するきっかけを見つけます。
「そしてあの時代の彼らは、一番手の込んだ宗教に逃げ込むことの方を好みました。ファリサイ派のように道徳観念に逃げ込み、サドカイ派のように政治的献身に逃げ込み、熱心党(ゼーローテース)のように社会革命に逃げ込み、エッセネ派のようにグノーシス的霊性に逃げ込みました。善くきれいに整えられ、よくできたシステムに。けれど説教者に対しては、ノー、でした。イエスも彼らに思い出させています。『あなたたちの父祖たちは預言者たちに対して同じことをした』と。神の民にはみ言葉の説教者にたいしてある種のアレルギーがあります。預言者たちに対しては、これを迫害し、殺害してきました。
ローマ司教は続けた。「こうした人々は啓示の真理を受け入れるとは言いますが、説教者や説教は受け入れません。受肉のない自分の概念、自分の献身、自分の革命的計画、自分の霊性という檻の中に留まる生活の方を好むのです」。それは説教者たちが語ることに対していつも不満を覚えているキリスト者たちです。
「こうしたキリスト者たちは閉鎖的です。檻の中にいます。悲しいキリスト者たちです。・・・自由ではありません。なぜでしょう?なぜなら説教を通して訪れる聖霊の自由を恐れているからです。そしてこれは聖パウロが語っていた説教のつまずき(スキャンダル)なのです。説教のつまずきですが、十字架のつまずきに終わるものです。神さまが限界のある人々、罪ある人々を通してわたしたちに語るということがつまづきになるのです。スキャンダルになるのです!自称神の子という男を通して神がわたしたちに語り、わたしたちを救うと言われるにあたってはもっとスキャンダルとし、これを有罪判決にして終るのです。そのことがスキャンダルになるのです」。
フランシスコは確言した。「こうした悲しいキリスト者たちは聖霊を信じません。あなたに忠告し、あなたを教え、あなたにビンタを張ることもある、説教からもたらされるあの自由を信じないのです。けれどまさにその自由こそが教会を育てるものなのです」。
「踊ったり泣いたりするのを怖がり、どんなことも怖がり、どんなことにも安定を求めるその人々を見ながら、真理について説教する説教者たちをいつも批判するそうした悲しいキリスト者たちのことを考えます。なぜなら聖霊に対して扉を開くのを怖がっているからです。彼らのために祈りましょう。そしてわたしたちのためにも祈りましょう、説教のつまずきを通してわたしたちにもたらされる自由、聖霊を取り除いて悲しいキリスト者になってしまわないように。
(RC-RV)
2013年12月13日金曜日
(翻訳途中)12月12日(木)、大使たちに向けて:人身売買に対してしっかりとした制裁を。
「人間性に対する恥であり犯罪である」人身売買に対する深い拒絶と憂慮に加え、フランシスコは信者にも信者ではない人にも、社会と国の責任者たち全員に、人身売買のイナゴ(のように厄介な存在)に対抗する力を一つにしようと呼びかけた。聖庁をまえになされた17人の新大使たちへの心のこもった歓迎をもって、まず平和や対話、文化的、社会的、経済的関係を推進するため、まてさまざま異なる困難によって試練を受けている人々を救うために、前進させる数多くの率先性について、国際共同体に対してその最初の考えを向けた後で、パパはキリスト者はより窮乏にある人々のうちにイエス・キリストの顔ぶれを認めるのであることを思い返しつつ、彼がとても心配している犯罪である、人身売買のテーマと対峙した。
「今日、わたしは皆さんと共に、わたしがとても憂慮しており、実際に人間の尊厳を脅かしているテーマと対峙したいと望んでいます。それは人身売買のことです。これは奴隷状態の本当の姿であり、残念なことながら、ますます広まっており、最も発展した国までをも含め、あらゆる国々に影響しています。それは社会の中でもっとも傷つきやすい人々、たとえば女性たち、若い女のこたち、幼児男子、幼児女子たち、障碍をもっている人たち、極貧の人たち、家庭や社会の分裂状態から来ている人たちに影響しています。こうした人たちのうちに、キリスト者たちはイエス・キリストの顔をみとめます。というのは彼は最も小さい人々、最も窮乏にある人々と自分を同じものとみなしたからです。他の、宗教的信仰とは関係のはい方々は、共通の人間性の名において、その苦しみに対するあわれみを分かち合い、彼らを解放し、その傷の痛みを和らげるために献身しています」。
「人身売買は人類に対する犯罪です」とパパは繰り返し、そうしてこのような恥を打ち崩すために努力を一つにすることができ、またそうすべきであると指摘した。
「彼らが解放され、このおぞましい商売に終止符を打つことができるように、わたしたちは共に献身することができ、またそうすべきです。何百万人という、強制的な仕事、奴隷的仕事の犠牲者、肉体労働と性商売の目的での人身売買のことについて語られています。これらすべては、続けられてはならないのです。これは犠牲者たちの人権への重大な侵害であり、その尊厳への侮辱です。それはちょうど世界共同体にとっては崩壊そのものです。善意のすべての方々、宗教の信仰を表明する人も、そうでない人も、こうした女性たち、男性たち、子どもたちが、異なる目的でしばしば一度となく何度も物として、だまされ、暴力をふるわれ、売られ、最後には殺される、あるいはそうでなくても体と心、頭に傷を受け、最終的には捨てられ、見捨てられてしまうのを認めるわけにはいきません。恥を知らなければなりません。人身売買は人間性に対する犯罪です」。
犠牲者たちを解放し、このますます凶暴になり、個人的なものだけでなく、社会の価値観や基盤、そして国際安全や正義、特に経済や家庭構造、同じ社会生活といったものを脅かすこの犯罪を止めるために力を一つにしなければならないことを思い出させた後、教皇はさまざまな国内、及び国際的環境において良心の深い糾明のような、集中的な責任と緊急性の重要性を取り上げた。
「
«Se necesita una toma de responsabilidad común y una voluntad política más decida para lograr vencer en este frente. Responsabilidad hacia los que han caído víctimas de la trata de personas, para tutelar sus derechos, para asegurar su incolumidad y la de sus familiares, para impedir que los corruptos y los criminales eludan la justicia y tengan la última palabra sobre las personas. Una intervención legislativa adecuada en los países de origen, de tránsito y de llegada, también con el fin de facilitar la migración regular, puede reducir el problema.
Los gobiernos y la comunidad internacional, a quienes corresponde principalmente prevenir e impedir este fenómeno, no han dejado de tomar medidas en los distintos niveles para bloquearlo y para proteger y asistir a las víctimas de este crimen, a menudo vinculado con el comercio de drogas, de armas, al transporte de inmigrantes ilegales, a la mafia.
Desafortunadamente, no podemos negar que algunas veces, quedaron contagiados también operadores públicos y miembros de los contingentes que participan en misiones de mantenimiento de la paz. Pero para obtener buenos resultados, es necesario que la acción de contraste incida también en la cultura y la comunicación. Y en este nivel existe la necesidad de un profundo examen de conciencia: ¿cuántas veces, de hecho, toleramos que un ser humano sea considerado como un objeto, expuesto para vender un producto o para satisfacer deseos inmorales? La persona humana nunca debe ser comprada y vendida como una mercancía. Quien la utiliza y la explota, aunque sea indirectamente, se vuelve cómplice de este abuso».
Antes de concluir su intenso y denso discurso, el Santo Padre renovó su exhortación a la comunidad internacional:
«He querido compartir estas reflexiones con ustedes sobre una plaga social de nuestro tiempo, porque creo en el valor y la fuerza de un esfuerzo concertado para luchar contra ella. Por consiguiente, exhorto a la comunidad internacional para que llegue a un mayor acuerdo y eficacia en la estrategia contra la trata de personas, para que en todas las partes del mundo, los hombres y las mujeres nunca sean utilizados como un medio, sino que sean siempre respetados en su dignidad inviolable».
(CdM – RV)
12月12日(木)、朝ミサ説教:強くするために小さくなる。わたしが生きることができるために彼が死に向かうこと。
降誕祭に向けて準備をしながら、神に耳を傾けるために、少し沈黙を守るのは良いことです。そこで神は父のやさしさと母の優しさをもってわたしたちに語りかけます。これは今日、待降節第二木曜日に聖マルタの家での聖体祭儀を司式しながらパパ・フランシスコが語ったことの要約である。
イザヤ書の朗読からインスピレーションを受け、教皇は「主が何を言ったか」よりも「どのように言ったか」を強調した。神は子どもたちに対してお父さんやお母さんがするように語りかけるのだ、と。
「子どもが怖い夢を見て、泣きながら目を覚ますと、お父さん(パパ)はそこに行き、怖がらなくていいよ、怖がらなくていいよ、ここにいるよ、ほら、ここに、と言います。主はそのように語りかけます。『怖がらなくてよい、芋虫ヤコブ、幼虫イスラエル』と。主はこのような話しかけ方をするのです。近づいて行って・・・。子どもといるお父さんやお母さんを見ると、彼らは身をかがめて小さくなり、子どもの声で語り、子どもの仕草をするのが分ります。外から見る人は、ばかげたことだ!と考えるかもしれません。小さくなって、その場で、でしょう?なぜならママやパパの愛は、近づかずにはいられないからです。このことばを使います。子どもの世界にたどり着けるためにまさに小さくなるのです。そうです。もしママやパパが普段通りに語っても、子どもは同様に理解するでしょうが、親は子どもの語り方を取り入れたがるのです。近づき、子どもになる。そのように、しゅもなさります」。
ギリシャの神学者たちは、この神の態度をとても難しい言葉で説明しました。シュンカタバーシスということばです。つまり「わたしたちのうちの一人のようになるために下りてくる神の共存目的降下(へりくだり、謙遜)」と。
「そういうわけで、パパやママも子どもたちにすこしばからしいことを言うのです。「わたしの愛ちゃん、わたしのおもちゃちゃん」、とこれに似たような様々な言い回しで。主は言います。『芋虫ヤコブ、お前はわたしにとって芋虫のようだよ、小さな存在だけれど、お前のことが大好きだ』。これが神の言葉づかいなのです。父や母の愛の言葉づかいなのです。主のことば?そうです。何を言っているかを聴きましょう。けれど、どのように語っているかも見ましょう。そしてわたしたちは主がなさるそのことをしなければならないのです。言われたことを行い、それをその言い方どおりに行うのです。愛をもって、温もりをもって、この兄弟たちに対する共存目的降下(へりくだり、謙遜)をもって」。
エリヤの主との出会いを引用しながらフランシスコは説明した。「神さまは『やさしいそよ風』のよう、あるいは原文が語るように、『沈黙の音を成す糸』のような方です」。このように「主は愛独特のあの沈黙の音をもって近づくのです。大げさなことをせずに」。そして「わたし(たち)を強くするために自らを小さくします」彼はこの共降下(へりくだり)をもって、わたしが生きられるために死に向かうのです」。
「これが主の言葉づかいの音楽です。そして降誕祭に向けて準備をしているわたしたちは、その音楽に耳を傾けなければなりません。これに耳を傾けることは、わたしたちに役立ちます。ほんとうによいものです。ふつう、降誕祭は騒音だらけの祭りに見えますが、すこし沈黙を保ち、この愛の言葉、あれほどまでの近さのことば、こうした温もりのことばに耳を傾けることはよいことです。「あなたは芋虫のようだけれど、わたしはほんっとにあなたを愛していますよ」。このためです。そして沈黙に留まることです。序章が言っているように、待機中の、目覚めているこのときに」。
(RC-RV)
2013年12月12日木曜日
12月11日(水)、グアダルーペの聖母のメッセージはわたしのメッセージであり、教会のメッセージでもある。
パパのメッセージ全文:
全アメリカへのメッセージ。
明日は、全アメリカの守護者、グアダルーペのマリアの祭りです。この機会に、この大陸の兄弟姉妹に、テペヤックのおとめのことを考えながら挨拶したいと思います。
聖フアン・ディエゴに現われたときに、その面持ちはメスティーソ(訳者注:白人とインディオの混血)であり、その服は現地の人々の文化にあるシンボルで満ちていました。イエスの模範に倣い、マリアはその子らの近くにいる者となり、面倒見の良い母としてその歩みを共にし、地上のあらゆる民の一部を成すように呼ばれている神の民の喜びと希望、苦しみと悩みを分かち合います。
フアン・ディエゴのティルマ(訳者注:綿製のマントで、男性が合羽のように羽織る、前で結んだもの)におとめの像が現われたことは、抱擁のしるしでした。広大なアメリカの地の全住民、すでにそこにいた人々と、これから来ることになっていた人々すべてへのマリアの抱擁だったのです。
このマリアの抱擁は、いつもアメリカを特徴づけてきた道を示しました。つまり、様々に異なる民が共生できる地、母胎にいる時から高齢者になるまでのあらゆる局面における人の命を尊重できる地、民族と同様あらゆる時代の貧者や疎外された人々といった移民を受け入れることのできる地となる道です。アメリカは寛大な地です。
これがグアダルーペのマリアの持つメッセージです。そしてこれはわたしのメッセージでもあり、教会のメッセージでもあります。アメリカ大陸の全住民が、おとめマリアのように愛と温もりをもって開かれた両腕を保つようにと励まします。
全アメリカの愛する兄弟姉妹の皆さん全員のために願いをささげます。皆さんもわたしのために祈ってください。福音の喜びが皆さんの心の中にいつもありますように。主が皆さんを祝福し、マリアさまが皆さんと共に歩んでくださいますように。
2013年12月11日水曜日
12月9日(月)、朝ミサ説教:主と共に、いつも新しい平和の道を探し求めつつ
聖地と中東での分裂と敵意に終止符を打つように。これはパパ・フランシスコが聖マルタの家で今朝行った呼びかけである。今日は、ペトロの後継者との「教会的一致」の公的表明を機に、コプト・カトリック教会のアレクサンドリア大主教、イブラヒム・イサアク・シドラクの共同司式を仰いだ。パパは改めて不安定感と暴力を体験しているエジプトのキリスト者たちに自分の近さを示すとともに、中東全域における宗教的自由のための呼びかけを新たにした。
ローマ司教とアレクサンドリアの大主教は、教会的一致のしるしと中近東における平和のための祈りのうちに共に集った。今朝の聖マルタの家は改めて霊的に非常に濃厚な時間となった。説教の中で、教皇は、主の待望のうちに心を目覚めさせることについて語る第一朗読の預言者イザヤのことばをもう一度拾い上げながら、自分の考えをコプトの信者たちに向けた。
「
“El aliento a los descorazonados lo sentimos dirigido a cuantos en su amada tierra egipcia experimentan inseguridad y violencia, muchas veces con motivo de la fe cristiana. '¡Coraje: no teman!': he aquí las consolantes palabras que encuentran confirmación en la solidaridad fraterna. Estoy agradecido a Dios por este encuentro que me da la posibilidad de reforzar nuestra esperanza y la suya, porque es la misma”.
El Evangelio, prosiguió el Pontífice, presenta “a Cristo que vence las parálisis de la humanidad”. Por lo demás, observó, “las parálisis de las conciencias son contagiosas”. “Con la complicidad de las miserias de la historia y de nuestro pecado – agregó – pueden expandirse y entrar en las estructuras sociales y en las comunidades hasta bloquear a pueblos enteros”. Pero, constató el Papa, “el mandamiento de Cristo puede cambiar la situación: '¡Álzate y camina!'”:
“Recemos con confianza para que en Tierra Santa y en todo Oriente Medio la paz pueda volver siempre a alzarse de las pausas tan frecuentes y a veces dramáticas. En cambio, se detengan para siempre la enemistad y las divisiones. Que se retomen rápidamente las intenciones de paz a menudo paralizadas por intereses contrapuestos y oscuros. Que finalmente se den garantías reales de libertad religiosa a todos, junto al derecho para los cristianos de vivir con serenidad allí donde han nacido, en la patria que aman como ciudadanos desde hace dos mil años, para contribuir como siempre al bien de todos”.
Francisco recordó que Jesús experimentó con la Sagrada Familia la fuga y fue hospedado en la “tierra generosa” de Egipto, invocando al Señor para que “vele sobre los egipcios que buscan dignidad y seguridad por las calles del mundo”:
“Y vayamos siempre adelante, buscando al Señor, buscando nuevos caminos, nuevas vías para acercarnos al Señor. Y si fuese necesario abrir un hueco en el techo para acercarnos todos al Señor, que nuestra imaginación creativa de la caridad nos lleve a esto: a encontrar y a hacer caminos de encuentro, caminos de hermandad, caminos de paz”.
(RC-RV)
2013年12月10日火曜日
2013年12月9日月曜日
12月8日(日)、無原罪の聖母への祈り:「あなたはまさに美そのものです」
ローマの民に暖かく迎えられながら、パパ・フランシスコは、無原罪の聖マリアの祭日に、この午後、その前任者たちの巡礼に続いて、スペイン広場へと移動し、無原罪の御宿りをたたえる伝統行事を行った。車で移動したが、何千ものローマ市民によるあいさつと礼賛に伴われての道であった。教皇は、その道すがら、一般謁見におけるのと同様、何人かの子供たちにキスをした。また、スペイン広場で待っていた病人たちにも挨拶をした。無原罪の御宿りへの信心集会は、パパの手による献花をもって始められ、続いて教皇のマリアへの祈り、そしておとめの連願へと続いた。
以下、教皇の祈り「トータ・プルクラ(あなたはまさに美しい)」
聖なるおとめ、無原罪のおとめ、
我らが民の誇りであり
この町を守る注意深き保護者であるあなたに、
信頼と愛をもって向かいます。
あなたはまさに美そのものです、おぉ、マリア!
あなたには罪がありません。
我らすべてのうちに聖性への新たな望みを呼び覚まして下さい。
我らの言葉のうちに真理の輝きが光り、
我らのはたらきのうちに愛徳の歌がこだまし、
我らの体と心のうちに清さと貞潔が留まり、
我らの命のうちに福音の美しさすべてが現存するようにしてください。
あなたはまさに美そのものです、おぉ、マリア!
あなたのうちに神のみ言葉は肉となりました。
主の声への注意深い傾聴を保てるようにしてください。
貧者の叫びを前に、我らが無関心でないように、
病者や困窮にある人々の苦しみを前に、我らが気を散らしていないように、
老人の孤独と子どもたちのもろさが我らの心を動かすように、
あらゆる人の命がわれらによっていつも愛され大切にされるように。
あなたはまさに美そのものです、おぉ、マリア!
あなたのうちに神との幸せな命のまったき喜びがあります。
我らがこの地上での歩みの意義を見失わないようにしてください。
信仰の穏やかな光が我らの日々を照らし、
希望の慰めに満ちた力が我らの歩みを導き、
愛の伝染性の温もりが我らの心を励まし、
我らの眼差しすべてが、その、ほんとうの喜びのある神のうちに、しっかりと留まるように。
あなたはまさに美そのものです、おぉ、マリア!
我らの祈りに耳を傾け、我らの願いに応えてください。
あなたが我らのうちで、イエスの内にある神のあわれみ深い愛の美でありますように。
この神からの美が我らをも、我らの町、全世界をも守ってくださいますように。
アーメン。
(未翻訳)12月7日、人間の尊厳協会の代表者との会合で:より弱い人たちを切り捨てる効率主義社会で人権を再発見しよう
(RV).- Es necesario redescubrir el verdadero significado de la libertad y de la justicia, en una sociedad eficiente en la que existe quien quiere pisotear los derechos de los más débiles: los niños por nacer, los pobres, los ancianos, los enfermos. Es esto, en síntesis, lo que afirmó el Papa Francisco encontrando el sábado a una delegación del Instituto Dignitatis Humanae.
“El hombre es creado a imagen y semejanza de Dios” y por tanto posee “una dignidad originaria … que no se puede suprimir, indisponible a cualquier poder o ideología”. El Obispo de Roma partió de esta “verdad fundamental” para subrayar que “lamentablemente en nuestra época, rica de tantas conquistas y esperanzas, no faltan poderes y fuerzas que terminan por producir una cultura del descarte, que tiende a convertirse en mentalidad común”:
“Las victimas de esa cultura son precisamente los seres humanos más débiles y frágiles – los niños por nacer, los más pobres, los viejos enfermos, los inválidos graves… –, que corren el riesgo de ser ‘descartados’, expulsados por un engranaje que debe ser eficiente a todo precio. Este falso modelo de hombre y de sociedad actúa un ateísmo práctico negando de hecho la Palabra de Dios que dice: “hagamos el hombre a nuestra imagen, según nuestra semejanza” (cfr Gen 1,26)”.
En cambio -continuó el Santo Padre- si dejamos que la Palabra de Dios “ponga en discusión nuestras formas de pensar y de actuar, los criterios, las prioridades y las elecciones, entonces las cosas pueden cambiar”:
“La fuerza de esta Palabra pone límites a quien quiera volverse hegemónico prevaricando los derechos y la dignidad de los otros. Al mismo tiempo, dona esperanza y consolación a quien no es capaz de defenderse, a quien no dispone de medios intelectuales y prácticos para afirmar el valor del propio sufrimiento, de los propios derechos, de la propia vida”.
En la Doctrina social de la Iglesia -subrayó el Pontífice- “hay un fruto particularmente significativo del largo camino del Pueblo de Dios en la historia moderna y contemporánea: la defensa de la libertad religiosa, de la vida en todas sus fases, del derecho al trabajo y al trabajo decente, de la familia, de la educación”. “Son bienvenidas”, por tanto, todas las iniciativas que “pretenden ayudar a las personas, a las comunidades y a las instituciones a redescubrir la portada ética y social del principio de la dignidad humana, raíz de libertad y de justicia:
“Con tal fin es necesaria una obra de sensibilización y de formación, para que los fieles laicos, en cualquier condición, y especialmente aquellos que se comprometen en el campo político, sepan pensar según el Evangelio y la Doctrina social de la Iglesia y actuar coherentemente, dialogando y colaborando con cuantos, con sinceridad y honestidad intelectual, comparten, sino la fe, al menos una visión similar de hombre y de sociedad y sus consecuencias éticas. No son pocos los no cristianos y los no creyentes convencidos que la persona humana deba ser siempre un fin y jamás un medio”. (RC-RV)
12月6日(金)、朝ミサ説教:執拗に、そして神がわたしたちの祈りに耳を傾けてくださるとの確信をもって祈ること
執拗に、そして神がわたしたちの祈りに耳を傾けてくださるとの確信をもって祈ること。パパは今日、聖マルタの家でのミサの説教中にこのテーマについて回想をした。祈りには、二つの態度がある。「必要」だから、そして同時に神さまがその時とその仕方をもって、必要性に耳を傾けてくれる、と言う事実に「確信をもって」いる。
祈りは、それが本当にキリスト者らしくあるならば、いつも含まれていることだけれど必要性と、正確にいつかは分らないにしてもきっと聞いてもらえるという確信との間を行ったり来たりします。それは、祈る人は神に厄介になるを恐れず、その父としての愛への盲目なほどまでの信頼を養うからです。今日の福音書の個所の、イエスの後ろで癒してもらいたいと自分たちの必要性を叫ぶ二人の盲人のように、盲目です。あるいは周りが黙らせようとしてもますます強い声で先生の介入を呼び求めるエリコの盲人のように。なぜなら同じイエスが真夜中に食べ物を求める「厄介な友人」あるいは「汚職の裁判官に対するやもめ」のように祈ることをわたしたちに教えてくださったからです。
「多分耳障りかもしれませんが、祈るということは、わたしたちに耳を傾けてもらうために、すこしばかり神さまに厄介になることです。けれど、主はこう言います。真夜中の友人のように、裁判官に対するやもめのように。・・・それは眼差しを弾きつけること、わたしたちに向かって神の心をひきつけることです。・・・そしてこれを、イエスに近づいたあのハンセン病患者たちはしたのです。「もし望んでくださるなら、あなたにはわたしたちをいやすことができます」。ある種の確実さをもって彼らはこれを行ったのです。そのように、イエスはわたしたちに祈ることを教えます。わたしたちが祈る時、善くこう考えます。『でも、そうです、これがわたしの必要性だと思います。同じことを、一回、二回、三回、と頼みますが、それほどの力強さはありません。その後で頼み疲れて、頼むのも忘れてしまいます。『彼らは叫び、叫び疲れることを知らなかった』。イエスはわたしたちに言います。「求めなさい」けれどこうもわたしたちに言っています。『扉のところから呼びかけなさい』、そして扉のところで呼び声を挙げる人というのは、騒ぎ、厄介をかけ、うんざりさせます」。
うんざりとなる限界までのしつこさです。けれど同時に、折れることのない確実さです。福音書の盲人たちはまだ一つの模範に過ぎません。「彼らは自分たちの健康を主に求めるにあたり、確信をもっています」。なぜなら彼らを自分が癒すことができると思うのかというイエスの問に対して、彼らは応えるからです。「はい!主よ!信じます!わたしたちは確かに信じます!」
「そして祈りにはこの二つの態度があると言えます。必要であることと確かであることです。いつも祈りと言うのは必要です。祈りは、わたしたちが何かを求める時、必要です。「この必要性があります。主よ、わたしに耳を傾けてください』。けれど同時に、それが本物である時、それは確実になります。「聞いてください!わたしはあなたがそれをできると信じています、あなたが約束してくださったからです」と。
「主はそれを約束してくださった」。ここに、祈りの確かさに支えを置く要石があります。「この確実さをもって、主にわたしたちの必要性について言っていましたが、彼はそれができるのだという確信をもちながらです」。祈るというのは、二人の盲人たちにしたイエスの質問、「あなたはわたしにこれができると思うのか?」をもってイエスから問い掛けられていると感じることです。
「彼にはこれができます。いつするのか、どうやってするのかは私達には与り知れぬことです。これが祈りの確実さです。主に、真理をもってこれを語る必要があります。「わたしは目が見えません、主よ。わたしにはこんな必要性があります。わたしにはこんな病気があります。わたしにはこんな罪があります。わたしにはこんな痛みがあります」。けれど、いつも真理、です。物事と言うのはそのようなものです。そして彼は必要性を感じますが、確かに介入してくださることを望んでいると感じるのです。わたしたちの祈りは必要か、確かかを考えましょう。必要、というのはわたしたち自身に真理を述べることになるからで、確か、というのは主はわたしたちが求めることを成すことができるからです。
(RC-RV)
2013年12月7日土曜日
2013年12月6日金曜日
12月5日(木)、朝ミサ説教:「キリストのいないキリスト者のことば」に要注意
キリストのいないキリスト者のことばを発する人は、つまりそれを実践しない人は、自分自身にも他の人々にも悪い影響を及ぼす。なぜなら傲慢に負け、教会の中でも分裂の原因になるから。これは聖マルタの家の小聖堂でのミサの間に、木曜日の朝パパ・フランシスコが語ったことの要約である。
主のことばを聞き、それを実行に移すことが、岩の上に家を建てるようなものなのです。パパ・フランシスコはこの日の典礼が勧めている福音書の譬え話を説明した。イエスはたくさんの掟を知っていながらその生活のなかでそれを実現していないファリサイ派の人々を叱りつけていました。「それはいい言葉です」が、もしそれが実行に移されないならば「使えないだけでなく、悪く働くのです。わたしたちをだまし、美しい家を持っていると思わせるけれど、基礎がないのです」。岩の上に建てられていない家である。
「この岩は主について示すモデルです。イザヤは、第一朗読でこれを言います。『いつまでも主に信頼しなさい。なぜなら主は永遠の岩だからです!』。岩は、イエス・キリストなのです!岩は、主のことなのです!ことばというのは力があり、前に進むことができ、あらゆる攻撃を耐えることができます、もしこの言葉がイエス・キリストにその根を張っているのなら。活き活きとした根を持たない、ある人格、つまりイエス・キリストの命に根を張らないキリスト者のことば、それはキリストのいないキリスト者のことばなのです!そしてキリストのいないキリスト者の言葉は、だまし、悪く働きます!イギリスの作家が、一度、異端について語りながら、異端のひとつは真理であると言っていました。一つのことば、一つの真理、これが愚かなものに形を変えてしまったのです。キリスト者のことばがキリストのいない言葉であるとき、愚かさの道をめぐり始めるのです」。
教皇は説明した。「傲慢になるのは、愚かなことなのです」
「キリストのいないキリスト者の言葉はあなたを虚栄に、自分自身への自信に、傲慢に、権力による力に導きます。そして主はこうした人々を覆すのです。これは救いの歴史でいつも続けられていることです。サムエルのママであるハンナも言っていますし、マリアもマグニフィカットの中で言っています。主は虚栄、自分が岩だと信じ込む人々の傲慢をひっくり返すのだ、と。こうした人々はひとつの言葉に付きまといますが、イエス・キリストのいないことばについて行きます。たしかにキリストシャッポい言葉かもしれませんが、イエス・キリストのいない、イエス・キリストとの関わりのない、イエスキリストとの祈りのない、イエス・キリストへの奉仕のない、イエス・キリストへの愛のないことばなのです。このことを今日、主はわたしたちに行っています。わたしたちの人生を岩の上に建てるように、そして岩は、彼なのです。
ローマ司教は言った。「良心の糾明はわたしたちの言葉がどうかを理解するために役立つでしょう。もしそれが権力者であると信じさせるものであるのか、救いをもたらしうると思わせることばなのか、それともイエス・キリストと共にあることばなのか」。
「わたしはキリスト者のことばについて言っています。なぜならイエス・キリストがいない時には、これはわたしたちの間でも分裂を生むからです。教会の中に分裂を生むのです。いつもわたしたちが持たなければならない、謙遜のうちにわたしたちを主が助け、イエス・キリストなしではなく、イエス・キリストのうちにキリスト者のことばを語れる恵みを求めましょう。この救われた弟子の謙虚さ、自分に権力があると思うばかりに虚栄の愚かさ、傲慢の愚かさに終わるような言葉を用いずに前進する謙虚さを持って。主が、イエス・キリストの上に据えられた、イエス・キリストと共にあることばを語る謙虚さのこの恵みを下さいますように。
(RC-RV)
2013年12月5日木曜日
使徒的勧告『福音の喜び』を使って集いをするために
チリのサレジオ会のホームページから、今回の教皇の使徒的勧告『福音の喜び』を使って個人黙想をしたり、集まって話し合ったりするための資料を翻訳してみました。もとのページはこちら。PDFでダウンロードする形になっています。
『福音宣教』において、パウロ六世は、福音宣教は単に教会の恵みと召命であるだけでなく、最も深いそのアイデンティティであると言っています(『福音宣教』14項)。フランシスコは今日、これが教会においてすべての人々にとって絶対的な優先事項であると言っています(『福音の喜び』110項)。というわけで、福音宣教のテーマを扱うにあたって、この文章全体を読み切った方がいいと思われます。というのは小教区やカトリック学校、ムーブメント、組合のような経験などにおいて実現される司牧活動すべてをアップデートさせる指針を提供しているからです。そうです。確かに短い文書ではないけれど、その広がりは次のような協調的な仕方で作業されるならば問題にもなりません。
様式1:
養成的なセッションだけならば、大事なところの抜粋を参加者に渡せばいいでしょう。そこで言及されている共同体の現実と向き合うためです。個人的なレフレクション、またグループでのレフレクションの問いは、次のようなものでもよいでしょう。「要理担当者、宣教者、青年グループの指導者、青年グループの盛り上げ役、学校司牧の責任者、大学の司牧責任者として実現する司牧奉仕のために、この抜粋した引用箇所はどのように役立つと思いますか?」
様式2:
もし全体、あるいは文書の様々な部分を勉強するために何回にも分けてセッションをすることを決めたのなら、『福音の喜び』のそれぞれの章の副題にはどのような共同体であっても興味深い対話を生み出すために充分な内容が込められています。代表者はどの幅で行っていくかを決めることができるが、例えば、次のような分け方があれば充分ではないかと思われます。それぞれの区分に関係のある質問の例文も付けておきました。そうやって個人で色々と考え、そのあとで全体で分かち合うことができるでしょう。
1) 1-8項:自分の司牧奉仕を実現するための動機は何だろう?
2) 9-18項:自分たちの司牧奉仕で喜びを刷新することは必要だろうか?
3) 19-24項:自分たちは主がわたしたちを呼ぶところに「十分に」出かける共同体だろうか?
4) 25-33項:自分たちを刷新させる必要性を正統だとするしるしが自分たちの共同体にあるのを感じ取っているだろうか?それはなにか?
5) 35-39項:わたしたちの対話の相手は、彼らにわたしたちが分かち合うメッセージを明白なかたちで受けているだろうか?
6) 40-45項:わたしたちの対話の相手によりはっきりとしていられるために、福音を広める自分たちのスタイルで何を変えなければならないだろうか?
7) 46-49項:自分たちが実践している司牧は、母なる教会の姿を反映しているだろうか?
8) 50-60項:社会的な疎外や不公平の影響を中和させることを学ぶために自分たちの対話の相手にどのような助けをすることができるだろうか?
9) 61-75項:ここで示された挑戦から、自分たちは対話の相手の中で実際にありより危険なものとしてどれを見つけ出すことができるだろうか?
10) 76-83項:ここで示された誘惑の中で、自分たちの共同体にあると思われる誘惑はどれか?
11) 84-92項:示された挑戦に直面するためにわたしたちを助けられる戦略は何か?
12) 93-101項:ここで名指された挑戦のうち、直面すべき最初の挑戦は何か?
13) 102-109項:指摘された挑戦から、一番直面しやすいものはどれか?どのように?
14) 110-126項:自分たちの間であれ、対話の相手の間であれ、自分たちの司牧奉仕において民間信心にどのようなスペースを与えるか?
15) 127-134項: 日々の生活で、自分たちの対話の相手にケリュグマを紹介するために役立てることを学ぶことのできるであろう空間はどれか?
16) 135-144項:自分たちの信仰の成長のためにどのように説教を有効利用しているか?
17) 145-159項:説教のために与えられる指示を考慮に入れながら、自分たちの対話の相手にするみ言葉の宣言をどのようにもっと気を付けることができるだろうか?
18) 160-168項:自分たちの対話の相手にケリュグマを際立たせるための三つの基本を指摘しよう。
19) 169-175項:自分たちの対話の相手に提供する個人的な随伴の質はよいだろうか?
20) 176-185項:支配的な社会システムのせいで自分たちの対話の相手の生活で窒息していると感じられるみ国の局面にはどのような局面があるか?
21) 186-201項:自分たちのとって、また神にとって、貧しい人々が特別優先的な場を占めているという証拠が存在するか?
22) 202-216項:自分たちの司牧奉仕の間に自分たちの対話の相手が体験している、ありうる疎外を中和させるのを助ける方法が存在しているか?
23) 217-237項:自分たちの共同体で、対話にもかかわらず一致を保つことを学んできただろうか?
24) 238-258項:カトリックではない共同体、キリスト教ではない共同体のように、自分たちの共同体の内側に対話を生み出しているだろうか?どのようにこれを推し進めるか?
25) 259-283項:ここで指摘された霊的動機の中で、自分が一番育たなければならないものはどのような動機か?
26) 284-288項:マリアのどの局面が、自分の実現する司牧奉仕に一番親しみ深いか?
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