2013年10月1日火曜日

9月24日(火)、朝ミサ説教:イエスはいつもわたしたちを待っておられる


 9月24日(火)エズラ6・7-8、12b、14-20
          ルカ8・19-21

 彼はいつもわたしたちを待っておられます。これが神の謙遜です。パパフランシスコは聖マルタの家の朝ミサで語った。パパは詩編から着想を得て、“主の家に喜びをもって参りましょう”と語り、秘蹟は魔術的な儀式ではなく、人生に於いてわたしたちに寄り添って歩むイエスとの出会いである、と強調した。

 「主の家に喜びをもって参りましょう」。教皇は今日の詩編について回想を巡らし、その後、第一朗読を引用した。そこでわたしたちの生活における主の現存に関する言及を続けた。それは寄り添って共に歩む現存である。神の民の歴史において、「よろこびをもたらすうつくしいとき」もあれば、「痛みや殉教、罪の」芳しくない時もある、とパパは省察した。

「イヤな時であっても、美しい時であっても、いつも同じことが一つあります。それは、主がそこにいつもおられる、その民をけっしてみすてない、ということです!なぜなら主は、罪の日に、最初の罪の日に、一つの決断をしたのです。一つの選択をしました。それは、その民と共に歴史を作っていく、ということです。そして神は、歴史を持たないのですが、というのは永遠だからですが、歴史をなそうと臨み、その民の側で歩くことを望みました。けれどさらなることがあります。それはわたしたちの内の一人となること、わたしたちのような一人になること、わたしたちと共に歩むことでした。それをイエスの内に実現したのです。そしてこのことはわたしたちに神の謙遜について語っています」

 そこで、神の偉大さが見られます。それはまさにその謙遜にあるのです。「その民と共に歩むことを望んだ」ことにあるのです。そしてその民が「罪をもって、また偶像崇拝をもって神から離れた時」、「神は」待ちながら「そこにいたのです」。またイエスも、「この謙遜の態度をもって訪れます」。「神の民と歩む、罪人と共に歩む、果ては傲慢な人々とも共に歩む」ことを望まれるのです。主は、「ファリサイ派の人々の傲慢なこの心(が変わるため)に手を貸すために」多くのことをしました。

 「謙遜。神はいつも待っておられる。神はわたしたちと共にいて、わたしたちと共に歩み、謙虚である。わたしたちをいつも待っておられる。イエスはわたしたちをいつも待っておられます。これが神の謙遜です。そして教会は喜びをもって、わたしたちに寄り添って歩む神のこの謙遜を歌います。ちょうど今日詩編をもって歌ったように。「主の家に喜びをもって参りましょう」。喜びを持って行きましょう。なぜなら彼がわたしたちと共に歩んで下さるからです。彼はわたしたちと共にいるのです。そして主イエスは、わたしたちの個人的な生活にも寄り添って歩んで下さいます。秘蹟を通してです。秘蹟は魔術的儀式ではなく、イエスキリストとの出会いです。主とわたしたちは出会うのです。彼こそわたしたちと共にいて、共に歩んで下さる方なのです」。

 イエスは「旅の友」になります。「聖霊も、わたしたちと共に歩み、わたしたちが知らないことも全て心の内に教えてくれます」。そして「イエスがわたしたちに教えたことを全て思い出させて下さるのです」。そうして「わたしたちがよい道の美しさを感じられるようにしてくれるのです」。「神、つまり父と子と聖霊は、歩みの同伴者、友であり、わたしたちと共に歴史を作ります」。そしてこれを教会は「喜びに満ちて」「聖体祭儀においても」祝うのです。第四奉献文では、「謙遜になることを望み、わたしたち全ての歩みの友となり、わたしたちと共に歴史の一部となっていくことを望まれた神の実に大いなるあの愛が歌われています」。


「そしてもし主がわたしたちの歴史(物語)に入られたのなら、わたしたちもすこし彼の歴史(物語)に入ることになります。或いは少なくとも彼によってわたしたちにその歴史が刻まれるようにと委ねる恵みを求めましょう。彼がわたしたちの歴史(物語)を書いてくださいますように。それは確かな歴史(物語)になります。

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