10月 1日(火)聖テレジア(幼いイエスの)
おとめ教会博士(記)
ゼカリヤ8・20-23
ルカ9・51-56
教皇は、今日から三日までバチカンでパパと共に集まる「枢機卿顧問団」の枢機卿たちと聖マルタの家でミサをささげた。その説教の中で、教皇はこの会議をもって誰もがより謙虚になり、神に信頼し、「教会が人々に美しい証しをすることができるために」と求めた。
イエスは、彼を受け容れたがらなかった人々の上すべtねい天から火を降らせたがっていた使徒たちに答える。ローマ司教はその説教をこの当日の福音から着想を得て繰り広げたが、そこでキリスト者の道は「復讐の道」ではないことを訴えた。キリスト者の道はあの謙遜と素直さの道である。そして、つけくわえて、今日幼きイエスの聖テレジアの記念をするにあたり、「その謙虚さ、やさしさ、善意の精神について考えを巡らせることはわたしたちにとって益となるでしょう」と言った。それは「わたしたちすべてに主が望んでおられるへりくだった精神です」。この精神にわたしたちを導いて行く力は、一体どこにあるのでしょうか?まさにそれは愛にあるのです。愛徳に、父のみ手のうちにいるという意識のうちにあるのです。このことを感じる時には、天から火を降らせたいなどという望みは生まれません。
「他の精神がやって来ます。それはすべてを苦しみ、すべてを赦し、決して虚栄をはらず、謙遜で、自らのことを求めないその愛徳の精神が来るのです。哲学者で次のように考えていた人もいましたし、今でもこう言うことができるかもしれません。それでは人間の威厳、人間の偉大さを貶めることになるではないか、と。これはしかし不毛です!知恵ある教会は、この謙虚で、小さく、神に信頼し、素直な聖女を、宣教の保護聖人としたのです」
福音の力は、まさにそこにあります。なぜなら福音はまさにイエスの受けた蔑みの最もレベルの高いポイントまで到達するからです。謙遜が侮蔑を受けることに変わっていきます。そして福音の力はそのような謙遜にあるのです。愛と父のやさしさに導かれるがままにする子どもの謙遜に。
「ベネディクト十六世が言っていたことですが、教会は、信徒獲得主義によって育つわけではなく、魅力により、証しによって育つのです。そして人々が、民がこの謙遜、素直さ、大人しさの証しを見る時に、ゼカリアの預言が語っているような必要性を感じるのです。「わたしたちはあなたたちについて行きたい」と。人々は愛徳の証しを前に、その謙遜で威勢を張らず、自己完結的ではなく、へりくだり、礼拝し、奉仕する愛徳の証しを前に、そのような必要性を感じるのです」。
常に愛徳を。神を礼拝し、他者に奉仕することを!そしてこの証しが教会を育てるのです。ここに、なぜあんなにもつつましくも神にあれほどまでも信頼した、幼きイエスの聖テレジアのような隠遁修道女が、宣教の保護聖人として宣言されたかがあります。なぜならその模範は人々に「あなたたちと共に行きたい」と言わせるからです。パパはその説教を、この火曜日にバチカンで実施される、自分から教会の政治を助けるために望んだ「枢機卿団顧問」との会議に特別にその考えを向けて終えた。
「今日、このバチカンで、このミサの共同司式に立っておられる顧問枢機卿団との会議が始まります。わたしたちの今日の仕事が、わたしたちをより謙虚にし、より素直に、より忍耐強く、より神に信頼したものとしてくださるように主に祈りましょう。そうして教会が人々に善い証しをすることができるようになり、神の民、教会を見る人々が、わたしたちと共に行きたいという望みを感じますように」。
(RC-RV)
0 件のコメント:
コメントを投稿