パパ・フランシスコはミサの終わりにファティマの聖母への奉献の祈りをささげた。「ファティマの聖母、あなたが母としてここにおられることに改めて感謝をしながら、わたしたちはあなたのことを幸いなものと呼ぶ全世代の人々と声を合わせます。」「わたしたちの命をその腕の中で守ってください」
聖母マリアへの奉献
マリアよ、小さき者たち、貧しい人たち、疎外されている人たち、苦しむ人たち、罪びとたち、心を失ってしまった人たちへの特別な配慮のあるあなたの愛そのものをわたしたちに教えてください。わたしたちすべてをあなたの守りのもとに集め、あなたの愛する御子、わたしたちの主イエス・キリストをわたしたちにお譲りください。
教皇の説教全文
詩篇で「新しい歌を主に歌え、大いなることをなさったから」(詩篇97篇1節)とみんなで唱えました。
今日、わたしたちはそのような主の大いなるわざのうちの一つの前にいます。マリアです!わたしたちのようにつつましく弱い被造物であり、神の母、創造主の母となるために選ばれた方です。
まさに先ほど耳にした朗読に照らしてマリアを見つめながら、三つのポイントについて皆さんと分かち合いたいと思います。一つ目は、「神はわたしたちを驚かせる」、二つ目は、「神はわたしたちに忠誠を求めている」、三つ目は、「神はわたしたちの力である」というポイントです。
1.一番:「神はわたしたちを驚かせる」。ナアマンのお話があります。アラム王の軍隊長です。興味深いものです。ハンセン氏病から癒されるために、神の預言者の前に連れて来られます。相手はエリシャですが、彼は魔術的な儀式はせず、特別なことをも求めず、ただ神に信頼し、川の水で体を洗うようにと言いました。ダマスコの大きな川ではなく、小さなヨルダン川です。これはナアマンを混乱させ、驚かせもした要求でした。こんなにも単純なことを求める神はいったい何者か?と。そういうわけで立ち去ることを決めましたが、少し話しが進んでから、ヨルダン河で体を洗います。すると即座に癒されるのです。神はわたしたちを驚かせます。まさに貧しさの中、弱さの中、謙遜の中に、です。そこは神が自らを表明し、わたしたちを救い、わたしたちを癒し、わたしたちを力づけるその愛を下さるところです。わたしたちに求めるのはその言葉に従い、彼に信頼するということだけです。
これはおとめマリアの経験でもありました。天使のお告げを前に、その驚きを隠しません。その驚きとは、神が、人となるという時に、まさにマリア、ナザレの簡素な女の子、富や権力の宮殿に住んでおらず、特別なこともしていない小娘、しかし神に開かれ、たとえすべてを理解しなくとも神を信頼する女の子を選んだ、ということを見る驚きです。「主のはしためはここに。わたしの内であなたの言葉通りのことが行われますように」(ルカ1章38節参照)、これがその応えでした。神はいつもわたしたちを驚かせます。わたしたちの型を崩します。わたしたちの計画を危機にさらしこう言います。「わたしを信じなさい。恐れてはならない。驚きなさい。自分自身の殻から出てきて、わたしに従いなさい」。
今日、皆さん、主がわたしたちに求めるかもしれないこと、あるいは今わたしたちに求めていることに恐れをなしているかどうか自問しましょう。マリアがしたように、神に驚かされるがままにしているだろうか、それとも自分の安全牌に留まり、物質的な安全、知的安定、イデオロギー的安定、自分の計画の安定に閉じこもっているのだろうか?ほんとうに神にわたしの人生の中に入って来させているだろうか?どう彼に応えているだろうか?
2.先ほど耳にした聖パウロの朗読では、使徒はその弟子ティモテに向けて次のように言います。「イエス・キリストのことを覚えていなさい。主と共に踏みとどまっているなら、イエスと共に支配するのです」。これが二つ目のポイントです。いつもキリストのことを思い出すことです。イエス・キリストの思い出、これこそ信仰に踏みとどまるということです。神はわたしたちをその愛をもって驚かせますが、忠実に自分に従うようにとわたしたちに求めます。一つのこと、一つの計画、一つの務めにやる気を出したことが何度もあったことを考えてみましょう。けれどその後、最初の困難を前に、タオルを(リングに)投げ入れてしまいます。これは、残念なことに、婚姻のように、わたしたちの根本的な選択においても生じます。継続的であること、とった決断や引き受けた約束に忠実であることの困難です。しばしば「はい」と答えるのは簡単ですが、その後この「はい」という返事を毎日繰り返すことができないものです。忠実でいられないものなのです。
マリアはその「はいという返事」を神に対して告げました。一つの「はいという返事」がそのつつましいナザレでのあり方を変えたのです。けれどそれは一回きりではありませんでした。むしろ喜ばしい時にも痛みの伴う時にも自分の心の中で発声された他の多くの「はいという返事」の先駆けとなったのです。これらすべての「はいという返事」は十字架のもとで口に出したもので頂点に達しました。今日、ここには大勢お母様方がお見えになっています。どのポイントまでマリアから神への忠誠は到達したのだろうかと考えてごらんなさい。十字架上の自分の一人子を見ることまでいったのです。忠実な女性は、自分の足でしっかり立ち、内側は打ちのめされても忠実で力強いものをもった女性です。
そこでわたしは自問します。自分はほんの短い時間だけのキリスト者なのだろうか、それともずっとキリスト者なのだろうか?と。その場しのぎのもの、相対的なものの文化は信仰生活にも入り込みます。神はわたしたちに毎日、普通のものごとの中で忠実であるようにと求め、加えてしばしばわたしたちが忠実でなくとも、彼はいつも忠実で、そのあわれみでわたしたちを立ち上げるために手を伸ばすのに疲れを感じることはなく、わたしたちがもう一度歩き直そうとし、主に立ち返り、わたしたちの弱さを告白して主の力を主ご自身がわたしたちに下さるように励まします。これは決定的な歩みで、いつも、弱さにおいても、わたしたちの罪の間でも、主と共にあるものです。その場しのぎのものの道を歩くことは決してありません。これは、そうです、殺します。信仰とは、マリアの場合にそうであったように、決定的な忠実なのです。
3.最後のポイントです。神はわたしたちの力である。福音に出てくるイエスに癒された十人のハンセン氏病患者のことを考えます。主との出会いに出ていって、遠くに留まり、叫んで言うのです:「イエス、先生、わたしたちを憐れんでください(ルカ17章13節)。彼らは病気で、愛と力を必要とし、誰か自分たちを癒してくれる人を探しています。そしてイエスはその病気のすべてから自由にする、ということで応えます。興味を引くことですがしかし、たった一人だけが神をたたえ叫び声をあげながら、感謝をささげていたのです。イエス自身が彼に指示します:癒しに至ることを求めて叫んでいたのは十人だったのにたった一人だけが帰ってきて叫びで神に感謝し、主のうちにわたしたちの力があることを認識します。感謝できること、わたしたちのためにしてくださることのおかげで神に栄光を期してたたえることを知っていることです。
マリアを見ましょう。お告げの後、彼女がする最初のことは、その年老いたいとこエリザベトへの愛徳の振る舞いです。そして最初に口から出てきた言葉は「わたしの魂は主の偉大さを宣言します」です。つまり、賛美の歌、神への感謝の行為です。自分のうちに行われたことだけのために賛美しているのではなく、救いの歴史すべてにおいて行われたことのために賛美と感謝をするのです。すべてのことは神からの賜物です。もしわたしたちがあらゆることが神からの賜物だということを理解できるなら、わたしたちの心の中にはどれほどの幸せがあることでしょう!すべてのことが神からの贈り物なのです。彼はわたしたちの力なのです!ありがとうと言うのは簡単ですが、しかしながらこれほどまで難しいのです!家庭で何度互いにありがとうと言い合っていますか?共同生活のキーワードの一つです。「失礼」「ごめん」「ありがと」。もし家庭でこの三つの言葉を言い合っているならば、家族は前進します。「失礼」「ごめん」「ありがとう」。家庭で何度「ありがとう」とわたしたちは言いますか?わたしたちを助け、わたしたちに近づき、人生においてわたしたちと共に歩んでくれる人に何度感謝を表明しますか?しばしばどれもまるで何もなかったかのように済ましてしまうものです!そして同様に、神に対しても同じく振舞っています。何かお願いするために主に向かうのは簡単です。けれど感謝するとなると、「うぅ、その気になれない」。
マリアの取り次ぎを求めながら聖体祭儀を続けましょう。マリアがわたしたちを助け、抵抗なく神によって驚かされ、日々忠実な子らとなり、わたしたちの力である神に賛美と感謝を捧げられるようにしてくださいますように。アーメン。
(RC-RV)
0 件のコメント:
コメントを投稿