2013年10月1日火曜日

9月28日(土)、朝ミサ説教:十字架から逃げない恵みを求める


 9月28日(土)聖トマス西と15殉教者(記)
          ゼカリヤ2・5-9、14-15a
          ルカ9・43b-45

 十字架から逃げない恵みを求める、これは聖マルタの家の小聖堂で今朝ミサの間にパパがささげた祈りである。その説教でフランシスコは自分の受難を弟子たちに告げるイエスについて語る当日の福音に触れた。

 「人の子は人々の手に渡されようとしている」。このイエスの言葉は「勝利の道を考えていた弟子たちを凍えさせます。彼らにとってあまりに神秘的のまま残り、その意味が理解できませんでした。そしてこの議論について質問するのを恐れました。彼らにとっては口を開かない方がましでした。真理を理解しない方がよかったのです」その真理とは、イエスが語っていたことである。

  十字架を恐れていました。十字架が怖かったのです。同じペトロが、フィリポ・カイサリア地方での荘厳なこの告白の後で、主を叱りつけて「いえ、絶対に、主よ!これはいやです!十字架を恐れていたのです。けれど弟子たちだけでなく、ペトロだけでなく、イエス自身も十字架を恐れていたのです!イエスは自らを偽ることはできませんでした。イエスは知っていました。その恐れはあまりに激しく、その木曜日の夜、血の汗まで流したのです。イエスの恐れはあまりに激しく、ペトロが言ったのと同じことをもう少しでいうところでした。ほとんど口先に出そうになっていました。『父よ、この盃を取り除いてください!しかしあなたのみ旨が行われますように!』ここに違いがあります!」

 十字架は福音化の活動において、わたしたちにも怖れをもたらします。これは「弟子たちはその死に勝らない、という法則」なのです。智をほとぼらせることのないあがないはない、という法則があるのです」。十字架なくして実りある使徒的事業はないのです。

 「おそらくわたしたちはこう考えます。わたしたちの一人ひとりがこう考えるかもしれません。『ではわたしには、わたしには何が起こるのでしょう?わたしの十字架はどのようなものでしょう?』分るものではありません。わたしたちは知らないのです。けれどきっとあるでしょう!十字架が来た時に逃げない恵みを求めなければなりません。恐れを伴っていますよ、本当に!これは真実です!これはわたしたちに対して怖れの原因になります。けれどイエスに従うことは、そこで終わります。イエスがペトロに行った最後の言葉が頭に浮かびます。それはティベリア湖での教皇職の授与とも言えることをした場面です。『わたしを愛しているか?牧しなさい!わたしを愛しているか?牧しなさい」! けれど最後の言葉はこうでした。「あなたの行きたくない所にあなたを彼らは連れて行くだろう!」十字架の約束です。

 パパはマリアへの祈りを持ってその説教を閉じた。

 「十字架上にいた、イエスのすぐそばに、その母、ママがいました。恐らく今日、わたしたちがマリアに祈る日である今日、恐れを取り去らない恵みを求めることはいいことかもしれません。恐れは必ず来るでしょう。十字架への恐れです。そうではなく、十字架に驚かず、それから逃げない恵みを求めましょう。マリアさまはそこにいて、どうのように十字架のすぐそばでいるべきなのかを知っておられるのです」。

(María Fernanda Bernasconi – RV).

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