2013年10月1日火曜日

9月27(金)、朝ミサ説教:ほんもののキリスト者は、さげすみを、忍耐と喜びをもって耐え抜く

 9月27日(金)聖ビンセンチオ・ア・パウロ司祭(記)
          ハガイ1・15b~2・9
          ルカ9・18-22

 キリスト者であるかどうかを理解するための証拠は「侮蔑を、喜びと忍耐をもって乗り切る許容力」にある。パパ・フランシスコは聖マルタの家での今朝のミサの説教において、信仰生活のこの局面を強調した。教皇は改めて心をすべてかけてキリストを愛することを妨げる、「霊的な居心地の良さに関する誘惑」の危険性について警鐘を鳴らした。

 キリストを愛します、はい、「でもある程度まで」。ぬるさの危険性です。皮算用で出来た信仰、いつも様子見をしてうかがいを立てることで前に進まないことで出来た信仰の危険性です。パパ・フランシスコは議論を明るみに出し、言い訳が出来ないようにした。出発地点は今日イエスがまずその弟子達に、自分について人々が何者であると言っているかを尋ね、その後で彼ら自身はどう言っているのかを尋ね、ペトロが「神のメシアです」と答える、ルカの福音箇所である。「この問いはわたしたちにも向けられています」。パパは言った。そこですぐ、成熟した信仰と中途半端な信仰の本質を貫く回答の一覧を挙げた。「あなたにとって、私は誰ですか?この会社の有権者、よい預言者、よい先生、あなたの心が気持ちよくなるようにしてくれる人、でしょうか?」「わたしは人生においてあなたと歩む者、あなたが前進し続けられるように手助けする人でしょうか?ちょっと『いい人』であるように助ける人でしょうか?」そうでしょう、そのとおりでしょう、けれど物事はここでは終わりません。

 「イエスが誰かをペトロに言わせるためにその心に触れたのは、聖霊でした。イエスはメシアかどうか、生ける神の子かどうか、先生であるかを。でしょう?誰がこれを説明できるでしょうか?・・・けれど、ペトロはこのことを言ったのです!そして模試わたしたち一人一人も、その祈りにおいて、静謐を眺めながら主に『あなたはメシア(キリスト)です。生ける神の子です』と言うならば、はじめは自分からはこのことを言う事は出来ません。その人の中でこれを告げる聖霊がなければならないのです。そして、その次に、よく心して聞いて下さい、なぜなら主が答えるからです。『そうですよ、その通り』と。

 ペトロに応えるにあたり、イエスはこのことを誰にも言わないように頼み、それからご自分の受難、その死、その復活を告げます。ここに、パパ・フランシスコが思い出す使徒たちのトップの反応があります。聖マタイによる福音に描写されているように、はっきりと表明するペトロの姿です。「そんなことは決してあるはずがありません」。「ペトロは、驚き、つまづきます」。他の「こんなことは決してありえない!わたしが従うのはここまでです」と言っているキリスト者と勝るとも劣りません。ここでパパ・フランシスコはぐさっと刺さることを言います。「あるところまではイエスのことを知るためにイエスについて行く一つのあり方です」と。

 「そして、これこそが霊的居心地の良さの誘惑なのです。あらゆるものを持っています。教会があります。イエス・キリストがいます。秘跡があります。おとめマリアがいます。色々みんなあるのです。神の国のためのよい仕事があるのです。誰もがとてもいい人です。どこにいっても。このことを考えなければならないのですから!この反対のことを考えるなら、それは罪なのですから!けれどそれだけでは十分ではありません。ある程度のところまでの霊的居心地の良さでは。あの金持だった青年は、イエスと共に行きたかったのです。けれどある程度のところまででした。このキリスト教徒としての最後の油注ぎが足りなかったのです。本物のキリスト者であるために。十字架の油注ぎです。蔑まれるという油注ぎです。イエスは死に至るまで自らへりくだり、あらゆる意味での死に至るまでへりくだりました。これが試金石、わたしたちのキリスト者としての現実を測るものです。自分は文化的キリスト者、居心地のよいキリスト者なのだろうか?それとも十字架まで主と共に歩んでいくキリスト者なのだろうか?そのしるしは侮蔑をも受け入れて乗り越えていくことがどれだけできるかにあります」。

 十字架の躓きは、しかしながら、多くのキリスト者たちに対して壁となり続けています。誰もがもう一度立ち上がりたいと望んでいます。けれど、「必ずしも誰もがそれを十字架の道を通ってする意向を持っているとは言えない」のです。そして、さらに、直面する困難や苦しんだ危害について文句を言い、イエスがわたしたちに真似るようにと求め、イエス自身がしたことと正反対の振る舞いをしているのです。

 「一人のキリスト者が本物のキリスト者であるかを見極めるのは、侮蔑を喜びと忍耐を持って乗り越えていくことがどれほどできるかにかかっています。けれど、これは何かうれしくないものです・・・。主を見つめ、より彼に似たものとなれるように侮蔑を求めるキリスト者もたくさんいます。これが分かれ目です。居心地のよいキリスト者 -あなたは天国に行きますよ。間違いなく救われますよ!-なのか、あるいはイエスの道を通る、イエスの近くをいくキリスト者なのか」。

(ER-RV)

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