2013年9月24日火曜日

9月20日、カトリック医師協会国際連盟へのことば


教皇フランシスコのカトリック医師協会国際連盟の推進集会参加者への演説

クレメンティーナ・ホール、2013年9月20日(金)

 遅れてすみません。今日は・・・今朝は一般の方々にはとても面倒をおかけしました。ごめんなさい。

1.皆さんと分かち合いたいと思っている最初のポイントはこれです。わたしたちはこんにち、パラドックスの状況に居合わせています。医療の専門職のことを言っています。一方では、神に感謝したいことですが、情熱をもって、おしみなく、新しい治療法を求めるために献身している科学者たちの尽力のおかげで、医療の発展がみられます。他方、しかしながら、医師が「命への奉仕者」であるというアイデンティティを失うかもしれないという危険性にも直面しています。文化的な方向性の欠如は、不落であろうと思われる分野、すなわち、医療にも影響を及びしていきました。たとえその本性は命への奉仕でも、健康に関する専門家は、しばしば命そのものを相手にするのを怠るようにと導かれています。一方で、回勅『カリタス・エト・ヴェリターテ(真理における愛)』が気づかせてくれているのは、「いのちへの開き(理解)は、ほんものの発展の中心である」と言うことです。このいのちへの開きがなければ本物の発展はない、ということです。「もし新しいいのちを受け入れるための個人的また社会的なセンスが失われるならば、社会のための他の役に立ちそうな重要の形式も枯れ落ちるのです。いのちの受容が道徳的エネルギーを鍛え、相互扶助ができるようにするのです」(28)。パラドックスが見られるのは、一方で、しばしば引き合いに出される権利を含めた新しい人権を示しておきながら、必ずしもいつも第一の価値やすべての人日tの基本的権利としていのちが守られていない、ということです。医師の最終目標はいのちの保護と促進にあります。

2.二つ目のポイントです。この文脈において、聞いてもらえること、教会は良心に、健康に関する専門家とボランティアすべての良心に訴えます。特に婦人科医は、新しい人のいのちの創造に協力するようにと呼ばれている人たちですので、特別です。皆さんの場合、それは召命であり、使命です。良心と、たったひとつの人間性に関する研究が不可欠です。かつて、「代母」と呼ばれた助産に携わっていた女性たちは、本当の母親と共に、もう一人のお母さんのようでした。あなたも「代母」、「代父」なのですよ。

 利潤によって一般化されたメンタリティ 、今多くの人の心と頭を虜にしている「使い捨ての文化」は、高い代価を払っています。そこでは人々、特に身体的、また社会的により弱っている人たちを削除するよう要求してくるからです。わたしたちのこのメンタリティへの答えはいのちへの決定的で揺らぐことのない「肯定(『はい』、という答え)」です。「ひとりの人間の最初の権利は、その命そのものです。いのちはこれに続く他の素晴らしいことにつながっており、そのいくつかはよりかけがえのないものです。しかし、いのちそのものがその他の権利のための実に基本的な条件です」(教理省、1974年11月18日発布の自発的堕胎についての宣言、第11項)。ものには値段があって売られますが、人には尊厳があり、他のものごとよりも価値があり、お金では換えられないのです。しばしば、いのちが他の何よりも安っぽく扱われているような状況に出会うことがあります。その色調において、人のいのちへの援助は最近の数年、教会の教導職にとって本当に優先事項となって来ました。特に、より守られていない人々、つまりいのちがより守られていない、障碍を抱える人々、病者、出産前の子どもたち、子どもたち、老人たちのいのちです。

 人間のもろさにおいて、一人ひとりが主のみ顔を認識するように招かれています。主はその人間としての肉体のうちに、発展の途上にある国々においても、富裕な社会においても、しましば貧しい人たちに死に追いやっている無関心や孤独を体験しました。出産前の、しかし不正に堕胎という死刑宣告を受けた子どもたちの一人ひとりが、生まれる前、そして生まれたばかりの時に世において拒絶を経験されたイエス・キリストの顔、主のみ顔をもっています。そして年輩の方々一人ひとりに、-今子どもについて話しました。もう一つの対極、お年寄りのことに移りましょう。あらゆるお年寄り、病人、その最後の日々をも含み、一人ひとりがキリストの顔をいただいています。切り捨てられるわけにはいきません、「浪費文化」が提示しているように切り捨てられるわけにはいかないのです!

3.三つ目の局面は次の掟です。「いのちの文化」の証し人、代弁者となることです。みなさんがカトリックであるということは、より大きな責任を意味します。何よりも、自分自身に対して、そのキリスト者としての召命との共鳴においてある努力のために。そして現代の文化に対して、人間の受胎の最初の瞬間から、神の創造のわざの足跡である、人のいのちの超越的次元を認識させる一助となるために。これは新しい福音化の献身の問題です。それは人格において努力しながら、しばしば流れに逆らうことが求められています。主は「いのちの福音」を広めることにおいて皆さんを当てにしているのです。

 この視点において、婦人科の病院奉仕は証しと福音化に関する特別な祝福を得た場所です。なぜなら教会が「神の現存の乗り物」であるところならばどこでも、生きることが同時に「人と世界が真が人間らしくなっていくことのための道具」となっているからです(教理省、福音化のいくつかの局面に関する教理的手引き、第9項)。病院の援助の焦点が弱い立場にある人であるという意識が育ってきています。健康を打ち立てることが、「援助の関係が仕事ではないところ-仕事というのは、関わりを保とうとしません-ではなく、使命であるところになり、よきサマリア人の愛徳が最初の教団であり、また犠牲者の顔、つまりキリストの顔であるところ」になるのです(ベネディクト16世、ローマのサグラード・コラソン・カトリック大学での演説、2012年5月3日)。

 愛する友である医師の皆さん、あなたたちは人間のその最初の段階において人のいのちを守るように呼ばれています。皆さんに思い出していただきたいと思いますが、行いにおいても言葉においても、いつでも、人のあらゆる段階において、またあらゆる年齢において、人は聖なるものであり、質の高いものである、ということが扱われるべきです。そしてこれは信仰の問題として議論されるものではありません。違います、違います。そうではなく、当然のことながら、科学に関する議論の対象ですよ!いのちそのものより大事な人のいのちなどないのです。他の人より重要だと質的に人のいのちが測られることがありますが。健康の援助のシステムの信ぴょう性は、高率においてのみならず、人への対応と愛によっても測られるのです。そのいのちはいつも聖なるものであり、不可侵のものだからです。

 主とおとめマリアに祈ることを決して怠ってはなりません。皆さんがよい仕事をし、勇気をもって証しをするために、力をいただいてきたはずです。頑張ってください!最近は、勇気が必要です。みなさんは「いのちの福音」を告げるための勇気ある証し人なのです!ありがとうございました。
 

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