教皇によるビデオメッセージ
愛する兄弟姉妹の皆さん
神の愛の聖地にいる巡礼者の皆さん、ルルド、ナザレ、ルハン、ヴァイランカンニ、グアダルーペ、秋田、ナイロビ、ベンヌー、チェストコヴァ、マリアン・ヴァレーのマリア聖地からつながっている皆さん、この夕刻、ロザリオの祈り、そして聖母の眼差しのもとでの聖体礼拝において皆さん全員と一つになっていることを感じます。
眼差し…。何と大切なことでしょう!たった一つの眼差しでどれほど多くのことを告げることができるでしょう!愛情、励まし、同情、愛が伝わります。けれど咎め、妬み、おごり、憎しみまでもが伝わってしまいます。しばしば、眼差しは言葉数よりも多くのことを語ります。あるいは言葉では言えない、あるいは言うのがはばかれることを伝えます。
誰をおとめマリアは見ているのでしょう?わたしたち全員を、わたしたち一人ひとりをです。では、どのようにわたしたちを見るのでしょう?母として、温もりを持って、憐れみを持って、愛を持ってわたしたちを見てくださるのです。そのように、イエスのあらゆる時に、喜びの時、輝きの時、苦しみや痛みの時、栄光の時、そう、ちょうど聖なるロザリオの神秘を観想するように、単純に愛を持ってその子イエスを見つめてきました。
わたしたちが疲れている時、元気をなくしている時、問題に打ちのめされそうになっている時、マリアに戻りましょう。わたしたちの心に「元気を出して、子よ、わたしがあなたを支えているから!」と語りかけるその眼差しを感じましょう。おとめはわたしたちのことをよく知っています。お母さんですから、何がわたしたちの喜びであり、困難であり、希望であり、落胆であるかをよく知っています。わたしたちの弱さや罪の重みを感じる時、マリアに戻りましょう。わたしたちの心に「立ち上がって、わたしの息子イエスのところにかけよりなさい!イエスにおいて道を続けるための歓迎、憐れみ、新しい力を見出すでしょう」。
マリアの眼差しはわたしたちだけに向けられているのではありません。十字架の足元で、イエスがその使徒ヨハネにマリアを委ねる時、同時にわたしたち全員にも委ね、こういいます。「婦人よ、あなたの子です」(ヨハネ19章26節)、マリアの眼差しはイエスに集中しています。そしてマリアはカナの結婚の時と同様に、わたしたちにこういいます。「この人が言う通りにしなさい」(ヨハネ2章5節)と。マリアはイエスを指し、わたしたちにイエスの証しをするようにと招き、その子イエスにいつも導きます。なぜならイエスにおいてのみ救いがあり、イエスだけが孤独や困難、罪の水を出会いと喜びのぶどう酒に変えることができるのです。
「信じたあなたは幸いです」。マリアは神への信仰によって、その信仰によって幸いなる方なのです。なぜならその心の眼差しがいつも神に、その胎に連れ行き十字架において眺めることになったその神の子に集中していました。聖体礼拝において、マリアはわたしたちにこう語ります。「わたしの子イエスをごらんなさい。イエスにしっかりと眼差しを据え、耳を傾け、イエスと語りなさい。イエスは愛を持ってあなたを見つめます。恐れないで。イエスは、あなたの生活の大小の働きにおいて、家族との関わりの中で、あなたの仕事の中で、パーティーの時に、イエスに従い、その証しをするようにと教えるでしょう。あなたに自分の殻から出ていき、あなたを愛して来られ、言葉ではなく、働きをもって今も愛しておられるイエスのように周りの人たちのことを見つめるように教えています。
おぉ、マリア!あなたの母の眼差しを感じさせてください。あなたの子に導いてください。わたしたちが「ショーウィンドーの」キリスト者にならないようにしてください。むしろ御子イエスと共にその愛と喜びと平和の国を建設するために「手を土で汚し(汗水たら)す」ことのできる人間にしてください。
(RC-RV)
Bravissimo! Grazie!
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