2013年10月31日木曜日

10月27日、ミサ説教:キリスト教的家庭の三つの性質:祈り、信仰、喜び

 この主日の朗読は、キリスト教的家庭の基本的な性質についていくつか黙想するようにとわたしたちを招いています。

1.最初に、祈る家族。福音のテキストは二つの祈り方をはっきりと示しています。一つは偽りの祈り、ファリサイ人のものですが、もう一つはほんものの祈り、徴税人のものです。ファリサイ人は神の恵みや神のあわれみに感謝するような態度は身につけておらず、むしろ自己満足に終始します。ファリサイ人は自分が正しい人だと感じ、すべてうまく行っていると感じ、このことを自慢し、その高みから足元に遠く他者を眺めて裁きます。一方、徴税人は、言葉を並べたてません。その祈りはつつましく、はっきりしていて、尊厳を失った状態にあるという自覚と自らの哀れな状態に裏打ちされています。この人は本当に神のゆるし、神のあわれみの必要性を身にしみて感じています。

 徴税人の祈りは、貧しい人の祈りです。第一朗読が言っているように「雲まで上る」(シラ書35章16節)神に認められる祈りです。一方、ファリサイ人の祈りは虚栄の重みによって刻まれています。

 こうしたみ言葉に照らして、皆さん、愛する家族の皆さんに訊いてみたいと思います。皆さんは家族で祈ることがありますか?ん~、ある人ははい、と言っていますね。知っています。けれど、多くの人はわたしにこう言います。でもどうするんですか?と。徴税人のようにするのです。はっきりしています。謙虚に、神の前で。一人ひとり、へりくだりをもって神に見ていただくのです。そしてその善意を求め、わたしたちのところに来てくださるように求めるのです。けれど、家族で、となると、どうすれば?なぜなら祈りというのは個人的なものに思えるし、しかも家族ではちょうどいい機会も静かな時間も全くないのです…と。そうですね、その通りですね。けれどそれも謙虚さの問題です。徴税人のように、神を必要としている、と認識するかどうかの問題です。そしてどの家族も、神を必要としています。全家族、あらゆる家族がです。その助け、その力、その祝福、そのあわれみ、そのゆるしを必要としているのです。そしてそこにはシンプルであることが求められます。家族で祈るためには、シンプルである必要があります。共に「主の祈り」を、テーブルを囲んで祈るとか、何か特別なことではないのです。簡単です。夫は妻のために、妻は夫のために、二人は子どもたちのために、子どもたちは親やおじいちゃん、おばあちゃんのために…互いに祈り合うのです。これが家族で祈るということです。これが家族を強くするのです。祈り。

2.第二朗読はもう一つの局面をわたしたちに勧めています。 家族は信仰を保つ。使徒パウロは、その人生の終わりに、根本的な人生の清算をします。そして「わたしは信仰を保ち続けました」(2ティモテ4章7節)と言います。どのように保ったのでしょう?金庫の中ではありません。あの〈譬え話に出てくる〉少し怠け者のしもべのように地中に隠したわけでもありません。聖パウロは自分の人生を戦闘や競走と比較します。彼は信仰を保ちました。なぜならそれを守ろうとけちけちすることなく、これを告げ知らせ、輝かせ、遠くまで運んだからです。保管したい人と決定的に反対のことをしたのです。パレスチナの地の果ての内側でキリストのメッセージの香油をかぐわせたのです。このため勇気ある選択をし、敵地に赴き、信仰から離れている人々、異なる文化の人々の反感を受け入れ、はっきりと恐れることなく語ったのです。聖パウロが信仰を保ったのは、辺境まで出ていき、防衛的態度にたてこもることなく、自分が受けたように、人に与えたからです。

 ここでも、わたしたちは問うことができます。どのようにして、家族で、わたしたちの信仰を保つことができるのでしょう?わたしたちは信仰を自分たちのため、自分たちの家族のため、私有財産のように、銀行の口座に振り込まれているもののように抱えこんでいるのでしょうか、それとも他者への証し、歓迎、開きをもってこれを分かち合うことができているでしょうか?だれでも、家族は、特により若い家族は「競走」に出ていくことがしばしばであることを知っています。とても忙しいのです。けれど、この「競争」は信仰の競走にもなりうることを考えたことはありますか?キリスト者の家庭は宣教者の家庭です。昨日、この広場で家族ぐるみで宣教をしている人たちの証しを聞きました。彼らは日々の生活においても宣教者です。毎日の仕事をしながら、すべてのことに信仰の塩味をつけ、イースト菌を入れているのです。家族において信仰を保ち、あらゆることに信仰の塩味を付け、信仰のイースト菌を入れること。

3.そして最後の局面は、神のみ言葉に見られます。喜びに生きる家族です。答唱詩篇に次のような表現が見られます。「貧しい人々がこれを聞き、喜ぶ」(詩篇33編3節)。この詩篇全体は、喜びと平和の源泉である主への賛美です。ではこの喜びの動機はどのようなものなのでしょう?これです。主が近くにおられること、主が貧しい人々の叫びを聞き、悪から解放してくださることです。聖パウロも書いています。「皆さんいつも喜んでいなさい…主は近くにおられます」(フィリ4章4-5節)。わたしは今日一つの問いかけをしたいと思います。けれど一人ひとりが自分の家の心の鍵をもっているんですよ、いいですか!実現すべき宿題としてです。だから個人的に応えてください。あなたの家には喜びがありますか?あなたの家族には喜びがありますか?自分たちなりに応えてください。

 愛する家族の皆さん、皆さんはよく知っています。家族で味わわれる本当の喜びは、何か表面的なものではなく、物質から来るものでも、好ましい状況から来るものでもないことを。本当の喜びは人と人との間の深い調和から来るのです。それは誰もがその心で体験するもので、わたしたちに一緒にいることや人生の歩みにおいて互いに支え合うことの美しさを感じさせるものです。この深い喜びの感情の深い所には、神の現存があります。家族における神の現存です。その人を迎え入れる愛、あわれみの愛、すべての人に対して尊敬深い愛があるのです。そして何よりも、忍耐強い愛があります。忍耐は神の徳であり、家族においてわたしたちにこの忍耐強い愛を一人ひとり互いに持つようにと神は教えています。自分たちの間で忍耐をもつこと。忍耐強い愛。神だけが相違に調和を作り出すことができます。もし神の愛が欠けているなら、家族も調和を失い、個人主義に苦しみ、喜びが消えます。その逆に、信仰の喜びを生きる家族はそれを自発的に伝達し合います。その家族は社会全体にとって地の塩であり、世の光であり、イースト菌(パン種)なのです。

 愛する家族の皆さん、ナザレの聖家族のように、信仰とシンプルさをもって生きてください。主の喜びと平和がいつでも皆さんと共に!

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